日本語は文字を持たなかった話し言葉としての原始日本語である「古代やまとことば」が基本になって発展し継承されてきた言語です。
文字のなかった「古代やまとことば」は漢語を利用しながらも仮名という表記文字を得たことによって、独自の文化を発展させるための基盤としての「やまとことば」として定着していきました。
したがって、日本語が持ち続けている言語としての感覚は、文字として目に見えるものよりも「ことば」としての音によるものの方が影響がはるかに強いことになります。
文字は「ことば」を想起させるための記号として存在しており、決して「ことば」そのものを書き表わし切れているものではありません。
文字が「ことば」の音としての部分を表しているだけのものであるならば、文字 → 音 → 「ことば」として行き着くことが当たり前の過程になりますが、私たちが使っている文字は音を表すものだけではありません。
音を表す二種類の仮名(ひらがな、カタカナ)に加えて文字そのものが意味を持っている漢字という文字を多用しています。
しかも、この漢字は仮名よりも社会的な地位が高いものとして扱われていますので表面的な体裁としてはどうしても漢字の方が前面に出てくることになります。
漢字は文字自体が意味を持ってしまっていますので、文字 → 意味とダイレクトに見えるものから解釈してしまうことが多くなります。
文字の本来の役割である「ことば」のもつ意味にたどり着かいないことが多くなってしまうのです。
文字の成り立ちを見てみれば分かるように、日本語においては文字は「ことば」の音としての面を表記するための記号として生まれたものです。
音によって導かれた「ことば」によって初めて意味を解釈できるものです。
したがって音読み漢字の音からは「ことば」を導くことができません。
そんな音は「やまとことば」にはないからです。
音読み漢字は外国語として「やまとことば」に翻訳するか、あるいは固有名詞としてそのまま外国語の音として解釈しておくことになります。
このことを邪魔しているのが漢字が表意文字として文字だけで意味を持っていることです。
一文字ずつの漢字の意味は「やまとことば」で表すことができます。
しかし、その意味は漢字が持っている外国語としての音読みとしての音とは何の関係のもないものとなっています。
漢字を多用することで、また音としての「ことば」よりも書かれた文字と触れる機会の方が圧倒的に多い環境において、表面的な文字としての意味だけの理解で済ませてしまうことが多くなっていないでしょうか。
文字を発明したのは持っている「ことば」の音を表記する記号を作るためでした。
そのために表意文字である漢字を苦労しながら表音文字として利用しました。
その上、意味を持たせないようにするために元の字形が分からないような省略をして純粋な表音文字としたのです。
それが仮名です。
それは、「ことば」の一つの要素である音を表記することによって「ことば」を導き出して、その「ことば」によって解釈しようとする試みではなかったでしょうか。
文字と音は「ことば」へ導くためのツールであり「ことば」によって初めて理解できるものとなるのではないのでしょうか。
そのことは、表記する手段もなかったころに漢語の音を利用して「やまとことば」表記し始めた万葉仮名による『古事記』や『日本書紀』という初期の記録においても「ことだま」や「ことあげ」として触れられています。
(参照:「ことだま」と「ことあげ」)
そこでは、自らが意思を持って発することを善しとせず、意思を持って発することができるのは神のみであるとしています。
そして、神の発する意思を感じるために「ことだま」として「ことば」として受け取ることができるものに込められたことを解釈することが書かれています。
日本語の成り立ちそのものが、自己主張をしたり説得したりするものではなく「ことば」を聞き取り相手の意思を解釈するためのものであったと思われます。
その「ことば」は文字を与えられたことによって1500年以上の間変わることなく現代に継承されてきています。
自己主張や説得には不向きな言語が日本語なのです。
したがって、外国文化の模倣によって作り上げられた自己主張や説得が必要な社会では、そのことが得意な外国の言語である漢字やアルファベットが多用されるようになるのです。
意見や主張が苦手な言語で表現された内容は、理解することも難しいことになります。
しかし、情緒的な事柄について表現することにおいてはきわめて豊かな表現方法を持っています。
それは、受け取る側でも理解しやすいことになります。
自己主張や説得が苦手な言語は発信者の言いたいことが理解しにくい言語でもあります。
そのためには、受け取る側の理解しようとする努力が必要になります。
受け止めて理解しようとする行動がない場合には、一方的な主張や説得はほとんど理解されないことになります。
結果として主張や説得そのものが相手にとって理解しにくいものであることになってしまいます。
そこには、発信者側にも受け取る側を理解しようとする活動がない限り、受取る側も理解しようとする活動ができないことになります。
それは少なくとも相手に対して役に立つことでない限り受け入れられないことになってしまいます。
日本語を用いての活動における基本は、単なる自己主張は誰にも理解されないということになります。
一方的な論理の展開は、どんなにそれが正しくともわかり易くとも表面的に理解してもらえたとしても納得してもらうことは出来ないことになります。
日本語での活動においては、正しさや正確さよりも相手の役に立つことや相手の感情に寄り添うことの方が理解し受け入れてもらえるのです。
何が相手の役に立つのかが分からないと、日本語による活動の環境が整わないことになります。
他の言語の使用国に比べて圧倒的に新規顧客の獲得が難しいのは日本語が原因であることが大きいと思われます。
日本語自体が伝えることに対して不向きな言語だと思われます。
それだけに、より一層相手を理解しようとする活動がないと表面的な関係で終わることが多くなってしまうのではないでしょうか。
批判をすることは自己主張以外の何物でもありません。
とにかく理解することに徹すことが、日本語の環境の中では一番効果的であると思われます。
相手を理解しようとする活動を具体的に相手にもわかるように行なうことが、日本語環境のなかで一番有効な活動のようですね。