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2016年7月25日月曜日

言語情報は耳から

日常生活において得ている情報のほとんどは視覚によって得ているものと言われています。

その比率は研究者や実験方法によっても60%から90%程度と異なっていますがどの結果からも半分以上を占めていることは間違いがないようです。

二番目の聴覚に比べると10倍以上というデータもあり、視覚は情報収集のための一番大切な受信器官となっています。


ところが情報の対象が言語情報ということになるとこの比率が大きく変わってくることになるようです。

言語情報についてはその80%を聴覚によって得ていると言われています。

言語を理解するためには「きく」という行為が一番大切なことになるようです。


すべての言語について同じことが言えるのかどうかは少し考えてみる必要がありそうです。

文字を持たない言語であれば聴覚による情報が100%かもしれませんし、日本語のように四種類の文字を持ちしかもそのうちの一つは漢字という文字自体に意味を持っている表意文字である場合には視覚による情報もある程度の比率は占めているものと思われます。

中国語のように表意文字である漢字しか持たない言語においては視覚による言語情報もそれなりの割合があるのではないでしょうか。

しかし、日本語のについてこのような実験データを見たことがあまりありませんので何とも言えないところです。

それでも、中国語以外の他の言語に比べると文字に頼った伝達が多いことは間違いがないと思われます。
(参照:文字頼みの日本語)


この種の実験で一番有名なのものが、アメリカの心理学者であるアルバート・メラビアンが行なったものではないでしょうか。

特殊条件下における状況を扱ったものなのですが誤った解釈が広まってしまい、「人は見た目が一番重要」あるいは「話の内容よりも喋り方のテクニックが重要」という結論が導き出されると言うことが起きてしまっています。
(参照:メラビアンの法則 [ウィキペディア])


いくら日本語が文字に依頼することが多い言語であるとはいっても、口頭による聴覚に頼った情報の方が多くを占めていることには間違いはないと思われます。

それは、言語の成り立ちを見てみてもわかることですし、日常生活を振り返ってみてもわかることではないでしょうか。

視覚に頼った言語伝達では視覚に訴えるための書くという過程なりツールを必要としていますが、聴覚に訴える場合には何の準備も必要としておらず即時に対応することができるものとなっているからです。

視覚による言語伝達は聴覚による場合よりも準備を必要としている分だけ割合が減ってしまうことは仕方のないことだと思われます。


聴覚による情報は視覚による情報に比べると瞬間的なものが多くなります。

視覚による情報はその場に捉えることができたものが存在し続ける限り何度でも確認できることになります。

しかし、聴覚による情報は録音でもされていない限りは同じ対象を再確認することはほとんどできないものとなります。

したがって、聴覚による情報は視覚による情報に比べるとより短い瞬間的な時間で認知しなければならないことになります。


しかも聴覚的な言語情報は一つの音にとどまることなく連続的に言語の音が押し寄せてきます。

それは聞き手によってコントロールできるものではなく聞き手による認知能力の違いを無視したものとなっています。

さらに、視覚による言語情報は受け手の意思によってその情報に集中することができ同時に存在する他の情報を遮断することが可能ですが、聴覚の場合は同時に存在する音情報を消すことはできません。

聴覚による言語情報は視覚による場合よりもかなり精度として落ちることは仕方のないことになると思われます。


さまざまな音が存在する中で言語情報であるということを認識するだけでも大変なことだと思われます。

そのために母語として幼児期より馴染んできた言語が持っている周波数帯については、聴覚がとても敏感に鍛えられていることになっているのだと思われます。
(参照:周波数から見てみた言語)

日本人が音楽や録音についても重低音域に対して敏感でうるさいのは世界的にも認められている特徴となっています。

これは日本語が持っている周波数帯が低音域に集中しているために、その中で音から言語を聞き分けるために磨かれてきた能力ということができます。


言語情報がどのような伝わり方をしているのかは、聴覚が中心となっていることからも一般的な情報を視覚から得ている場合としっかりと区別して知っておく必要があると思われます。

音を聞き分けるだけでも大変なことなのに、言語としての音を聞き分けてさらに言葉の音としての捉えるための活動は決して簡単なものではなさそうです。

どのようにして言葉としての理解に至っているのかを知ることは、話して伝えるための基本的な知識として大切なことになります。

補助的な情報として文字情報を使うこともありますが、ほとんどの情報を聴覚から得ている以上はそのことに対しての対応の方が大切になります。

日本語の持っている音について改めてきちんと考えてみる必要がありそうですね。
(参照:日本語で話していること)


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2016年4月13日水曜日

きき手の推測を楽にする言葉

五回にわたって「きく」時に行なっている知的活動を見てみました。
(参照:「きく」の五段階活用(1)・・・聞く)

想像しているよりもはるかに大変な知的活動をしている事を理解してもらえたのではないかと思います。


これは日本語という言語だからこその独特な解釈するための知的活動となっているのです。

その大きな原因は使用している文字にあります。

同じ音としての言葉であっても文字として表記するときには、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと選択することができるからです。

しかも表記文字を変えることでその言葉の持っている意味が使っている人の感覚で微妙に異なっていくことになるのです。


しかも、漢字で書けることを敢えてひらがなで表記することはかなりの勇気を必要としていることでもあります。

そこでは、「こんな漢字も書けないのか」という漢字優位の感覚が根付いてしまっているからです。


その異なり方が人によって微妙に異なっていますので持たせている意味も異なっているのです。

これはきき手として話し言葉として伝わった音を理解するときには、話し手がどんな文字を意図しているのかを考えなければならないことになり、大変な労力が必要になります。


話し言葉は受け取った瞬間に言葉から意味までの認知をしていかないとなりません。

次から次へと新しい言葉が投げかけられてきますので、新しい言葉をとらえながら瞬間的に認知の処理をしていかないとならなくなります。

認知が上手くいかなかった言葉にこだわってしまい推測のために時間をかけてしまうと、次の言葉をつかみ損なうことが起こるのもそのためです。

前後の言葉がつかめないと認知が上手くいかなかった言葉を推測するための根拠も減ることになります。


きき手の持っている言葉にほとんど影響されないで認知がしやすい言葉が存在しています。

ひらがなでしか表記できない言葉です。

文字としての表記方法がひらがなでしか行なわれない言葉です。


どんな言葉があるか見てみましょう。

標準的な日本語の表記方法は和漢混淆文であり漢字とひらがなの混用表記です。

カタカナやアルファベットはある種の特殊表記と言ってもいいのではないでしょうか。

一般的に使われる言葉の中で漢字で表記できない言葉が、ひらがなでしか表記が行なわれない言葉ということができます。


具体的には品詞との関係で見てみると分かり易いかもしれないです。

助詞と言えばひらがな一文字で表記することがい多いのではないでしょうか。

動詞や形容詞の語幹を除いた語尾の変化部分もひらがなです。

接続詞も基本表記はひらがなではないでしょうか。

「助詞」の画像検索結果

きいている方にとっては表記文字における意味の違いを考える必要のない言葉になります。

言葉として持っている意味や役割が限定されたものしかなく誰が聞いても「ひらがなの音」さえ認知できれば同じ理解ができる言葉になります。

これらの言葉は話の内容や理論を理解するためにも大切な役割を持った言葉であり日本語の核となっていることばです。


言葉と言うとどうしても熟語や名詞を思い浮かべてしまいがちになりますが、これらの言葉は時代や環境によって常に変化している言葉です。

日本語における基本の言葉は使われれ方や意味が固定化されているひらがなの言葉なのです。


他の文化の影響を受けたり限定された分野において使われたりする変化の大きな言葉はそのほとんどが名詞なのです。

「やまとことば」の影響を一番受けていない言葉が名詞になります。

「やまとことば」は日本語の基本的な部分に継承されて来ていることばです。

最も日本語的な言葉とも言うことができるのではないでしょうか。


それは基本動詞であり言葉同士のつながりを作ってきた助詞や語尾の変化なのです。

そして日本語が最も得意とする心情を表す言葉としての形容詞なのです。


「きく」の五段階で見てきたように、「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」についてはすべて「やまとことば」としての「きく」に宛てられた漢字表記です。

それぞれの漢字によって意味するところの違いがありますが、話し言葉として使われるときにはそのすべてに対して「きく」というひらがの動詞として理解してまったく問題のないものとなっています。

どの漢字の「きく」を意図して話し手が発したとしても、「きく」として受け取ることさえできればその意図を理解することは漢字を思い浮かべなくとも簡単にできるようになっています。

これが訓読み漢字の効果です。


音読み漢字ではそうはいきません。

言葉としての音に意味がないからです。

「かんき」という「ひらがなの音」で表される漢字の言葉は20種類ではとどまらない数となっています。

喚起、乾季、換気、乾期、寒気、官記、還気、歓喜、簡記、刊記、勘気、少し見ただけでも嫌になるほど候補があります。

全ての表記に共通した意味などありません。

語源としての共通した「やまとことば」があるわけでもありません。


音読み言葉では「ひらがなの音」ではそのままの意味が理解ができないものとなっているのです。

これが動詞でも使うことにしてしまったのが「する」という万能動詞です。

名詞であっても「する」を付けることで動詞になってしまうのです。

喚起する、換気する、何とも便利な動詞ですが本来の動詞は「する」だけです。


ここまで書いてくると、言いたいことが「現代やまとことば」であることはお分かりいただけるのではないでしょうか。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1)) 

きき手が行なっている知的活動はものすごく大変なことをやっていることが分かってきました。

長時間の「きく」活動はとても労力の多い活動であることになります。


きき手に対してやさしい話の方が理解してもらいやすいことは誰もが理解できることです。

そのためにすべきことが見えているのではないでしょうか。

やさしい話とは音読み言葉が少ない話し方となるのです。


「現代やまとことば」は「ひらがなことば」と置き換えることもできます。

実際に使うときには音読み漢字に気をつけるだけです。

思わず使ってしまった音読み漢字の言葉は「現代やまとことば」でもう一度置き換えて言い直してみればよいだけです。


そうすれば自然に「〇〇する」という音読み漢字を使った動詞も減ってくることになります。

どうしても「〇〇する」を使わなければならないときには「〇〇をする」と言った方が伝わりやすくなります。


音読み漢字の言葉は「ひらがなの音」だけではなく文字までも認知しないと意味が理解でないことになるのです。

単純に、きき手に対して文字を同定してもらうという知的行為を追加でさせることになるのです。

当然のように、「ひらがなの音」だけで意味まで理解できる「現代やまとことば」に比べればかなり多くの労を強いることになるわけですから、その結果としての理解の精度も下がることになります。


本当に伝えたいことがあれば伝え方を工夫するのは当たり前のことです。

それは視覚的なことや内容の工夫などいろいろなことに向けられると思います。

その一つに日本語そのものを考えることも加えておきたいですね。



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2015年1月30日金曜日

「日本語のチカラ」実践編セミナー

他の言語と比べた時の日本語の特徴について知っておくことは、思った以上に日常生活でも効果があるようです。

昨日行なった、「日本語のチカラ」実践編セミナーでも改めて感じることができました。

日本語についての新しい切り口や発見については、このブログでずっと取り上げていますが、それが実生活の中でどのように生かせるのかは自分にとっても大きな課題でした。


日本語は日本人にしか通用しない、世界から見たらきわめて特殊な言語となっています。

日本人であっても世界へ表現するときには、日本語では全く通用しません。

世界どころか、隣の国においても通用しません。


個人においても情報網の広がりによって、日本語だけで生活できるとは言えなくなってきました。

現在の世界の共通語は英語です。

世界に対して何かを発信しようとするときには、英語が必要になります。


それでも日本語は1500年の歴史を超える中で醸成された、独特の文化の賜物です。

母語として日本語を持っていることは、日本後の感覚を自然と持っていることになります。

知的活動も母語で行われることが、一番質が高くなることが分かっています。


現在の日本の環境においても、欧米型言語の感覚が溢れています。

そもそも学校教育で身につけてくる論理や知識は、そのほとんどが欧米型言語の感覚によるものとなっています。

それ以上に、社会に出てからの環境である企業や取引の環境はまさしく欧米型言語の感覚の集まりと言っていいのではないでしょうか。


その中でも、少しずつ昔ながらの日本語の感覚を取り入れようとする動きがあります。

組織の考え方や人事考課の考え方などはには、ずいぶん日本語の感覚が取り入れられてきています。

どうやら、社会の求める環境も欧米型言語の感覚だけではうまくいかないことを経験してきているのではないでしょうか。


日本語の特徴はその日本語を使用している人の知的活動において現れます。

全てが日本の感覚の中だけならば、日本語の感覚について意識する必要はありませんが、知らない間に欧米型の言語の感覚がはびこっていることが分かってきました。

考えてみれば当たり前のことでして、明治維新以降は欧米型言語の感覚によって作り上げられた技術や論理をひたすら取り込んできたからです。

そして知らない間に、日本語の感覚との間にある不自然さや違和感をストレスとしてため込んできたのではないでしょうか。


他の言語の感覚と比較できる場面において初めて日本語の特徴が生かされると思い込んでいましたが、現実には欧米型言語の感覚があらゆるところにあり、それすらも日本語の感覚と勘違いしていることもあることがわかりました。

今回で実践編のセミナーは2回目になります。

一回目は「交渉力」として、日本語の独特の感覚でおこなう交渉力についてのワークショップを行いました。

今回は「きくチカラ」として、日本語の感覚で「きく」ということがどういうことなのかを、おなじようにワークショップで経験してもらいしました。


自分たちが本来持っている感覚を自然に出すだけのことですので、欧米型言語の感覚の様に理論を覚えたり技術を学んだりする必要が全くありません。

自然な形に気がつくだけのことです。

不自然さや違和感をそのまま感じてしまえばいいだけのことなのです。


実践編はいろいろな切り口からできることが分かりましたので、これからもより多くの人たちに経験してもらいたいと思っています。

欧米型言語の感覚と日本語の感覚と、どちらが良いとか悪いとかという問題ではありません。

日本語を母語として持っている以上、日本語の感覚にすべてが馴染むようになっているのです。

更には、言語の持っている感覚が大きく異なっている以上、無理に他の言語の感覚に合わせようとするとストレスが溜まってしまうのです。


自分の持っている感覚は自分ではなかなか分かりません。

わかり易い何かと比較したときに初めて気がつくものです。

そのきっかけになるような実践編セミナーにしていきたいですね。


2015年1月24日土曜日

これも「きく」です

「きく」という動詞を漢字で書いて挙げてくださいと言われたら、いくつ書けますか。

PCの日本語変換でも五つは出てくると思います。

その中で、いわゆる聞くとは正反対の意味の「きく」があることに気づかけれたでしょうか。


そうです、「訊く」の音は「きく」ですが、その意味するところは、話すことになります。

訊問などという熟語でもよく使われますね。

他の「きく」である、聞く、聴く、利く、効くには少なくとも、正反対の話すという意味は含まれていません。


「訊く」はもう一つの音読みとして「たずねる(訊ねる)」という音を持っています。

まさしく言葉を持って、相手に話しかけることです。

なぜこのような「きく」があるのでしょうか。


「きく」の音そのものは、かなり基本的な動作を表す言葉であり、「古代やまとことば」にもあった言葉だと思われます。

その頃に使われていた「きく」の感覚は、のちに漢字で表現されるようになった時に、聞く、聴くなどにより具体化して細分化されていったのだと思われます。

もともとも「きく」が持っていた感覚が、具体化されたものが漢字の訓読み動詞の五つの「きく」だと思われます。


現在では「きく」というと、一般的には「聞く」を意味します。

少し意思を込めた凝った見方をした時に「聴く」が出てくる程度ではないでしょうか。

「利く」や「効く」は熟語としては頻繁に登場しますが、「きく」という音に対してはなかなか思い浮かばない漢字です。

ましてや、ほぼ正反対のことを意味する「訊く」は簡単には思い浮かびません。


「古代やまとことば」における音としての「きく」は、今の私たちが漢字で表現できる「きく」のすべての内容を含んでいたものと考えられます。

これらの五つの漢字を眺めた時に、目的としてどんな行為を思い浮かべることができるでしょうか。

ヒントになるのは、「利く」「効く」「訊く」の三つですね。


現代訓読み漢字で同じ音を持つ者は、もともとは一つの言葉として共通する感覚を持っていたものであると思われます。

そう考えると「きく」という動作は、どの漢字を見ても相手のことを理解しようとする行為であることが分かります。

五つの漢字で表せた行為をすることによって、相手を理解することが「きく」と言う行為であったのではないでしょうか。


「古代やまとことば」のなかでも基本的な動作を示す言葉は、ほとんどの場合同じようなことが言えそうです。

「かく」という動作があります。

漢字を使って書き出してみると、「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などが出てきます。

ここでのヒントは、最後の二つですね。

最初の三つは、「かく」対象によって具体的な使い分けをしたものですが、最後の二つについては行為そのものが異なっていますね。


「古代やまとことば」としての「かく」という基本動作を示す動詞には、「掻く」や「欠く」の感覚までを含んだものとなっていたことが伺えます。

漢字の音読みを使った熟語では、同音異義語をあつめてもあまり面白いものにはなりませんが、訓読み漢字で動詞になっているものの同音語を集めると、その音が本来持っていた感覚を知る手掛かりになるようです。

日本語がもとから持っている感覚を知るきっかけになるといいですね。

2014年6月8日日曜日

赤面症を越えた「きく」チカラ

わたしは小学校の5年生頃より赤面症(赤面恐怖症)でした。

過去形で書きましたが、克服したわけではありません、今でも時々出ることがあります。

でも、それによって話せなくなったり頭が真っ白になってしまったりすることはなくなりました。

赤面症と言う症状(現象)と折り合いをつけ、共存しているだけです。

赤面症が出ている自分を客観的に感じることができていることになるのでしょう。


なったことがない人にはまったく想像がつかないと思いますが、初めて赤面症だと気がついた時は、世の中で何で自分だけがこんなことにならなければいけないのかと思い切り落ち込みました。

親を恨んだこともありました、親から都合の悪いことを指摘されても赤くなっていました。

小学校の5年生頃ですから、いわゆるもの心がついた時です。


国語の教科書読みで指名されるともうダメでした。

立ち上がって、一行も読まないうちに耳が熱くなってくるのを感じ始めると、自分でも赤くなるなることがわかっていますのでもうアウトです。

読んでいる間に、言葉に詰まりでもしようものならば、瞬間に変化して顔面が赤くなってくることがわかっています。

人に気付かれたらもう終わりです。

「赤くなってる。」などと聞こえでもしたら、俯いてボソボソと言っているだけでどこを読んでるのかすらわかりません。

先生の「はい、いいです。」の声を待てずに勝手に終わらせて座ってしまっていました。


赤くなることが人としてやってはならないことをやっているような感覚とでもいうのでしょうか。

さらに人にそのことを指摘されることが恥かしくてたまりません。

何ともない時に「お前、赤くなるんだって。」言われただけでもアウトです。


自分に都合の悪いことを指摘されると赤くなることがわかっていますので、本当にやってしまった都合の悪いことをごまかすために嘘をつくようになりました。

やったことをやってないと嘘をつくわけですから、追及されればどこかでばれてしまいます。

そうするとやったことだけでなく、嘘をついたことまでが怒られますので、真っ赤になって下を向いているだけです。

嘘をつくことが悪いことぐらいわかっていますのでよけいに落ち込みます。


今度は絶対にばれないように誤魔化そうとするおかしな努力をするようになり、嘘がどんどん巧妙化していきます。

嘘をつくことがいけないことは当然わかっているのですが、自分の中では嘘をつくことよりも明らかに赤面症が出てしまう原因を取り除くことの方が、はるかに重要なことなのです。


いつも赤くなるわけではないのです。

国語の教科書読みでも赤くならないときもあるのです。

普通に友達と話しているときは出ないのです。

反対に予期せぬ時に赤くなると、周りが喜んで「赤くなった。」と言ってはやし立て面白がるのです。


特に話をするときがいけません。

先生に指名されても、答えが出ないときや答えを間違えた時は、まずアウトです。

何かを話すときに、話に詰まってしまってもアウトです。

批判的な声が聞こえてもダメです。

あらかじめ話す順番がわかっているときなどは、自分の順番の前に真っ赤になっていることが多いです。


赤くなリ始める時は自分でもわかりますので、何とかしなければと思います。

「やばい。」と思ったらもうダメです。

あとはもう何もできません、ひたすら赤くなったのが収まることを待つのみです。

顔を洗いにいったこともありますし、それこそ話しに聞いて雑巾で顔を拭いてみたこともあります。

何も変わりませんでした。


とにかく人の前で話すことがダメでした。

特に、話す目的が明確になっていないのにみんなの前で話すことがダメでした。

朝礼のあいさつなどで、決まりきった挨拶までは何とかいけましたが、一言スピーチになるともういけません。


赤面症と折り合いがついたのはいつからでしょうか、記憶にあるのは高校の時の体育でサッカーをやっていた時だと思います。

絶好のゴールチャンスに来たボールを空振りしてコケたのです。

あの瞬間がやってきました、耳は熱くなって瞬間変化です。

笑い声も聞こえています。

ところが、コケた私のところにボールが戻ってきたのです。

何とかしなければいけません。

半立ちの中腰のまま真っ赤な顔で、やや頭の上に来たボールにあわてて足を出しました。


格好としては高さのないオーバーヘッドキックです。

これがなんと、キーパーが身動きもできずコールしてしまったのです。

瞬間すべての音が消えたのを感じました。


真っ赤な顔をしてコケている私に、何人かが駆け寄ってきてバシバシたたきました。

あとは仲間と一緒に真っ赤な顔で、叫んでいる自分がいました。

誰も私の赤い顔を気にしていないのです。


このことがあってから、赤面してもやることはできるのだと言うことを感じることができたのではないでしょうか。

赤くなることはそのあとも何度もありますが、それによって止めてしまったりすることがなくなってきました。

すると不思議なことに、頭が真っ白になることがなくなりました。


そして、さらに赤面と折り合いがついたのが、「きく」と出会ってからです。

無理に話をする必要がないんだというとんでもない安心感を与えてくれました。

話さずに「きく」ことで、あわてることもなくなりました。


「きく」は「聞く」であり「聴く」「利く」「効く」そして「訊く」です。

最後の「訊く」は行為としては話すことですが、問いかけること確認することです。

自分から何かを働きかけする必要がないのです。


5つの「きく」の詳細については「きくこと」についてをご覧ください。
(参照:「きくこと」について)

これによって思わぬ評価をいただきました。

本人は「きく」ことをしようとしているのに、話がうまい話が面白いと言われるようになってしまいました。


500人を前にほぼ即興に近い状態で話をした時も、緊張こそすれ頭が真っ白になるようなことはありませんでした。

話し終わった後、主催者の代表から握手を求められ心からの謝辞をいただいたときはやってよかったなと思いました。


以来、何かにつけてこの「きく」を実践しています。

きっとどこかで役に立つと思いますよ。





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2013年12月10日火曜日

人の話、ちゃんと「きけて」いますか?

「きく」というのは古代からの「やまとことば」にある動作を表す言葉です。
他の「やまとことば」と同様に基本的な動作を表す言葉ですので、その動作から派生するものとして様々な意味に展開していきます。

たとえば「かく」という動作を表す「やまとことば」があります。
その動作から派生した意味として、「書く」、「描く」、「画く」、「掻く」、「欠く」などがあります。

これらの言葉が並ぶと元の言葉のイメージが、動作としての「掻く」に一番近かったことがよくわかってくると思います。

同じ読みを持つ漢字(訓読み)はその成り立ちにおいて同じくするところが多いと思われます。
同じ読みの漢字を並べてみると、一つ一つの漢字からは見えないものが見えてくることがありますね。


「きく」に戻ってみましょう。

人の話を聞くときの「聞く」は一番一般的に使われる「きく」ですね。
「きく」と読む漢字を並べてくると、「きく」ことの元の姿が見えてくるのではないでしょうか。

辞書によれば「きく」には次の五つの漢字が当てられます。

「聞く」、「聴く」、「訊く」、「利く」、「効く」ですね。

元の動作として、診断するような、観察するような感覚があることに気づきませんか。

「きく」という行動は対象物をしっかり観察して理解することになりそうですね。
しかも、
「効く」があることを考えると、何らかの刺激が対象物に対してどんな効果を及ぼしているかを観察することも含まれそうですね。

この五つの「きく」を理解したうえで人の話を「きく」ことができれば、立場や年代を越えてのコミュニケーションが無理せずにできるのではないでしょうか。



学校教育でも「聞く」や「聴く」までは教えているのではないかと思いますが、「訊く」「利く」「効く」になると触れてもいないのではないかと思います。

よほど意識をしていないと普段の活動では意識できないことですね。

「人の話をちゃんとききなさい。」というときの指導は、ここまでやってこそ意味のあるものになるのではないでしょうか。


日本語をテーマとして人に伝える機会がある私にとっては、何かにつけてこの「きく」について話をさせていただいています。

この五つの「きく」はすべてのことの基本になっているんですね。

マネジメント、コーチング、マーケティング、ファシリテーション、すべてのことが人対人のコミュニケーションが基本になっています。

人対人の関係における一番基本の行動が「きく」ことなんですね。


特に日本人の場合は持っている感覚において、外国発の理論のベースと大きく異なる点があります。

自己主張に対する考え方と、人の意見に対する考え方です。

日本人は自分が異分子となることを潜在的に拒否しますので、自己主張に対しては自他ともに嫌悪感を抱きます。
口先だけであっても、協調性や同調を好みます。

日本人以外のほとんどは、自己主張によって自分の存在感を感じさせようとします。
自己主張のない人間は、いないものとして対等には扱いませんし、主張するものを持たないものとして無視します。
クリティカルシンキング(批判思考)で教育されていますので、相手の意見を否定する意見を好みます。

外国発の理論でもアクティブリスニング(積極的傾聴)として「聴く」ことを強調しますが、「きく」目的が違います。
相手の欠点を探し、論理の矛盾として攻撃できるところを探すために聴くんですね。

ネゴシエーションのトレーニングでよく出てきます。
WIN-WINネゴシエーションという騙し合いです。
ここでは細かくは触れませんが、相手に負けたと思わせない損をしたと思わせないテクニックですね。

日本人の基本的な感覚とは相いれないものですので、どうしても違和感を感じてしまいます。


日本語は世界の他の言語と系統的に異なっています。
言語界の孤児とも言われています。

他の言語とは違った特徴を持つ日本語を母語とする日本人は、思考そのものが他の言語を母語とする人たちと違うのです。

「きく」ことがキチンとできるようになれば、言語の壁も越えられるのではないでしょうか。