2014年1月14日火曜日

言語の持つ可能性

この正月に改めて日本語の特徴について考えてみました。
(参照:気づかなかった日本語の特徴(1)~(6)

一般的に言われている日本語の特徴とは若干観点が異なるものもあると思います。

言語学的な観点や脳科学的な観点、言語教育的な観点や言語伝承的な観点などいろいろな面からアプローチを試みたつもりです。

更に面白いアプローチもあるのではないかと思います。
それが見つかった時には、また取り上げてみたいと思います。


日本語の特徴として取り上げた内容は、他の言語に比べて日本語全体として持っている特異性ということができると思います。

とくに、他のどの言語体系にも分類できない日本語の特異性は、そのままその言語を使用する日本人の特徴として表れているものと考えていいのではないでしょうか。

あくまでも特徴ですので、場面によってはそれが長所と出たり短所として出たりします。
絶対的な長所・短所となるものはないと言えます。



メリット・デメリットの区分は何らかの目的がある場合に、その目的に対してどういう影響があるかで区分されるものです。

目的を設定するのは人間自身であり、その設定の仕方によっては同じ現象であっても、良い影響を与える場合と悪い影響を与える場合が出てきます。

現象そのものには良いも悪いもない、もともと備わっているものです。

何らかの目的を持った時に、その現象が目的に対してどのような影響を与えることになるかによってメリットとデメリット言う区分が生まれることになります。

目的が明確に精確に設定されていれば、それぞれの現象においてもメリット・デメリットの区分がしやすくなります。

目的が曖昧であればあるほど、区分がわかりにくくなり、判断がしにくくなります。

目的をできる限り明確に精確に表現することが第一歩になりますね。


すべての活動が目的に基づいて行われているわけではありません。
目的のない活動も沢山あります。

そのような活動もすべて、言語を通じてなされているのではないでしょうか。

人が何らかの活動をするとき、必ずそこには言語があるのではないでしょうか。

思考することも知識を得ることも表現することもすべて言語によってなされています。
目的のないおしゃべりも目印や看板もすべて言語によるものです。

人が人として生きていくためには、人との意思疎通ができることが必要です。
人の協力が必要な時には、意志疎通をした上で必要な活動をしてもらわなければなりません。

人は感情によって活動が誘発されことがわかっています。
協力を得たければ、言葉によって相手の感情を協力してもらえるように動かさなければいけません。



私たちは道具としての言語については学校教育を中心に学んできました。
どこまで身についているかどうかは個人に帰することろですね。

しかし、
その道具としての言語をどのように使ったら効果的なのかについては、ほとんど学んだことがありません。
社会人になって、必要に迫られてからセールスやプレゼンなどの片寄った活用術を学んだ人もいると思います。

特に日本語は、基本的な道具としての言語を身につけるだけでも、他の言語に比べて多くの時間がかかります。
他の言語話者が6歳頃には基本言語の習得を完了しているのに対して、日本語は基本言語の学習だけでも10歳頃まで必要としています。

他の言語が小学校の低学年から表現技術や交渉技術を学習する機会が設定されているのに対して、日本語の学習の中には言語技術習得のための内容はほとんどありません。

日本語の習得に関しては、道具としての習得に時間をとられてしまい、言語技術を学んでいる時間がないのです。
結果として、その習得成果でしか効果測定ができないために、書き取りと読解が中心となってしまうのです。

 

日本語の特徴で見てきたように、おそらく日本語は世界最強の言語です。
きわめて巨大な言語です。

大きすぎて、一人ずつの日本語がみんな異なるくらいなのです。

この巨大な言語を道具として、フルで身につけられる人はいないのではないでしょうか。
学習期間においては、道具としての日本語をできるだけ身につけることで精一杯だと思います。

この道具としての日本語を使いこなすためには、個人としての言語技術の習得が必要になってくるのだと思います。

日本語を話し理解することができる人は世界で1億人以上いて、言語話者の人口としては第9位ですが、その中でも日本語を使いこなせる人は極めて少ないと思われます。

使いこなせる人たちも、それぞれの活動分野があります。
文字で人を感動させる使いこなしができる作家の人や、言葉で人を感動させることができる脚本家や作詞家、専門技術分野で専門書を訳す翻訳家などの中にはすばらしい日本語使いがいます。

それぞれの分野で、違った形での日本語使いが存在できるほど、日本語は大きなものだと言えるでしょう。


あまりにも身近にあって、あまりにも簡単に手に入ってしまった日本語という言語の可能性は無限ではないか思うようになっています。

せっかく、世界の他の言語とは驚くほどの違いを持った日本語という原語を持った以上、心を揺さぶる表現の一つでも発してみたいですね。

日本語にはそれだけの可能性が、世界のどの言語よりもたくさん残されているのではないでしょうか。