2016年1月19日火曜日

言葉の解釈の画一性と自由性

つい先日参加した勉強会で、起業で成功するためのポイントを改めて確認することができました。

極めて単純で当たり前のことなのですが、同じ言葉で表現されたものでもその時の自分の状態や環境によって受ける感覚が大きく異なることを改めて実感しました。


新しい言葉の意味や使い方を覚えるために辞書を引いていた時には、その時に必要な意味や使い方を確認しただけであって自分の言葉とはなっていませんでした。

その時得た内容と理解を絶対的なものとして持ってしまっていたために、次にその言葉に出会った時にも無条件に同じ解釈をしていたと思われます。

国語的に指摘されたり評価されたりして〇☓をつけられたりした内容については余計に確定的なものとなってしまっていたようです。


言葉の解釈に絶対的なものはないことに気づいてからは辞書を引くことがほとんどなくなりました。

同じ言葉に対しても人の数だけ解釈があることが分かってきたからです。


一度出来上がってしまった解釈を変えることには大きな勇気と意志が必要になります。

ところが、初めからその言葉に対する解釈がその瞬間における一時的なものだとわかっていれば変えるべき元の固定的な解釈すらないことになります。

国語の教育では読解力と称して同じ文章に対して同じ解釈ができるように固定的な定義を叩き込まれてきました。

人と変わった解釈をすれば☓を付けられてきたのです。

したがって、言葉の解釈においても人と違っていることが悪いことであるという経験則が出来上がってしまっていると思われます。


同じものを見たり読んだり聞いたりしたときに、ほかの人と同じような解釈をすることが求められてきたのです。

とくに、そのことに精通した人やその道の権威と言われるような人の解釈や定石・定説と言われるような解釈と異なっていることは間違ったこととして扱われてきたのです。

画一的な社会基準やルールを設定するためには必要なことだったのかもしれませんが、あらゆることに対してこの基準が持ち込まれていたのではないでしょうか。


小説などの文学作品は、本来ならばその解釈においては読み手の自由な発想に委ねられるべきものだと思います。

それにもかかわらず、部分的に切り取られた文学作品の解釈に画一性を求める国語の試験などが堂々と行なわれてきたのです。


余りに豊かすぎる表現力を持った日本語という言語おいては社会的なルールや規則を画一的な解釈が可能な表現で行なうことは至難の業です。

至難の業であると言って回避していいことでもありませんし、それでは社会のルールが機能しなくなってしまいます。

そのために日本語の中から画一的な解釈をするための言葉を選び出したものが国語としての解釈になります。

国語としての解釈ができていなければ社会で生きていくための基本的なルールが理解できないことにもなります。


ところがこの国語的な解釈をするために必要な日本語があまりにもたくさんあるために、義務教育だけでは国語的な解釈の習得すらままならないのです。

中学校を卒業しても日刊新聞が解釈できる読解力すらついていないのが現実となっているのです。

余りにも多い言葉と表現に対しての画一的な解釈をするための言語能力の習得だけでものすごく長い時間を必要としてしまっているのです。


小学校の高学年以降になってくると学校で習った言葉に対してアレンジを加えて言葉遊びをするようになってきていると思います。

言葉本来の自由な解釈に対しての活動が始まっているのではないでしょうか。


ルールは画一的な理解をされる言語で表現されることによって始めてルールとして機能することになります。

その表現がルールとして機能するためには、画一的な解釈を教え込まなければなりません。

言葉には画一的な解釈が必要とされる公的な面と自由に自分なりの解釈が許される私的な面があります。

それは言語全体でもありますし一つの言葉に対してもあることになります。


言語の歴史の浅い言葉や機能統制や効率を求めた言葉は画一的な面が求められてきます。

典型的な用例が軍事用語です。

どんな階層どんな場面で使われても誰もが同じ解釈ができて同じ行動ができるための言葉になります。

これができないと軍隊として機能しなくなります。


第二次世界大戦のあとは、軍事用語が大量に企業活動に用いられるようになります。

命令統制による画一性に向いていたからにほかなりません。


日本語はこれに対して漢字の音読みで言葉を作って対応してきました。

ひらがな言葉での軍事用語では役に立たなかったのです。

ひらがな言葉は個人としての解釈の自由度の高い言葉だったからです。

言い換えれば抽象度の高い言葉ということができます。


それは、ひとつのひらがな言葉の動詞を表現する漢字が数多く存在していることでもわかることです。

「かく」という動詞を表現する漢字は「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などたくさん出てきます。

漢字の方がより具体的な動作を表していることは明確です。


日本語語いう言語に画一性を身に付させたのは漢語と言う外来言語です。

その外来言語から自由性に富んだひらがなを生み出したのは古代日本の知恵ではないでしょうか。

世界の言語のなかで複数の書き文字を持った言語はほとんどありません。

ましてや母語として言語保持者が一億人単位でいる言語においては日本語だけです。


更には、カタカナはおろかアルファベットまで日常的に使いこなしている言語はほかには存在しません。

言語として求められる共通理解のための画一性と文化文明の基盤としての自由性の両方を兼ね備えた言語としてこれほどすぐれた言語は他にはありません。

その分、身につけて使いこなすこともほかの言語に比べたら難しいことになっているのではないでしょうか。


その難しさを意識することもなく使いこなしている日本人はもっと自分たちの言語について知ってもいいのではないでしょうか。

言語の画一性だけが求められ生かされてきた時代も終わりに近づいていると思われます。

自分たちですら忘れかけてる自由性に目を向ける場面が増えてきているのではないでしょうか。

この素晴らしい日本語をもっと知っておく必要がありそうですね。