本当に違っているのかどうかがはっきりと分からないから違和感なのであり、理由は説明できないけれど違っていそうな感じがするという程度のものです。
違和感が訪れるためには対象となる事や物に関しての何らかの論理的な説明のつく知識を事前に持っていなければなりません。
それは誰かから教わったことかもしれませんし自分の経験によるものかもしれません。
持っている知識に対して合致しない何かが違和感を抱かせていることになります。
すべての事や物が自分の持っている知識や論理通りに存在し変化しているとしたら、違和感を持つ機会は訪れないのではないでしょうか。
ところが実際には完璧な論理やすべての現象を説明できる不変の定義などありませんので必ずどこかで違和感を抱くことになります。
専門家と言われる人たちは一般人よりも特定の分野における知識や論理をたくさん持った人たちです。
しかも、特定分野において掘り下げていますので一般人よりも特殊な状況や環境において得ている知識や論理が多いことになります。
専門家が専門分野において持っている知識や論理は、一般的な環境よりも限定された環境において適用されているものということができます。
その限定された環境が前提となるものであり、同じ前提にあるものであれば同じ結果になるという不変の論理を探求していくのが専門の研究者といえる者ではないでしょうか。
したがってより研究の深い専門家ほどより細分化された知識と経験を持っていることになります。
そのために、それらの知識や経験を持たない人よりも違和感を抱く機会が多くなることになります。
つまりは研究深度の深い人ほど違和感を感じる場面が多いことになります。
大切なことはその違和感とどのように付き合うかということになります。
自分の持っている感覚と違うということで違和感を切り捨ててしまうこともあり得ますし、何としても違和感の正体を突き止めようとする姿勢を見せることもあるのではないでしょうか。
違っていることを無視することは簡単です。
受け入れなければいいだけのことですし誰に迷惑をかけることでもありません。
抱いているのは違和感ですので違っているとはっきりと分かっているものでもありません。
自分の持っている知識や論理を否定するものでもありません。
その段階で切り捨てて無視してしまうことは自分の持っている既存の知識を固定化させてしまい刺激する機会を失することになります。
違和感を無視することで自分の持っている知識や経験で説明のつくことばかり何の刺激もなく全てが過ぎていきます。
何かに関心を持つこともなく刺激もなく過ぎていくことになります。
好奇心や興味は違和感から始まっているのです。
違和感があることによって注意が向けられ意識が集中されるのです。
人の話を聞いているときのことを思い浮かべて見てください。
自分の知っていること経験したことを聞いていても興味も持てなければ刺激も受けないのではないでしょうか。
ちょっとした違和感があると意識が向けられ記憶にも残るのではないでしょうか。
好奇心や探究心の原点は違和感にあると思われます。
ふと感じた違和感を大事にすることで、固定概念や独りよがりから解放される可能性が高くなるのではないでしょうか。
違和感の正体を確かめるまでのことはしなくとも違和感を持ったことさえ感じられれば何らかの注意や意識に残ることになると思います。
全ての違和感に対してその正体を明らかにすることは不可能ですが、多少なりとも掘り下げることは出来るのではないでしょうか。
違和感にこだわることによってさらに意識に強く残るものとなると思われます。
そもそも違和感の正体そのものが、既に自分の持っているものとの感覚的な違いにあります。
論理や意識として違いに気がつかないことでも「?」として気がつくきっかけを与えてくれているものです。
無視して切り捨ててしまうにはもったいなくありませんか。
全ての「?」が「なるほど」につながる訳でもありませんが、そのうちのいくつかが「なるほど」になれば新しい自分の持ち物が増えるのではないでしょうか。
自分の持ち物がどんどん細かいものになっていくことによってその目から漏れるものも減ってくるのかと思いそうですが、実際は逆になるようです。
細かくなると言うことは持っている知識や経験の前提となる環境がどんどん特殊な限定されたものになっていくからです。
専門的なことが深まるにつれて持っている知識や経験はどんどん細分化されていきその前提はどんどん限定化されていくことになります。
すると極めて一般的なことに対して「?」となり違和感を抱くことが起きてきます。
合致しているものは安心して受け流してしまいますが違和感については心に引っ掛かるものとなっているのです。
その違和感をあらためて解明していくことで知識や経験が浄化されより一般化されていくのではないでしょうか。
専門的な知識や経験に比べれば一般的な現象や物は抽象的であり前提が明確になっていないことが多くなります。
そこに専門的なことを当てはめると違和感どころか明確な違いがいたるところに見つかることになるでしょう。
それでも違和感を感じることだけで自分の持っている知識や経験をチェックすることが可能となっていると思われます。
年を取るほどに違和感に対して無視することが増えているのではないでしょうか。
年に関係なく知的活動の活発な人はとても好奇心が強いように感じます。
そのもとは違和感との付き合い方かもしれないですね。
大事に付き合ってみませんか、違和感と。
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その段階で切り捨てて無視してしまうことは自分の持っている既存の知識を固定化させてしまい刺激する機会を失することになります。
違和感を無視することで自分の持っている知識や経験で説明のつくことばかり何の刺激もなく全てが過ぎていきます。
何かに関心を持つこともなく刺激もなく過ぎていくことになります。
好奇心や興味は違和感から始まっているのです。
違和感があることによって注意が向けられ意識が集中されるのです。
人の話を聞いているときのことを思い浮かべて見てください。
自分の知っていること経験したことを聞いていても興味も持てなければ刺激も受けないのではないでしょうか。
ちょっとした違和感があると意識が向けられ記憶にも残るのではないでしょうか。
好奇心や探究心の原点は違和感にあると思われます。
ふと感じた違和感を大事にすることで、固定概念や独りよがりから解放される可能性が高くなるのではないでしょうか。
違和感の正体を確かめるまでのことはしなくとも違和感を持ったことさえ感じられれば何らかの注意や意識に残ることになると思います。
全ての違和感に対してその正体を明らかにすることは不可能ですが、多少なりとも掘り下げることは出来るのではないでしょうか。
違和感にこだわることによってさらに意識に強く残るものとなると思われます。
そもそも違和感の正体そのものが、既に自分の持っているものとの感覚的な違いにあります。
論理や意識として違いに気がつかないことでも「?」として気がつくきっかけを与えてくれているものです。
無視して切り捨ててしまうにはもったいなくありませんか。
全ての「?」が「なるほど」につながる訳でもありませんが、そのうちのいくつかが「なるほど」になれば新しい自分の持ち物が増えるのではないでしょうか。
自分の持ち物がどんどん細かいものになっていくことによってその目から漏れるものも減ってくるのかと思いそうですが、実際は逆になるようです。
細かくなると言うことは持っている知識や経験の前提となる環境がどんどん特殊な限定されたものになっていくからです。
専門的なことが深まるにつれて持っている知識や経験はどんどん細分化されていきその前提はどんどん限定化されていくことになります。
すると極めて一般的なことに対して「?」となり違和感を抱くことが起きてきます。
合致しているものは安心して受け流してしまいますが違和感については心に引っ掛かるものとなっているのです。
その違和感をあらためて解明していくことで知識や経験が浄化されより一般化されていくのではないでしょうか。
専門的な知識や経験に比べれば一般的な現象や物は抽象的であり前提が明確になっていないことが多くなります。
そこに専門的なことを当てはめると違和感どころか明確な違いがいたるところに見つかることになるでしょう。
それでも違和感を感じることだけで自分の持っている知識や経験をチェックすることが可能となっていると思われます。
年を取るほどに違和感に対して無視することが増えているのではないでしょうか。
年に関係なく知的活動の活発な人はとても好奇心が強いように感じます。
そのもとは違和感との付き合い方かもしれないですね。
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