ふっと見たテレビで小学校の英語学習の特集をしていました。
今の教育指導要領によれば、5年生から週に一回の英語の授業が入ってきます。
取り上げられた埼玉の学校では、テスト校として小学校3年生から英語の授業が取り組まれていました。
肯定的な内容に腹が立ってきました。
そもそも、なんでそんなに英語を身につける必要があるのでしょうか?
しかも、日本語自体の習得ができていない小学校のうちから、学校教育として教え込むことのどこに必要性があるのでしょうか?
その必要性について冷静に考えてみたいと思います。
学校教育に英語という教科が登場したのは、太平洋戦争に負けてアメリカ統治のもとで教育改革が行われてからが中心です。
明治期より富国強兵の一環として取り込まれてきた義務教育制度は、いろいろな変遷を経て戦後の学校教育法の公布によって中学校までの9年間が義務教育となりました。
明治時代の小学校では英語の授業が導入されていたこともあります。
太平洋戦争前も文明開化の明治期以降は英語を教えているところがありました。
1873年(明治3年)には東京外国語学校(東京外語大学)が作られています。
すべての学校教育から英語を消し去ったのは、戦中の敵性語として排斥したからです。
それ以外はどこかで英語教育が行われていました。
戦中であっても、陸軍中野学校では諜報員の養成として英語教育を行っていました。
このころの英語教育には、明確な目的がありました。
英語による貿易交渉のためであったり、専門分野の技術導入であったり、英語を使ってどうするかが明確でした。
一般教養や普通学校の入学試験のために英語を学ぶ必要はなく、使う目的が明確でその目的に沿った英語を身につけることが行われました。
道具としての英語であり、英語を身につけることそのものが目的になることはありませんでした。
日本について、日本語について専門分野を持ち、その分野で世界と交わろうする人たちだけが英語を学びました。
言語を学ぶと言うことは、こういうことだと思います。
中学義務教育としての英語が実施され始めると、義務教育としての達成度を測る高校入試に英語が大きな比重を占めてくることになります。
経済発展や国際化に伴って、世界標準語として地位を固めた英語の重要性はどんどん向上しました。
専門分野を問わず、主要科目としての英語は文科系も理科系も関係なく主要科目となってしまいました。
英語は、試験問題を作ったり採点したりする側にとっては、とても扱いやすい教科です。
言語ですから、言葉の使い方は日々変化しています。
言葉を採点する訳にはいきません。
主な採点項目は、語彙と文法です。
単純極まりない英語の文法は、〇☓を付けるにはとても適しています。
文章を読ませて、内容を問う出題形式は、昔から変わりようがありません。
義務教育の習得度合いを測定するのに、英語科はとても便利な教科となっているのです。
そこには、英語を身につけた後の目的がありません。
英語を学ぶ目的は、試験を突破することになるのです。
国語や数学と同じです。
学ぶ内容が入学試験の出題内容に則したものになっていくのは、当たり前のことですね。
そこには、使うための言語の学び方とはまったく異なった、試験をパスするための受験勉強としての学び方しかありません。
そんな学び方をして(させておいて)、使える言語が身に付くわけがないのです。
しかも、まじめに取り組むとコミュニケーションとしての言語ではない世界に踏み込みます。
言語学や歴史に踏み込むことになります。
英語圏の国が一番恐れる状況が出来上がってしまうため、様々な圧力をかけてきます。
このことについては「英語圏の言語戦略」で述べていますので参考にしてください。
(参照:英語圏の言語戦略)
義務教育の習得度を測るために利用された英語という学習分野において、学校教育以外の場での効果や評価を求めることは間違っていることです。
英語を使って何をするのかの目的がはっきりしてから、言語としての英語を学べばいいだけです。
学習進度の評価をするためだけの教科としての英語に、それ以上の効果を求めることが間違っているのです。
教科としての英語に対しても、取り組む側がテストや試験以外に明確に英語を使っての目的を持っている場合は全く異なります。
学校で義務教育を受けている場に、そんな人はほとんどいないでしょう。
将来的には、外語大学や専門学校を選択することになるのでしょうが、義務教育においてそんなことを考えることは少ないでしょう。
義務教育の後期以降の学習は、その先につづく入学試験突破のための学習が中心になります。
その影響が少ない、義務教育の前半に試験目的ではない言語学習としての英語を持ってこようとしているのです。
しかし、この時期は人の形成において一番大切な日本語の習得時機にあるのです。
英語の学習は、世界で一番習得が難しいと言われている日本語の習得の妨げになるのです。
義務教育として教えるべきことはたった一つだと思っています。
目的を定めることができる能力を身につけることです。
自分が生きている、これから生きていかなければいけない社会環境・自然環境を知って、そこで生きていく目的を定めることができる能力です。
そのための知識の習得や思考力の養成は言語でしかできません。
母語でしかできないのです。
国際化の時代に一番必要なことは、世界標準語を身につけることではないのです。
世界の中での自分の、自分たちの特徴をしっかりと認識して、自分たちの言葉でしっかりと発信できることです。
翻訳なんかはシステムであろうと何であろうと瞬間的にやってくれるのです。
日本語は、どんな国の言葉に対しても正確に翻訳してもらえることができる表現方法を持っているスーパー言語なのです。
その使い方を身につける方がはるかに大切なのです。
みずからは小学校において「ゆとり教育」時代の国語の先生を経験し、その後は大学において小学校の国語教育に携わる学生を指導している、坂本芳明先生の国語教育についての論文の一部をご紹介します。
「日本人は国語力、すなわち日本人として自分の母語である日本語の運用能力、日本国内に留まった国語力ではなく、世界の各国の人々と交流できる言葉の力(言語力)として日本語の能力を充実する必要がある。
国際化、情報化の時代・社会に必要な言葉の力を身に付けることが急務である。」
興味のある方は国語教育の問題についてを参照してください。