時間の感覚において一番大きな影響を与えているものは「死」についての現実的可能性をどんなことで感じているかではないでしょうか。
隣国や他の民族と明確な境もなく接しておりいつでも侵略の危機を感じながら目の前で多くの命が失われていくのを経験してきている場合や、対策が確立されていない伝染病の危機に常にさらされているような場合では「死」をきわめて現実的な身近なものと感じます。
「生」の期限があることは全ての環境において平等ですが、自分の意思に関係のない「死」の恐怖が身近にあることは「生」に対しての不安定な期限のために、日々の時間に対しての感覚にも影響を与えることになります。
それは、文化的な発展を遂げ侵略に対抗するための武力や伝染病に対しての対抗策が出来上がってきても精神文化の中に蓄積されているものとなっています。
とくに侵略に対する「死」の恐怖はどんなに対抗手段としての武力を充実したとしても完全に解消することは出来ません。
侵略され侵略して身近に「死」に触れた経験は強烈な感覚として精神文化の中に刷り込まれていき「生」に対しての基本概念である時間の捉え方に大きな影響を与えていくことになります。
日本という環境における「死」に対する感覚は、自己の原因によるものがそのほとんどとなっており突然の侵略などによる突発的な「死」に対する経験は少ないものとなっています。
同一民族における侵略も経験していますが、そこでは皆殺しの歴史はほとんどなく降伏によって相手に取り込まれることで「死」を回避しているのが現実だったようです。
結果として自己自信を原因とするいわゆる自然死の状況に慣れており、自然死を持って「生」が終わることを普通の状況だと感じる精神文化を持っていると思われます。
そのために、病気による「生」の中断に対して惜しむ感覚が出来上がっているんではないでしょうか。
さらに宗教ではありながらも人々の生活の中に根付いていった仏教の感覚によって、「死」に対してすべての終わりという感覚が少ないのもの日本における特徴ではないでしょうか。
侵略と皆殺しの歴史をたどってきた中国とは仏教による影響が異なっていると思われます。
日本における「死」の感覚は、肉体的な物理的な終わりのみを意味しており精神的な霊的ものについての継続を感覚として持っていると思われます。
そのために具体的な「死」に対する個人的な恐怖については侵略の歴史の繰り返された文化よりも小さいのではないでしょうか。
結果として時間に対する感覚が侵略の歴史を重ねてきた文化の感覚よりも長いと思われます。
そのことが、精神文化が具現化された言語としての日本語の感覚の一部になっているのではないでしょうか。
何かをやることにおいて「いつまでに」という感覚に一番そぐわない精神文化になっていると思われます。
自然の脅威に対して対抗するためには、農耕共同体としての活動に根差した文化もあり個としての自分が最優先ではないものとなっています。
自己の死に対しても家や家族や共同体における所属意識から「全ての終わり」という感覚がありません。
何事かをやり遂げようとしたときに自分一人の生きている間にやり遂げるという感覚よりも、受け継ぎ発展させ次に引き渡すという継承者としての感覚が強いともわれます。
物事に対して取り組むときに最長でも自分の生があるうちにという期限の設定が苦手であり、その延長として「いつまでに」を設定することが苦手であるとおもわれます。
それよりも時間がどれだけかかろうとも達すべきレベルや役割がある範囲で定められている場合が多くなっているのではないでしょうか。
またそのレベルや役割は、一つの技術的な習練ではなく全人格的なレベルであることが多いのも社会環境における特徴ではないでしょうか。
したがって、達成度のランクを具体的な点数や協議会などで測ることに対して潜在的な疑問を持っています。
そこに至る道は点数となる要素に対して点数となるための技術を磨くことではなく、様々な分野における習練の結果としてその分野の熟達から見た時にそれに適うと評価されることで確認できると考えられているように思われます。
基準に達するための要素のみを基準に達するための点数を取るためだけに集中して行なうことは、単に看板を得るがための活動であり全人格的なレベルからの観点からは決して評価されるものとはなっていません。
いわゆる、資格や等級といったものについてその分野や環境におけるランク付けではあったとしても、その資格や等級を持たなくともそれ以上の技量を発揮できるものはいくらでもいることを分かっています。
その資格や等級が社会的に評価が高いものであればあるほど、全人格的な要素においてもその高さにふさわしいものを求めるのが日本語の環境となっています。
社会的には高いと思われている資格や等級を持っていたとしても全人格的な問題が発覚してしまうと、その資格や等級自体の社会的な評価が下がってしまうのもその特徴として上げることができます。
活動している分野においてどんなに高い技量や実績を残していたとしても全人格的な(一般には社会性とも言うのでしょうか)欠陥が見受けられる場合には村八分の対象となってしまいます。
したがって、日本語を母語として持っている感覚としては時間に対してお金を払うという感覚は馴染みにくいことになります。
明確な役割やレベルを定めることに対しても抵抗があることになります。
基本的な役割を設定することは必要ですが、その役割にかかわることについてはかなり離れていると思われることでもカバーしていくことが前提となっていると思われます。
これが農業共同体や村社会で生きていくための基本的な活動となっていたのではないでしょうか。
何をいつまでにどのレベルでといった計画を立ててその通りやりきることが極めて苦手な感覚となっているのです。
具体的に何をを定めることも苦手ですので、どのようにまたは誰のようになりたいというかなり抽象的な目標設定になります。
したがって感覚的にはもちろんですが現実的にも期限を決めるということが苦手になっているのです。
村八分として交際を絶たれたとしても、二分については共同活動として残しておくという意味合いが含まれています。
村で行なう共同活動は全部で十(冠、婚、葬、出産、病気、建築、火事、水害、年忌、旅行)村八分とはそのうちの八つについて村としての援助を受けられないことを意味しています。
村八分になっても葬儀と火事については村全体にかかわることとして面倒を見ていたのです。
完全否定という形ではない、YESかNOではない中庸の中での役割分担がきちんとできていたのです。
右か左かではない日本語の持っている精神文化の感覚を代表しているものではないでしょうか。
あらゆることにこの感覚は生きていると思われます。
その感覚が反映された言語が現代まで継承されて使われているのですから、基本的な感覚として残っているものと思った方がいいのではないでしょうか。
何を表現しようとも言語で行なわれます。
その言語自体にこのような感覚があるのですから、どんなに限定的に表現しようとしても欧米のような感覚にはならないのです。
時間の感覚についても同じことが言えるのではないでしょうか。
計画が上手く立てられないことや期限通りに達成できないことに対して必要以上に罪悪感を感じている人が多いように思います。
日本語で考え表現している以上、こういった活動は苦手なのです。
具体的な目標を設定して期限通しにやりきって結果を手にする活動は、欧米言語による目標達成方法だったのです。
日本語に適した方法があります。
状況対応型の言語である日本語には、それにふさわしい目標達成の方法があるんですね。
(参照:日本語感覚の基本は状況対応型)