2016年6月10日金曜日

宛名表記に見る言語感覚

言語が知的活動のための唯一のツールであることに疑問を唱える説はいくつかありますが、大きな要素を占めていることには間違いのないことだと思われます。

使用する言語によって論理の展開や結論までもが違ってくることはさまざまな場面で検証されていることでもあります。

それは、議論としての会話において検証されていることが多いのですが文字を伴った場合にはさらにいろいろな要素が出てくるのではないかと思います。


その中でも日本語は表記文字がたくさんあり同じことを文字を変えて表記することが可能になっているものです。

しかも、同じことであっても文字の種類が変わることによって与えるイメージが変わってしまうことがよくあります。

そのうえ、語順がとても自由な日本語は自由に置かれた言葉の関係を結び付ける助詞の働きによってさまざまな関係を表現することもできてしまいます。


語順に厳格な決まりを持っている言語話者から見るとどこに重きがあるのかがとてもわかりにくいものとなっています。

それでも、本当に関係がバラバラな要素がちりばめられているとどんなに助詞で補ってみたとしても日本語話者でもわかりにくいものとなってしまうこともあります。

そんな日本語にも言語そのものが持っている文法には現れない順番があるのではないかと思われる現象を見つけました。


ヒントは海外から届いた封書の宛名でした。

ネットショッピングなどを利用する人は海外宛の住所を書く場合もあるのではないでしょうか。

ほとんどの場合は以下のような順番になっていませんか。

  1. 宛名(個人名)
  2. 会社名
  3. 建物名・部屋番号
  4. 番地、町名
  5. 区・市・州(都道府県)
  6. 郵便コード
  7. 国名

これって、国名を表記するかどうかだけでそれ以外は日本での郵便の宛名の全く逆の順番ではないでしょうか。

さらに、表書きのレイアウトを見てみると以下のようになっています。


左上にあるのが差出人であり右下にあるのが宛先になります。

日本の感覚から見たらこの配置も逆ではないでしょうか。

自分が先にしかも上にあることに違和感を覚えるのが自然な日本語感覚だと思います。

それぞれの順番はそれぞれの国で抵抗なく使われてきて定着してきたものです。


どんな順番に記載していくのかは、物事に順番を付けるときにどんなことに基準を置いているかということに他なりません。

つまりは、どんな順番に並んでいると戻って振り返ることなく安心して進んでいくことができるかということになります。

アメリカの郵政公社(USPS)のサイトにも記載する順番に触れた記載があります。

そこでは、minor to major や smallest to largestなどの表記があります。

異なった表現ではより特殊性の高い詳細なものほど先に記載するとしているものもあります。


言語にかかわらず世界の宛名表記のほとんどがこの形式をとっていますが、それはフランス語が世界郵便の標準語であったことと無関係ではないと思われます。

日本語のように大きなものから小さなものへという順番を採用しているのはアジアに多く中国、韓国、イランなどとなっているようです。

使用文字に漢字があったり表記方法が縦書きか横書きかなどによっても向き不向きがあったのではないでしょうか。

あるいは、歴史文化的に持っている感覚が文字や書く方向を選んできたのかもしれませんね。


それでも日本語にとっては文法的な定めのない語順に対しての一つの指針となっているのではないでしょうか。

それは論理の構築についても同じことが言えると思います。

語順は一つの文章における要素の順番のことになりますが、それは論理における段落などの要素の構成の順番にも当てはまるものだと思われるからです。


数多くの機能を持った接続詞や語尾の変化によって文章そのものをどのような展開へも持っていくことが可能となっている日本語は、明確な論理の構造がなくともそれなりに話をつなぐことが可能になっています。

また、読みとる方もそれが可能なだけの技量を備えていることになります。


論理的には結論が先にあって次になぜならばと言う理由づけがあって事実の提示と検証がある方が理解しやすいと思われますが、これは英語型の論理構築に慣らされてしまった結果だと思われます。

効率化や生産性アップのためにはこの方が効果があることは間違いのないことでしょう。

世の中すべてがアメリカ型の効率化や生産性アップを求めて活動してきた事によって染みついてきたものと言うことができると思います。


ところが理解がしやすいことと感覚的に受け入れやすいこととは決して一致しません。

特に日本人の感覚としては論理的なことよりも心情的なことの方が優先される場面が少なくありません。

そして、そのことの方が共感を得ることが多いのもよくあることです。


日本語話者が感覚的にも安心して理解できる流れは、環境が説明される中で個別の状況が説明され結論に至る経過に納得性があることが大事になります。

それを繰り返しながら最後の個別の結論に至ることによって納得したままに結論に導かれることに安心感を覚えるのです。

いきなり結論を提示されると思わず反対したり逡巡したりしてしまうのは仕方のないことなのです。

常に最終目的や結論を先に意識している英語型の感覚とは異なった過程が必要となっているのです。


それぞれの長所も短所もあります。

一方では欲しい結論ややりたい目的がはっきりしている場合には理由づけや根拠づけが無理やりに行なわれることが起こりやすくなります。

また一方では段階ごとに納得性のあるステップを設けていくと最終的に何を目指すのかが分からなくなることもあります。

使い分けが必要となっていると思われますが、それができるのは両方の感覚に触れている場合だけになります。


つまりは英語型の感覚を持った者はほとんど日本型の感覚に触れることがありませんので、ワンパターンで展開されることになります。

したがって、使い分けをしなければならないのはもともと日本語型の感覚を身につけている方ということになります。

英語そのものを使いこなすことではなく、英語を母語として持っていることはこのような感覚的な違いを持っていることを理解しておく必要があるのではないでしょうか。


とくに、難しい問題や困難な場面において知的活動を行なっているときにはこの傾向が自然と出てくるようです。

語順の自由な日本語においても感覚的に安心して受け入れることができる順番と言うものが存在していると思われます。

これもまた、日本語だけの環境にいたのでは気がつきにくいことです。

この感覚を翻訳することは不可能だと思います。

彼らに論理的には説明できたとしても感覚的に理解してもらうことは無理だと思われます。


より英語に触れる機会の多い日本語話者の方が対応するしかないことではないでしょうか。

やることがいっぱいあって楽しくなりますね。



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