世界の公用語としての立場をますます強固にしている英語との比較は、まさしく世界のスタンダードとの比較であり、世界における日本の特徴そのものを教えてくれているものではないでしょうか。
今回は英語と日本語をそれぞれ母語として持っている国の義務教育としての言語教育として重視していることについて触れてみたいと思います。
義務教育において求められている言語能力は、その社会における言語能力として何が求められているのか何が重視されているのかということに他なりません。
社会を生き抜いていくためにはどのような言語能力が必要とされているのかということでもあり、社会文化を支えるために必要な基本的なコミュニケーション能力としてどんなことが重視されているかということでもあります。
言語が持っている基本的な性格は、その言語を習得する義務教育を見るとよく分かるのではないでしょうか。
言葉の綴(つづり)や意味を習得するのは当たり前ですが、英語の義務教育においては早い段階から覚えた言語による自己表現を行なうようになります。
話して何かを伝えることが生きていくためのもっとも重要な技量であると位置付けられているからです。
一方で、日本の義務教育において国語が最も重視していることは、伝えるための技量ではなく解釈するための技量となっています。
そのためにどんなに学年が上がっても解釈するために必要な言葉を覚えることや漢字の書き取りによって意味を覚えることが中心になっているのです。
ある程度言葉が習得できてくると国語における中心的な内容は与えられた文章を解釈することになってきます。
文学作品からコラム、古文や漢文、詩歌や俳句など様々な表現に対して解釈する技量を身につけさせようとしています。
そこでは解釈することが中心であり、その表現技法を習得することは目的とはなっていない場合がほとんどです。
これはそれぞれの言語を持つ民族が長年にわたって築き上げてきた文化的な背景によるものであると言えるのではないでしょうか。
その結果としてそれぞれの言語が持っている基本的な性格となっているものだと思われます。
重視される能力については当然のように時間が割かれ様々な習得方法が行なわれていくことになります。
英語の義務教育を見ていくと、まずは一対一の会話から始まり複数の中での表現ができるように言語を使う環境を変化させていきます。
クリティカルシンキングが論理の底辺にありあらゆることにおける基礎力と定められていますので、言語においてもあらゆる環境でこれを表現し使いこなせるようにすることが求められています。
そのためにクリティカルシンキングにもとずいた説得術が中心となり、ディベートやプレゼンテーションといった様々な場面に応じた表現能力を習得できるようにしていくことになります。
話しことばによる表現は即応性が重視された表現の表れであり演説においても一方的な話し方はほとんどしません。
聞いている人たちの反応を煽るような感動させるような表現能力が求められます。
また、書くことにおいては一段と進んだ論理性が求められることになり言葉遊び的な作品は少なく論理だった論文やHow to的なものの方が表現しやすいものとなっています。
日本語は伝えることよりも解釈することに重点が置かれていますので、伝えるための言語技術は義務教育や一般的な学校教育を修了した後で個人として磨くことしかできなのが普通です。
その中で磨き上げられた漫画という技術は世界に誇る日本語の表現技術であり、作画技術と相まって世界でも屈指の言語技術となっています。
英語でもcartoon, comicというカテゴリーはありますが日本におけるような漫画としての領域とはなっていません。
絵で状況を説明しながらできるだけ少ない言葉で会話を成り立たせていくものが漫画という表現技術ではないでしょうか。
文章だけでの場面もたまにはありますが、基本は登場人物による吹き出しを使った会話が中心となっているものです。
そこで使われる言葉は漢字を利用しつつもすべて読み仮名が打たれていることが基本となっています。
つまりは、ひらがなが読める人であればだれでもが読むことが可能となっている作品なのです。
会話のやり取りを口語体で短い言葉で表現しながらストーリーを進めていくのが漫画の技術となっていると思われます。
難しい内容についても漫画にすることによって誰でもが親しみやすくわかり易いものになることになります。
漫画の登場人物の描写においても日本語の表現による文化的な背景が滲み出ていることがよく分かります。
悲しい場面で登場人物が涙を流している絵があっても、「悲しい」と言葉にしている状況はほとんどないのではないでしょうか。
直接的な表現を善しとしない日本語の感覚がここにも影響しているのだと思います。
近年では海外のビジネス書を漫画で表現したものがヒットしたりしています。
文字で書かれた本であっても原語で読む場合でない限り著者のニュアンスは伝わってきません。
日本語に翻訳された段階で、伝えたいことの基本的な感覚は翻訳者のものとなってしまいます。
翻訳物を読むときの注意点はここにあります。
翻訳本の内容は翻訳者の解釈によって成り立っているものであり、どんなに著者の原意を表現しようとしてみても言語が変わった瞬間に元の感覚を反映できなくなることが当たり前のことになります。
それでも英語で表現されたものは、表現者の意図が明確にわかり易く行なわれていますので解釈できる幅はある程度限定されたものとなっています。
これは日本語と比較した一般的な場合のことであり、表現する内容や一つひとつの表現については個々に見ていく必要があることは言うまでもありません。
日本語の場合はよほど表現技術に優れたものでもない限り、解釈できる幅はかなり広いものとなります。
話し手の意図を理解するためには、日本語の場合の方が非言語による表現を上手く理解する必要があるということになるのではないでしょうか。
嫌味として使用される敬語や丁寧語などは、言い方のニュアンスや場面における相応しさなどを考慮しないと言葉通りに受け取ることができないものとなっている典型ではないでしょうか。
それでなくとも難しい敬語の使い方にこのような本来は敬語ではない場面で使われることがあることは日本語を母語としない者にはとても分かりにくいものです。
同じテーマについて英語と日本語で議論をした実験があります。
結論が異なったり議論の展開が異なったりすることは当然にしても、日本語の方が結論に至るまでより多くの時間を必要とした結果があります。
発信側の技術が磨かれていないために幅広い解釈が可能となる表現になっていることと、一つひとつの言葉が持っている意味おいても広い幅が存在していることでどうしても議論の内容が英語ほどの具体性を維持できていけないことが原因となっているようです。
参加者が多ければ多いほど「総論賛成、各論反対」という結論が多くならざるを得ないのが日本語による議論の特徴となっています。
具体的な施策を決定する必要がある場合には少人数による決定が向いているのも日本語の環境における特徴です。
英語と比較すると日本語によるコミュニケーションの特徴が見えてくると思います。
発信者の意図を理解させることはとても難しいことになります。
意図を理解させるための言語としては向いていないのが日本語になります。
発信した表現についての解釈は受信者に任せることになります。
それぞれの受信者において独自の解釈がなされていることを容認しているのが日本語の環境となります。
それでも意図を伝えたいときにはより多くの人が共通的な理解をすることが可能となっている限定的な意味を持った表現をすることになります。
これが同じ環境でしか理解できない専門用語であったり固有表現であったりすることになります。
物を表現するときにいちばん正確な表現は固有品番であり製造番号です。
しかし、それでは一般の人には何を示しているのか全く分かりません。
アルファベットと数字の塊から物を想像することはそのものに馴染んでいる人でしかできません。
しかし、その表現を記録することで調べることは可能です。
そこでは表現もされていない形や重さや仕様なども知ることが可能となります。
伝える側がどこまでの精度を求めるのかは受信側の解釈能力にかかっていることになります。
日本語が持っている基本的な性格として発信側の意図をきちんと伝えることが大変難しい言語であることを知っておきたいと思います。
その代り、言語として表現していない様々なことが勝手に解釈されていることも知っておきたいことです。
この性格を理解して上手く利用していきたいものですね。
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結論が異なったり議論の展開が異なったりすることは当然にしても、日本語の方が結論に至るまでより多くの時間を必要とした結果があります。
発信側の技術が磨かれていないために幅広い解釈が可能となる表現になっていることと、一つひとつの言葉が持っている意味おいても広い幅が存在していることでどうしても議論の内容が英語ほどの具体性を維持できていけないことが原因となっているようです。
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具体的な施策を決定する必要がある場合には少人数による決定が向いているのも日本語の環境における特徴です。
英語と比較すると日本語によるコミュニケーションの特徴が見えてくると思います。
発信者の意図を理解させることはとても難しいことになります。
意図を理解させるための言語としては向いていないのが日本語になります。
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それぞれの受信者において独自の解釈がなされていることを容認しているのが日本語の環境となります。
それでも意図を伝えたいときにはより多くの人が共通的な理解をすることが可能となっている限定的な意味を持った表現をすることになります。
これが同じ環境でしか理解できない専門用語であったり固有表現であったりすることになります。
物を表現するときにいちばん正確な表現は固有品番であり製造番号です。
しかし、それでは一般の人には何を示しているのか全く分かりません。
アルファベットと数字の塊から物を想像することはそのものに馴染んでいる人でしかできません。
しかし、その表現を記録することで調べることは可能です。
そこでは表現もされていない形や重さや仕様なども知ることが可能となります。
伝える側がどこまでの精度を求めるのかは受信側の解釈能力にかかっていることになります。
日本語が持っている基本的な性格として発信側の意図をきちんと伝えることが大変難しい言語であることを知っておきたいと思います。
その代り、言語として表現していない様々なことが勝手に解釈されていることも知っておきたいことです。
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