欲求や自己主張をすべき場面であっても、オブラートに包んだような表現に成ってしまい意図が伝わらないことも多くあります。
自己主張を明確にして彼我の違いを明らかにしてその違いに価値を認めようとする欧米型の言語感覚とは、表現することに対する基本的なものが異なっているということができます。
このことは日本語の環境における文化が培ってきたものであり、その精神文化が言語の感覚として継承されてきているものです。
古くは「古事記」や「万葉集」の中にもその感覚を見てみることができます。
それは「ことあげ」(言挙げ、事挙げ)と呼ばれたものです。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化)
個人としての欲求や希望は人に対して表明してはいけないものとして扱われています。
唯一、神に対してのみ行なうことを許された行為となっており人に対して自己主張や欲求を直接的に語ってはいけないこととして一種の戒めとして扱われています。
この「言」という文字は神が行なったり神に対して行なったりするときのみに使われたものであり、人が対象にかかわらず言葉を発する意味で使われるようになったのは明治以降ではないかと言われています。
それ以前は、神にかかわる文字として神聖視されていたものと思われます。
現在のように何に対しても話すことに対して使われた「いう」は「謂う」「云う」などが使われていました。
日本語感覚における神は人を超越した自然神として扱われており、人の名を持っていたとしても超越したものとしての表現がなされたものがほとんどです。
それに対して欧米型言語の感覚における神は究極の人として扱われており、人間として表現されています。
死んだり生き返ったりすることがその典型であり、人を超えるしたものではなく人の延長線上にあるものとして扱われています。
その分、彼らにとっては神はより身近なものであり日本語の感覚における自然神とは一線を画したものとなっているようです。
人にとってのいちばんの脅威が自然環境の変化にある日本語感覚においては、そこに神を感じることによって怒れる荒れ狂う自然に対して人が協力して対処しようとします。
怒れる自然の前には人は協力せざるを得なくなるために、人同士の争いごとよりも自然に対処することの方が大切になります。
そのために人同士は協力し合うために共通性を見つけることでより同調しやすいようになっている感覚を持っていると思われます。
そのためには、ささやかな共通性を発見することで安心する要素が増えて協力をしやすいようになっているのではないでしょうか。
ささやかな相違よりも共通性に目が行って発見しやすくなっているおもと思われます。
最大の脅威である自然環境(神)の変化に対して協力して対処するための基盤がそこにあると思われます。
(参照:共通性の発見で安心する日本語感覚)
協力を前提として共通性を発見していくためには、自己主張や個人の欲求をはっきりと表明することは妨げになります。
個人としての欲求は対峙するものであったとしても自然の脅威の前では協力してこれに当たらなければならないのですから、妨げのなるものは直接的には見えないようにしていくことになります。
そのための教訓が「ことあげ」ではないでしょうか。
欧米型言語の感覚では、最大の脅威が人になります。
他の民族による侵略や攻撃が自然環境の変化よりも生命に対しての現実的な脅威となっていたのです。
自然は他の民族の侵略や攻撃に対して利用すべき最大の環境であったと思われます。
人が驚異の対象ですので、敵か味方かを明確にしなければなりません。
協力すべき相手か敵対すべき相手かの判断が生死を分けることになるからです。
そのために曖昧な強調よりも厳格な差異を求めるようになります。
心情面のつながりよりも明確な罰則のある契約を求めるようになります。
強弱の関係による現実的な支配を求めるようになります。
そのためには個人としての主張を明確に表現して彼我の違いをはっきりさせなければなりません。
その違いに対して、少しでも自分にとって都合の良い方にしようとします。
そのためには自然環境をも利用することになるのです。
日本語の環境下においては自己の主張や個人の欲求を明確に表明することは日本語の母語としての感覚が待ったをかけるようになっているのです。
これを無理に表明するようにするとどこかで歪が出てストレスを感じるようになってしまうのです。
どうしても避けることができないそんな時には、日本語の環境を離れてしまうことをお薦めします。
企業での公用語を英語にするところが出てきています。
英語の感覚を利用する場合にはとても適しています。
しかし、日本語の感覚と英語の感覚とをよく理解していないと全く無駄になるだけではありません。
母語でない言語でコミュニケーションをとるわけになりますので、コミュニケーションの質が母語で行なうよりもはるかに低くなってしまうのです。
使いこなせないまでも英語を使うことでその言語の持つ感覚は自然に現れてきます。
日本語よりも英語の方が自己主張がしやすく他人批判がしやすいことは間違いありません。
しかしそれをより深い質の高い次元で求めると母語に頼らざるを得なくなります。
表面的な言語の感覚を利用するには使用言語を指定することが一番簡単ですが、深度は母語よりもはるかに浅いものにならざるを得ません。
母語は書き換えることができない者であると同時に、単なる言語ではなく感覚として知的活動のすべてに影響を与えているものです。
その人にとっての最高の知的活動は母語によってでしか発揮することは出来ないのです。
表面的な対応や体裁は英語を公用語とすることによって可能となるでしょう。
しかし、日本の持っているものを生かして日本らしいしかもレベルの高いものを実現しようとしたときには間違いなく妨げとなってしまうのです。
日本語の持っている感覚を生かせる環境が減っていっていると思われます。
日本語の感覚が生かせる環境にあるからこそ、その優秀さが生かせるものです。
日本語を母語とする者が日本語の感覚を生かせる環境で活動をしていないこと自体がもったいないことなのです。
戦後の欧米型言語の感覚を押し付けられた社会は、日本語の感覚からは遠いところを走ってきました。
気づいた者たちが少しずつ日本語の感覚の社会を取り戻しています。
母語の感覚がそのまま生かせる社会で生活をしながら、他の言語の感覚とも付き合い方を学んでいくことが大切ではないでしょうか。
言語の感覚にすべてが現れているのだから、決して難しいことではないと思われます。
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