2015年9月28日月曜日

「征夷大将軍」という看板

「征夷大将軍」は「東夷(とうい)」を征伐するために任命された(大)将軍の一つであり、太平洋側から東北へと攻め上がって行く軍を率いた者のことです。

同じ「東夷」に対して日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)であり、「西戎(せいじゅう)」である九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)でした。


「東夷」征伐の役割としては「陸奥鎮東将軍」(古勢麻呂:709年)や「征夷将軍」(多治比縣守:720年)、「征東将軍」(大伴家持:784年)、「征東大将軍」(紀古佐美:788年)などがあります。

それでも、初代の「征夷大将軍」としては790年に「征東大使」に任命された大伴弟麻呂を指すことが多いようです。

それは『日本記略』に記された、794年に征夷大将軍としての節刀(せつとう:天皇より渡され任命の印とする古刀)を賜ったとする内容が大きいと思われます。


「征夷大将軍」として東北全土を平定したのは二代目の坂上田村麻呂であり、それまで頑強に戦ってきた蝦夷を胆沢で打ち破り平定しました。

坂上田村麻呂は初代の大伴弟麻呂の副官であり、直接軍を率いて指揮をして797年に征夷大将軍に昇格しました。


「征夷大将軍」は朝廷における令外官(りょうげのかん)の一つです。

令外官は律令によって定められた官職以外のことであり、神祇官、太政官(太政大臣、左大臣、右大臣、大納言など)に代表される中央の律令によって定められた官職とは異なるものです。

その令外官の代表は、摂政、関白、内大臣、検非違使、勘解由使などがあります。

臨時に設けられたり新たに設けられた官職がこれにあたります。

したがって、武士に当てられた官職は中央の政治に対しては発言権の少ない令外官がほとんどだったことになります。


坂上田村麻呂による平定の後でも、小競り合いは続いていたために「征夷大将軍」が任命されていますが実際に軍を率いて戦に向かった者はいなかったと思われます。

940年には藤原忠文が、1184年には源義仲が「征東証軍」に任じられていますが、これらは本来の「蝦夷の征伐」を目的としたものではなく名誉の役職の一つとして与えられたものと思われます。


この「征夷大将軍」にその後に見られるような「武家の棟梁」「幕府を開くための権威」的な要素を与えることになったのが、源頼朝が考え出した鎌倉幕府の戦略でした。

源頼朝は当初、東国武士団の棟梁でしかなく、律令制下における地位を持っていませんでした。

即ち、朝廷から見れば当初は平将門などと同じく地方叛乱の首領という扱いでしかなかったのです。

その頼朝の政権構想には、先行モデルとして平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権のイメージが練られたのではないかといわれています。


令外官である「征夷大将軍」は常設された役職ではなく臨時の遠征軍としての役職になります。

頼朝は「権大納言右近衛大将」という律令上の役職を得て公卿という身分になって、自分の個人的な一族を取り仕切る体制を政所として朝廷から公認されることになります。

権大納言は律令上の官位の大納言ですが、定員2名に対して定員外であることを示すために「権」がつけられたものです。

右近衛大将は武家としては最上位の近衛府の長ですが、近衛府自体が令外の役所ですので正規の律令官である太政官には及びません。

近衛府は朝廷の警備が主な責務であり地方に対しての権限を持っていませんでした。


直前の政権である奥州藤原氏には「鎮守府将軍」の地位があり自らの御所を「柳の御所」「柳営」と称していました。

「柳営」とは幕府の別名のことです。

「鎮守府将軍」は陸奥国と出羽国において地方統治権を与えられた地位だったのです。


頼朝は平氏政権を破ったとはいえ奥州には藤原氏があり、これを打つための名分をも必要としていたのです。

ひとたび中央の官職を得てしまえば公卿としての身分は安泰であり、その官職で持ちえた権利は「先の右大将」として厳然たるものがあることは現代にも通じるものがあると思われます。


頼朝は3つの狙いを持っていたと思われます。
  • 東国武士の棟梁として君臨する、朝廷からのお墨付きを得た地位
  • 守護・地頭を全国に置き、軍事警察権を行使する公的な権限
  • 右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限

律令制の中の官位での活動しかできず朝廷から独立した統治をできなかった平氏政権を見て、義仲や義経のように朝廷に役職で躍らされた武家を見て、また奥州の田舎で全国を見ることをなかった藤原氏を見てきた頼朝が目指したものは、朝廷から独立した武家による全国政権だったのです。

頼朝も平氏討伐が終わったころには「征夷大将軍」の任命を求めていました。

奥州藤原氏討伐に格好の役職だったのではないでしょうか。

結局、「征夷大将軍」任命されたのは欧州討伐が終わった後でした。

朝廷としては自ら奥州の統治権を与えた藤原氏を討つための名目を頼朝に与えるわけにはいかなかったのではないでしょうか。

頼朝は二年後には「征夷大将軍」の返上を申し出たとされていますが、押しとどめられたとされたとなっています。


この「征夷大将軍」は「東夷」征伐のために臨時の役職でしたが、討伐地における統治権を有する物であったのです。

頼朝以降の「征夷大将軍」には「右近衛大将」が付いてくるようになりました。

坂上田村麻呂の時代の「征夷大将軍」は四位上でした。

源頼朝は従二位権大納言右近衛大将の「征夷大将軍」でした。

後の徳川家康は従一位右大臣で「征夷大将軍」でした。


どんどん朝廷の立場が弱くなっていることを見ることができるのではないでしょうか。

秀吉は源氏の流れにない家系あるために「征夷大将軍」になれなかったために「関白」となったと言われています。

また、家康は「征夷大将軍」になるために吉良家の家系を借りて源氏の家系であることを偽造したと言われています。


しかし、源氏でなければ「征夷大将軍」になれないという慣例も規定も実際にはなかったとも言われています。

武家の棟梁として朝廷より認められた官位としての「征夷大将軍」が、あたかも武家が幕府を開くためのお墨付きであるかのような誤解は、頼朝以降の武家と朝廷の権力争いのなかで、武家に対して一番安易に与えらえた官位であり朝廷側にとってはあまり実権のない官位であったからではないでしょうか。

反対に、武家にとっては武家の棟梁を表すものとして朝廷から認められたものとしての意味を持っていたと思われます。

実際の武家社会の中では朝廷とのかかわりはほとんどなかったとも言えるのではないでしょうか。


武家の政権として朝廷とは異なった統治を作り上げたのは、源頼朝による全国への守護地頭の配置であり、この統治権を朝廷に認めさせたことです。

そのための権利がすべて「征夷大将軍」という看板によって代弁されるようになったのではないでしょうか。


全国を平定した武家の棟梁が「征夷大将軍」というのもおかしな名称ではありませんか。

原意から大きく離れてしまった「征夷大将軍」は、家康が本当に三年間もの朝廷対策を費やして欲しかったものなのでしょうか。

吉良家の暗躍はそのためだけだったのでしょうか。

一御家人である吉良家に対する徳川歴代の気の配り方は何を意味しているのでしょうか。


徳川家康の作られた家系図としての清和源氏の家系は、清和天皇から続いて源義家、源義国を経て新田氏の一族である下野国新田荘世良田得川郷に住んでいた得川四朗義季の八代目の子孫であるとされているものです。

源義国の二人の子どもが新田氏と足利氏となり、足利氏の子孫が吉良氏になっていくのです。


朝廷が望んでいた全国平定の武家は吉良氏の分家である今川家でした。

清和源氏の正当な血統を持った名門の武家であったのです。

言い方を変えれば朝廷の流れをくむ血統だからです。

その今川氏がどこの馬の骨だかわからない織田氏に敗れたことによって、混沌とした戦国時代となってしまったのです。


「征夷大将軍」という言葉は戦国ロマンだけではなく朝廷と武家との権力闘争をさまざまな形で想像させてくれます。

まさしく「征夷大将軍」という「ことば」の意味するところを探っていきたくなりますね。