国語辞典の意味の最初に載っているような標準的な意味として解釈してしまうと意図を読み間違えてしまうことになります。
その一つに「理解を求める(してもらう)」という感覚があります。
言葉通りに解釈すれば伝えたい内容を文字通り理解するということになるのですが、この言葉に込められた意図としては単なる理解を越えたことを求めていることが多くあります。
自分でも頻繁に使ってしまっているのであまり気がつかなかったところですが指摘されれば確かにそうだと思いました。
自分が「理解を求める」として使った時の意図としては内容を分かってもらうことはもちろんなのですが、それ以上の同意までを求めていることに気がつきました。
積極的な同意までいかなくとも、少なくとも反対をしてもらわないように説得をするというニュアンスが込められていることが多いのです。
つまり、言語的な内容をわかってもらうだけではなくこちらの状況を斟酌して積極的に反対することを遠慮してもらいたいということになっているのです。
この時に、理解を求める側からは「反対を遠慮してもらいたい」あるいは「同意をいただきたい」ということは直接的な表現では伝えることはありません。
「理解を求める」という言葉に込められた意図は、内容を理解してほしいということよりも同意してほしい、あるいはもう少し消極的には反対をしないでほしいということになるのではないでしょうか。
「ご理解いただけましたか」は内容をわかったということではなく、少なくとも反対は表明しないという意思確認のためのひとこととして使われているようです。
学生の時には「理解する」に対してこのような解釈が必要な場面はありませんでした。
素直にきちんと内容を理解することだと解釈して間違いがなかったと思いますしそれ以上の解釈も求められていなかったと思います。
使われている言葉自体が変化したわけではありませんし、その通りの解釈で良い場面もたくさんあるのも現実ではないでしょうか。
その言葉がもともと持っていた意味から広がっていくこともありますし比喩として使用されることもあると思われます。
また、単なる言葉としての「理解」ではなく「理解を求める」という使い方によって一般的な「理解」とは異なった解釈が必要であると匂わせているようなニュアンスにもなっています。
ひとつの言葉が持っている意味はその言葉が使われる場面が増えるほど拡大解釈できる環境が広がっていくことにもなります。
専門用語や業界用語と言われるものの中には全く同じ言葉でありながらも一般的な意味とは異なった独自の意味を持たせているものもたくさん存在しています。
また、一般人にはすぐに悟られることを避けるためにわざとわかり易い言葉に対して別の意味を持たせているようなこともあります。
軍隊用語であったり正確さが求められる環境においては、使用する言語に対して厳格に一言一義を貫いているところもあります。
それに対して例に挙げた「理解を求める」は腹芸ともいえる根回しのための言語利用の方法ではないでしょうか。
日本語が持っている基本的な性格としての二面性ということができるかもしれません。
二面性という表現はどうしても両極端を思い浮かべてしまうことになります。
これは二面性という言葉に対して精確さや厳格さを前提とした見方になります。
日本語の持っている性格をより的確に表現するとしたら二面性よりも多様性ではないでしょうか。
言葉によっては正反対の意味を兼ね備えた言葉もあれば同じような意味をたくさん持っている言葉もあります。
日本語の使用環境がそれだけの自由な解釈や使い方が可能なものになっているからだと思われます。
明治期に新しい言葉を生み出した数は広辞苑一冊分にも相当する20万語を超えるものとなっています。
ちょっとした独立した言語体系に匹敵する数になっています。
それで終わりではなかったのです。
新しい言葉が生まれる環境や新しい使い方ができる環境は常に存在しているということができます。
高校生が次から次へと新しい言葉を生み出す環境は誰かが編み出したものではありません、自然にできあがっているものです。
日本語は造語力に優れた能力を持っているだけではなく、言葉を自由に使いこなすことが可能な環境を備えた言語になっていると思われます。
しかも、その対応は外来語である漢字やアルファベットによって行なわれたり、音を中心とする言葉はカタカナによって行なわれるというバリエーションを持っているのです。
これだけの変化が常にできる環境にあるのが日本語という言語環境だと思われます。
しかし、これだけ激しい変化が常に起こっていたら基本的な言語としての役割である共通理解のためにはとても不便な言語となってしまいます。
これだけの柔軟性や拡張性を持ちながらも基本的な共通言語として「ひらがなことば」をきちんと持っていることが素晴らしいことだと思います。
ひらがなは外来語である漢字(漢語)を利用して生み出されたものです。
その生み出し方も中国が行なったサンスクリット語の漢字による音訳に倣ったものです。
(参照:「悉曇学」と日本語)
文字のない時代に日本民族が持っていた「古代やまとことば」を表記するために漢字から生み出された文字がひらがなです。
「ひらがなことば」は「やまとことば」を継承して2000年の文化を引き継いでいる言語となっています。
単語としては漢字やアルファベット・カタカナを使って新しい言葉をたくさん生み出してきましたし今現在でも生み出し続けています。
生み出された単語をつないでいるのも「ひらがなことば」なのです。
単語同士の関係や論理を作っているのは「ひらがなことば」になっているのです。
単語の羅列だけでは不可能である論理を作っているのも「ひらがなことば」のお陰です。
「ひらがなことば」による伝統に裏打ちされた基本的な性格や感覚を継承しながら常に新しい言葉や使い方を生み出していくことが可能となっている日本語は、他のどんな言語と比較しても最高の知的活動のための道具であると言えるのではないでしょうか。
現代における基本的な「ひらがなことば」である「現代やまとことば」を理解しておくことが、より自由な日本語を使いこなしながらも基本的な性格や感覚から逸脱しない日本語として生かしていく方法ではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、「現代やまとことば」を経験する(1) など)
最高の知的活動の道具を持っていて日本語環境の中だけで生きていく場合には他の言語について考える必要は全くありません。
しかし、世界に対して発信していく必要がある場合にはどうしても世界の公用語としての英語での発信を考えなければならなくなります。
つまり英語は知的活動のための道具として必要なのではなく、日本語で行なわれた知的活動の結果を世界に対して発信するときにだけ必要なものです。
英語の付き合い方もより明確になってきているのではないでしょうか。
日本語の持っている知的活動具としての優秀さやその基本である「現代やまとことば」についてご理解を求めたいと思います。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
「ひらがなことば」による伝統に裏打ちされた基本的な性格や感覚を継承しながら常に新しい言葉や使い方を生み出していくことが可能となっている日本語は、他のどんな言語と比較しても最高の知的活動のための道具であると言えるのではないでしょうか。
現代における基本的な「ひらがなことば」である「現代やまとことば」を理解しておくことが、より自由な日本語を使いこなしながらも基本的な性格や感覚から逸脱しない日本語として生かしていく方法ではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を使おう、「現代やまとことば」を経験する(1) など)
最高の知的活動の道具を持っていて日本語環境の中だけで生きていく場合には他の言語について考える必要は全くありません。
しかし、世界に対して発信していく必要がある場合にはどうしても世界の公用語としての英語での発信を考えなければならなくなります。
つまり英語は知的活動のための道具として必要なのではなく、日本語で行なわれた知的活動の結果を世界に対して発信するときにだけ必要なものです。
英語の付き合い方もより明確になってきているのではないでしょうか。
日本語の持っている知的活動具としての優秀さやその基本である「現代やまとことば」についてご理解を求めたいと思います。
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