2016年1月22日金曜日

漢字とひらがなのいいとこ取り

日本語の標準的な表記方法は漢字とひらがなの混ざり合ったもの(和漢混淆文:かわんこんこうぶん)となっています。

これは漢字だけで表現する場合(中国語がこれです)とひらがなだけで表現する場合とを比較した時にどのような効果があるのでしょうか。

漢字を使用する言語は中国語を代表としていくつか存在していますが、ひらがなを使用する言語は世界の言語の中でも日本語だけです。

両方で表現できることが日本語をより特徴つけているということができるのではないでしょうか。



それ以外にも日常的にカタカナやアルファベットによる表記も行なわれていますが、これらについては擬音や固有名詞を表す場合が多く行動を表すための動詞としての使い方はほとんどありません。


若者たちがカタカナやアルファベットに加えて「〇〇する」といった動詞的な使い方をすることをあったとしても、もとからの表記がカタカナやアルファベットでなされた動詞は見ることができません。

その意味で、必ず動詞が必要となる日本語の一般的な文章においては漢字とひらがなによる表記方法が標準的なものであるということができると思われます。


文字としての漢字はひらがなが開発される以前に漢語として存在いたものです。

というよりも、ひらがなは漢語を用いて文字のなかった時代から存在していた話し言葉を表記するために編み出されたものと言った方が適切かもしれません。


文字のなかった時代にも、話し言葉によることばは数多く存在しておりそれが「やまとことば」の原型であると思われます。

文字を持たなかったころの原始日本語という位置付けになると思われます。

文字のない話し言葉 → 漢語の導入 → ひらがなの開発 と言う順番で表記方法が出来上がってきたことになります。


まずは漢字(漢語)からその特徴を見ていってみましょう。

漢字は現代で使用されている唯一の表意文字だと言われたいます。

文字そのものが意味を持ったものですので、その成り立ちは象形文字として始まったものと言われています。

近年の研究では表意文字という言い方からより現実に即したより正確な言い方として表語文字という言い方もされるようになってきました。


いずれにしてもその成り立ちは象形文字ですので、形として存在する物や目に見えて形として表現できるものしか文字にできなかったことになります。

つまりは、かなり具象度の高い現実の形を伴ったものしか文字として表現できなかったと思われます。


やがては、その文字を象徴化したりして篇や旁として共通的な意味を持たせて組み合わせて新しい意味を持たせる文字を編み出していくことになります。

しかし、もとになっている文字がきわめて具体的なものであるためにその文字を含むことによってその関連性を示すものを表現する方法を身につけていったのです。

どの文字を見てみてもその一部あるいは文字自体がかなり具体的なものを表したものが含まれていることになり、その文字に持たせた意味はその文字の構成で理解できるものとなっているのが漢字です。


物だけではなく、人や動物の基本的な動作として象徴的に絵として描けるものは動詞として表現できてきたものと思われます。

誰が見てもそのような動作をしているという形から文字になった基本的な漢字の動詞が多く存在しています。


しかし、抽象度が高くなったり複雑さが高くなって単純な形として描けなかったり一目見て何をしているのかわからないような絵は文字にはなりませんでした。

漢字は具体的な目に見えて形として捉えることができる物や行為を表現することが得意でした。


それに対して文字を持たない話し言葉は具体的な形として表すことができない物や行為を表現することにおいてもより自由度がありました。

とくに、自分や人の気持ちや感じ方や意味はなくとも音としての表現の方が伝わりやすいこともあったと思われます。

相対的に漢字が具体的な物や事を表現するのに適しているのに対して、話し言葉は抽象度の高い形として表現することが難しいことを表すのに適しているということができます。


もともと抽象度の低かった漢字に新しい考え方に基づく言葉を沢山付け加えたのが明治維新です。

西洋文明の進んだ新しい言葉をひたす漢字に置き換えていきました。

哲学、文学、芸術、革命、権利、統計、共和、など抽象度の高い言葉が次々に生まれてきました。

これらは、海を渡って和製漢語として漢語の本国にも多大な影響を与えました。
(参照:輸出された日本漢字

漢語の本家である中国の国名の「中華人民共和国」の「中華」以外の言葉が和製漢語であることは有名な話となっています。


漢語を導入した日本語は、次のステップとして漢語の音を利用することによって話し言葉だけで表現してきた言葉たちを書き表すためのひらがなを生み出していったのです。

日本語がもともと持っていたものは漢字で表現できることよりもひらがなで表現できることの方がたくさんあったということができると思います。

そして漢字と言う表現手法を身につけてさらに多くの表現をできるようになっていったと思われます。


「かく」という動作は文字のなかったころにも話し言葉の基本語として使われていたことばだと思われます。

漢字が導入されたことによってその文字の持っている具体的な内容が「かく」に当たっていることから、「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などが使われるようになり「かく」と読ませるようになっていったと思われます。


時代を経て漢字としての使われ方が減っていったものもあります。

人が何かを話す「いう」という行為は、かつては「言う」以外にも「謂う」「云う」などが使われていました。

とくに「言う」は神に対してことばを発するときにしか使うことができなかった神聖な文字だと言われています。

現在ではすべてを「言う」でカバーしてしまっているのではないでしょうか。

その意味では、数千年を経て文字としての「言う」と話しことばとしての「いう」が一体化されたということができるのかもしれません。


漢字とひらがなの表記の違いは文字として記したときに始めて効果が表れるものです。

どんなに漢字を意識していたとしても話し言葉で表現している場合にはひらがなの音としてしか伝わらないのが日本語です。
(参照:「ひらがな」でしか伝わらない日本語

本人は「書く」を意味しているつもりでも伝わっているのは「かく」であり、相手は「かく」で理解しているのか「描く」で理解しているのかは分からないのです。

ましてや行為としての「かく」だけではなく「各」や「核」などの理解の仕方もあることになります。


世界の言語の中でも複数の表記方法を持った言語はほとんど見ることができません。

しかも、この場合は漢字でなければならないとかひらがなでなければならないというルールはないのです。

漢文的な素養があれば、漢字だけでもひらがなだけでも同じことを表現することが可能なのです。


こんなことを意識して漢字とひらがなの使い分けを行なっている人はほとんどいないと思います。

意識しなくとも感覚的に勝手に行なっているのです。

知らない人から見たらとんでもない能力だと思います。


漢字が存在する言葉であるのに漢字で書けないと恥かしいという思いを持つことがありませんか。

あえてひらがなで書かれている言葉を見た時に、こんな漢字も知らないのかと思うことがありませんか。

表記方法として漢字がひらがなよりも上位にあることを感覚として埋め込まれてしまっているのですね。

漢字とひらがなの書き分けのルールはないのです。

それぞれの思いで使い分けして構わないのです。


同じ文章の同じ言葉が漢字とひらがなで書き分けられていたらそこには何らかの意図を感じませんか?

話すことと書くことの一番の違いは漢字とひらがなの受け取り方が違うことです。

せっかく持っている表現方法をうまく生かしていきたいですね。