2014年10月31日金曜日

論理と共通認識領域

言語としての日本語教育のなかで、学校教育においては、言語や知識としてのインプットがほとんどであり、言語を用いてのアウトプットについては教育されてきていないことは何度か触れてきました。

では、表現するための教育を受けてきていないことが実際の場面ではどんな影響が出ているのかを見てみたいと思います。


日本人は、表現することにおいても、議論をして結論を出していくことが苦手です。

それに比べると同じ表現でも、一方的な発信はそれほど苦手としてないように思われます。

もちろん、場慣れや大勢を前に表現することの緊張はありますが、自分なりの立場や理屈で意見を述べることは決して苦手ではないと思われます。


一方的な発信は、プレゼンテーションや発表会などであって、その場では一方的な論理の展開が可能な場面です。

人によっては、断定確信的に表現する場合もあれば、推定感想的に表現する場合もあり、聞き手によって同じ内容でも表現を変えていたりする場合もあります。

トレーニングや教室的なものも、人前で話すことやスピーチ・プレゼンテーションなどについては、アナウンサーや心理学者などによって多くのものがあります。

その効果についても実績のあるものがたくさんあります。


ところが、実際の仕事や生活の場においては、一方的に自分の意見だけを表明しきれる場面はほとんどないことはみんなが気づいていることではないでしょうか。

ましてや、スピーチや講演などをする機会は決して多くはありません。

たまたま、その機会があるときに格好よくやりたいことはわかりますが、そのための技術を学んでも、実際に使用する機会はそんなにあるわけではないのです。

一方的な発信は、大勢の前で話すことの度胸をつけることや効果的な表現の訓練にはなりますが、双方向のコミュニケーションにおいては邪魔になることがあるのです。


私たちの仕事や生活の環境は、大から小まで双方向コミュニケーションで成り立っています。

大勢の前で発表することは出来ても、その内容について互いに協議しながらさらにいいものにしていったり問題を解決していったりという行為ができないと困ることになります。


日本語の大きな特徴の一つに、「行間を読む」ことがあります。

つまりは、表現されていないこと(領域)を共有していて、すべてのことの前提になっているために、具体的には表現しないことです。

また、あまりにも豊かな表現を持っているために、一人ひとりの持っている日本語がかなりバラエティに富んでいます。

そのために同じ言葉であったとしても、一人ひとりその理解について微妙に異なっていることが多くなっています。

これが沢山重なってくると、話している言葉は同じでも、その理解内容についてはかなり違ってしまうことが起きてきます。


日本語による日本人同士の議論で特徴的なものは、「共通認識領域」を作るのが苦手なことです。

それぞれの立場での見方や評価で主張するばかりであって、平行線のままに終始していくことが本当に多いです。

時間ばかりが過ぎていき、なされていることはお互いの意見の主張だけということを見たことはありませんか。

最後の落としどころは、「なかを採って」だとか「議長一任」、「両者痛み分け」、最悪の場合は多数決などになっているだけです。

そうでなければ、根回しや力技で一方の主張を押し付けることになります。


日本語で行われた日本人同士の議論で、当事者が納得し解決されて握手となった場面をほとんど見たことがありません。

特に多いのが、お互いが言おうとしている意見が根底では同じにもかかわらず、違った言い方や理屈でしか主張しないためにいつまでも平行線で、気がついたらお互いに気まずい思いをしていることです。

極端な場合には、使っている言葉は同じだが、両者の持っているのその言葉の定義が違うための誤解となっていることもあります。


議論をしている当事者は、自分の意見を通そうと一生懸命なので気がつきませんが、オブザーバー的な立場にいるととてもよくわかるときがあります。

それでも、自分が当事者になった時は、同じことをやっているんですね。


日本語は知的活動のためのツールとしては、素晴らしく優秀なものだと思います。

しかし、相互コミュニケーションとしての議論や交渉において問題解決を図っていくためには、もう一工夫必要なモノとなっています。

学校教育では、日本語を使ってのアウトプット技術をほとんど身につけていない以上、自分で身につけていかなければならないことです。


それは、議論や交渉の大前提としての「共通認識領域」をしっかりと作ることです。

議論や交渉において使用される論理は2種類しかありません。

普段から当たり前に使っているので、表現しない共通領域になってしまっていることではないでしょうか。


一つは演繹法であり、もう一つは帰納法です。

難しく聞こえますが、私たちが日常的に使っている論理であり、すべてのことをこの二つを使って考えているのです。


簡単に言いますと、演繹法はいわゆる「三段論法」です。

例えば、「動物には生命がある。」、「人間は動物である。」、だから「人間は生命がある。」ということですね。

最初の「動物には生命がある。」が大前提としての「共有認識領域」です。


日本人同士の議論では、この部分が省略されることが大変多いです。

当たり前のことだから、触れること自体が恥かしいということも精神文化的にはあります。

何を当たり前のことを言っているんだという批判や評価も原因になっていることもあるかもしれません。


更には、日本語では表現方法が沢山ありますので、最後の意見として「だから、人間は死ぬ。」という導き方もあります。

大前提が明確に表現提示されていないと、正しく三段論法になっているのかどうかも分からないのです。

「生命がある。」と「死ぬ。」ことは見方によってはかなり違うニュアンスとなります。

場合によっては絶対に置き換えが許されないこともあるでしょうし、どちらでも構わないこともあるでしょう。


帰納法としては、経験的な事実をいくつか集めてそこから一般的な結論を導き出すものです。

「この業界の企業の3社がこういった問題を抱えているのだから、同じ業界にあるこの企業でも同じような問題があるはずだ。」というようなものです。

これもまた、普段からいたるところで使われている論理ですね。


演繹法に比べると、さらに大事な部分である経験的ないくつかの事実が「共通認識領域」になければ、議論にも交渉にもならないことになります。

この部分をなしにして、意見を主張し合ったりしてもどちらも納得感も理解できないまま平行線は当たり前ですよね。


あまりにも当たり前に、論理を使いこなしてしまっているものですから、論理であることすら意識していないのです。

特に最近は、欧米の影響で自己主張に重きが置かれているために、前提抜きの自己主張が頻発しています。

子どもの喧嘩や力に任せたごり押しがいたるところで行われているのです。


対等の議論や交渉ごとの経験が圧倒的に少ない日本語の環境では、欧米の持つ目に見える表現技術にどうしても目が行ってしまいます。

いかにもグローバル的で格好良く映ります。

しかし、彼らの表現技術の根幹は「共通認識領域」を作ることから始まっているのです。

日本語の感覚の様に、「行間を読む。」文化のない彼らは、表現されたもののみが信用できる対象です。

当たり前のことを当たり前の前提として、「共通認識領域」に置くことから始まるのです。


英語で書かれた論文やメソッドを見ると、そのまま日本語に翻訳するとくどいくらい丁寧に前提が表現されています。

そのまま翻訳本として出してしまったら、まず読む人がいないくらいでしょう。

日本人の感覚で言ったら、馬鹿にしているのかとも思われるくらいです。


日本語でやるときにも「共通認識領域」を意識して作れるようになったら、ものすごい力になりますね。

これだけで解決してしまう問題もたくさんありそうですよ。







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2014年10月30日木曜日

話し言葉ほど注意しよう

話し言葉としての日本語は、持っている音の少なさも手伝って、書き言葉(文字)よりもずっと理解がしにくくなっています。

先進文化圏の言語のなかで、日本語の話し言葉としての音の少なさは際立っていると言えます。

そのために、ひらがなとしての日本語は習得するのに比較的簡単にできるのですが、漢字が入ってきた途端に難解な言語になってしまいます。


大きな要因が、言語としての性格や成り立ちにあります。

日本語と中国語、すなわち漢字を使用している言語以外の言語は音声言語として成り立っているものです。

文字や文章で記すことよりも、コミュニケーションの中心が話し言葉にあるのです。

文字に書くことよりも、音として発音した方が理解しやすい言語となっているのです。

文字で書くよりも、音として表現した方が意味が伝わりやすいのです。

そのために、子音の数に代表されるように、非常にたくさんの音を持っています。


文字としての区別よりも話し言葉としての区別の方がしやすくなっているのです。

彼らの持っている文字が、基本的には音を表す表音文字となっているからです。

それにも拘わらす、同じ文字であってもその使われ方によっては複数の音を持っているから、文字主体の言語である日本語を母語としている我々には理解しにくいものとなっているのです。


ひらがなは完璧な表音文字です。

一つの文字には一つの読み方(音)しかありません。

英語のaの様に使われ方によってたくさんの音を持っているわけではありません。

どんな使われ方をしようとも文字として書かれたひらがなには、一文字に一音しか対応していません。

かつては、「てふてふ」と書いて「ちょうちょう(蝶々)」と読ませたようなものが存在しましたが、現代ひらがな表記においてはそのようなものはありません。


漢字があることによって意味が分かりやすくなるのは、文字での表現ができるからです。

音としては同じ音が沢山あるのですが、漢字にして表記することによってその意味がはっきりしてくるのです。

これを、ひらがなで表記してしまっては、音と同じことになってしまいますので、音の確認はできたとしても意味の正確性は伝わりません。

文字として伝える時には、なるべく漢字を使った方が意味が捉えやすくなるのです。


「やちまた」や「なこそ」という言葉を音だけで聞いた時にはなんだかわからくとも、「八街」や「勿来」という漢字を見れば何となく地図で見たりした千葉県の地名ではないかと思えるのです。

普段から使っている言葉であれば、音だけで理解可能であっても、初めて聞く音としての言葉は漢字を見てやっと理解できるということは少なくないはずです。

世界の文字のなかで唯一現存する表意文字としての漢字のチカラが生かされている場面です。


日本語は、基本的には表記された文字や文章で理解する言語です。

だから文字としての漢字が、理解するうえでは大事になるのです。

一般的な表現のなかで漢字が大量に増えたタイミングがあります。

明治維新です。

一般的にはなじみのなった仏教用語や、新しい組み合わせとしての熟語までを入れると、広辞苑一冊分の訳20万語がこの時に生み出されたと言われています。


それ以前には使っていなかった使い方としての漢字が広がっていったのです。

漢字の本家である、中国に逆輸出の形で広がって言った漢字も数知れません。

国名である中華人民共和国の中華外の漢字の使い方である、人民も共和国も日本で作られた漢字の組み合わせです。

もともと、音として持っているものが少なかった言語であるのに、非常に多くの漢字を組み合わせ(熟語)を作ってしまったので、同音異義語が溢れることになりました。

ますます、音だけではわかりにくい物となっていったのです。


欧米の人たちは、口頭言語のなかで歴史を作ってきていますので、話し言葉によって理解を深めることが得意です。

日本人は、文字に書くことによって、そして書かれたものを読むことによって理解を深めてきたのです。

読むと言っても、声に出して音で理解することではありません。

文字を読むとは、漢字の意味を理解するということなのです。


音読が行なわれているのは、言語としての日本語を習得していく段階だけです。

書かれたものの内容を理解する段階になると、声に出して読むということはほとんど行われなくなります。


日本語は、話し言葉だけで理解するには難しい言語であることを知っておくことが大事になります。

相手にしっかりと理解してほしい時には、文字としての情報が必ず必要になるということです。

特に音読み漢字は、同音異義語の宝庫です。

同じ読みで表記の異なる漢字は、30種類以上あるものもざらにあります。

話し言葉だけでは、思ったことが伝わりにくいものです。


実は、漢和辞典や国語辞典は大変良くできているのです。

漢字の音読みについてはカタカナで表記されています。

訓読みについてはひらがなで表記されており、送り仮名までが明確になっています。

古代からの日本語である「やまとことば」はすべてひらがな言葉です。

これが日本語の原点です。


音読み漢字の読み仮名であるカタカナは、そのまま外来語であると理解することが一番わかりやすいと思います。

音としては外来語であり、それを理解しようとしたのが漢字表現であると思ったらわかりやすいのではないでしょうか。

ですから、音読み漢字を話し言葉として使ったら、文字として見せて確認をするか、ひらがな言葉として補足するかをした方がより正確な理解につながると思われます。


日本語は文字言語であることを知っておくだけでも、コミュニケーションにおける理解度のアップにはつながることでしょう。






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2014年10月29日水曜日

ブログはやっぱりタイトルが大事

たまに自分のブログ記事を読み返してみることがあります。

ほとんどのものは、その内容を覚えているのですが、中には「こんなこと書いたかな?」と思う記事に出会うことがあります。

間違いなく自分で書いているはずなのですが、記憶が薄いのです。

何かに触発されて、発作的に書いた記事だったのかもしれませんが、どうもその内容をよく覚えていないのです。


ほとんどの場合は余裕がなくてじっくり考えて書いていない場合が多いようです。

前後の記事を見ても、扱っている内容に関連性が薄くなっていて、その回をつなぐのに苦し紛れで何かをひねり出した感があります。

コメントやページビューも前後に比べるとかなり少なくなっている場合が多いです。


ところが、読み返してみると意外といいものがあるのです。

自画自賛になりますが、とても自分が書いたとは思えないようなものまであります。

ある程度のパクリは、全体を通してもいくらでもありますが、パクった割には良い内容になっていたりするのです。


自分のブログを読み返してみると、あらためてタイトルの大切さを感じます。

ほとんどの記事は、タイトルを見ただけでどんなことを書いたのか思い出せるのですが、中にはまったく「?」となってしまうタイトルのものもあるのです。

もちろん自分でつけたタイトルのはずなのですが、記憶から飛んでいるのでしょう、内容が全く思い出せないものがあるのです。


その一つに、「絶対に敗者になるな!」があります。
(参照:絶対に敗者になるな!

なんというタイトルを付けたのでしょうか、きわめて当たり前のタイトル過ぎて中身が全く思い出せないのです。

全文を読み返してみたのですが、果たして自分で書いたものかどうかすら疑わしい感じなのです。


考えながら書いている場合は、部分的に回りくどい表現や素直でない表現がたくさん出てきますので、苦労した形跡がよくわかります。

「絶対に敗者になるな!」は比較的すんなりと表現できている方だと思います。

もしかしたら、あまり考えずに短時間でスパッと書き上げてしまったので、印象に残っていないのかもしれません。

更には、ラベルの区分が「雑話」となっているために、本来の趣旨の日本語のチカラとは若干離れている内容になっているからかもしれません。


ところが、読み返してみると、評価が少ない割にはいい内容となっています。

自分で言うのもおかしなものですが、わかりやすくある種の真理を突いた内容となっています。

時間が経って読んでみると、間違いなく自分で書いたものだとは思いますが、「なるほど」と思うところがあります。


特にこの記事については、厚黒学という本を読んで思うところがあったことをヒントに書いたものだったことを思い出しました。

厚黒学については6月29日に「厚かましく腹黒く生きる」というタイトルで扱っていますので、参考にしていただきたいと思います。
(参照:厚かましく腹黒く生きる

こちらは、「絶対に・・・」に比べると3倍以上のページビューを稼いでいるタイトルとなっています。


今でもその癖が抜けないのですが、このころのブログは伝える対象が絞れていないことがよくわかります。

絞れていないというよりは、書いている自分がもう一人の自分を想定して、そいつに対して伝えているような感覚がしました。

まさしく自己満足以外の何物でもないですね。


表現の内容も、理解してもらいたいという優しさが感じられませんので、多少は構えて読みはじめないと理解しにくいものとなっています。

もう少しわかりやすく表現することもできたのではないでしょうか。

そんなことができるのも、ブログとしてストックされているからのことですね。

SNSはフローの情報ですので、どんなに苦労して作り上げてもどんどん流れていってしまい、検索することができません。

ブログは、少し前の自分と向き合うには、とてもいいツールではないでしょうか。


しかも、人目に晒されていますので、ある程度の緊張感と牽制が働いているためにいい加減なことを書くわけにいきません。

何らかの主張を持って伝えることを意識することで、日本人の一番苦手な表現することを鍛えるとてもいい場ではないでしょうか。

人のブログもゆっくり読んでみたいと思いますが、自分のブログをアップすることが精いっぱいの状態で、なかなか余裕がありません。

タイトルで興味をひかれたものをたまに読むくらいのことしかできていません。


あらためて、タイトルの大切を感じています。

検索でもブログはタイトルが一番引っかかってきます。

日本語を大テーマにしている以上は、もっとタイトルにも気を使わなければいけないですね。

自分で検索してもなんだかわからないタイトルでは、読む人にわかるわけがありませんものね。

過去のブログのタイトルを変えてみて、ページビューにどんな変化出るのか見てみるのも面白いのではないでしょうか。

2014年10月28日火曜日

「きく」チカラは何のために使うのか?

「きく」ための技術については、このブログでも何度か触れてきました。
(参照:「きくこと」について

古代の「やまとことば」からつながってきている「きく」という行為については、現在ではいくつかの漢字が充てられています。

ひらがな言葉で表現されており、今現在よりもずっと広く大きな意味で使われていたと思われる「やまとことば」としての意味は、現在充てられている漢字から推測することが可能です。

「きく」という行為は、現在充てられている漢字をの意味を総合した、とても大きな意味を持っている「やまとことば」です。


「きく」ための秘術は、現在充てられている漢字をしっかり見ていくことで確認することができます。

「きく」と読める動詞としての漢字を挙げてみましょう。

聞く、聴く、効く、訊く、利くの五つが見つけられます。

この五つがまさしく「きく」ための技術を物語っているのです。


「聞く」は、英語でのニュアンスとしてはhearとなると思われます。

どちらかというとあまり意識をしなくとも、「聞こえてくる」感覚と言ってもいいかもしれません。

「きく」の中では一番意識が伴っていない行動になります。


「聴く」は、英語で言うところのlisten (to)になるようです。

聞きこむと言いう行為になり、傾聴という言葉に代表される行為になります。

「聞く」に比べるとかなり意思のこもった行為となります。


「効く」は、「薬が効く」と使用するように効果があることを確認することです。

相手の言っていることが、しっかりと自分の腹に落ちて理解できる「きく」行為となります。

言葉だけではなく行間までも含めて、相手の言っていることを先入観や評価を入れずに理解する行為となります。


「訊く」は、「きく」の行為の中でもこちらから働きかける能動的な行為となります。

「効く」によって理解しようとしてことについて、疑問や確認したいことが出てきます。

それを相手に対して確認する行為が「訊く」ということになります。

発する問いかけは、相手の言っていることを理解するための確認の内容ということになります。


「利く」は、「鼻が利く」や「夜目が利く」の様にうまく利用できることを意味します。

「聞く」以外のあらゆる能力や感覚を使って「きく」ことを意味します。

さらには、動作やメモ書き音や色など、あらゆるものを利用して相手の言っていることを理解しようとする行為です。


五つの「きく」をフル稼働させて、相手の言っていることを理解しようとする行為が「きく」ことなのです。

「きく」ことの目的は相手の言っていることを理解することです。


さて、それでは相手の言っていることをどのように理解したらいいのでしょうか。

相手の言っていることを理解するとはどういうことなのでしょうか。

一般的に理解という言葉に対しては、主旨や論旨を理解するという意味に使われます。

つまりは、言っている内容としての論理を理解することにあると思われます。


これは仕方のないことです。

私たちは学校教育を通じてずっと、読解するために文章を読み試験対策をして来たからです。

人の話についても同様です。

私たちが人の話から理解できることは、論旨に集中してきたのです。


ところが、実際の生活においては、論旨は勿論ですが、人の話から理解するべきもっと大切なことがあったのです。

それは、事実と意見や憶測との切り分けを理解することです。

特に、例として取り上げられる内容については、事実として思い込んでしまうことが多くなります。


人の話のほとんどは、事実に対しての一つの見方を示しているにすぎないことが多いです。

そこにおける事実と、その事実に対する評価をしっかりと事実と意見として分けて理解することが大切になるのです。

意見や評価は、一人ひとり異なって当たり前のものです。

細部になればなるほど、異なってくるはずです。


したがって人が集まった組織としての評価は、ある程度細部に目をつぶった概括的なものにならざるを得ません。

組織のなかでほとんどの者が同意できる評価でなければならないので、どうしても小異を捨てて大同を取らざるを得ないのです。

組織を代表した話しは、どうしても組織としての評価を前面に出さざるを得ません。

話している個人では、細部に行けばいくほど組織の評価との違いが出てくることになります。


事実と評価をきちんと分けて理解することが大切なのは、事実だけならば必ず共有することができるからです。

評価が少しでも入ってしまえば、評価基準や物の見方の違いが必ず存在してしまいます。

事実だけであれば、意見や評価の入る余地がありません、事実はただ存在しているだけです。


この事実と評価を聞き分けるために「きく」チカラが必要になるのです。

「きく」ための五つの技術は、このために使うためにあるのです。


先回まで見てきた「事実を表現すること」はその前提として、自分で事実を表現する方法を身につけておかないと相手の話から事実を聞き分けることが難しい事を扱ってきました。
(参照:事実を表現すること

事実を表現することに慣れてきたときに初めて、相手の話の中から事実を聞き分けすることが可能になってくると思われます。

その時に活躍するのが五つの「きく」チカラです。

聞くことが大事だと言われても、相手の何を聞けばいいのかがわからなければ技術の磨きようもありません。

相手の言っていることを理解すると言っても、ただ単に話の内容を理解するだけなら大した能力は要りません。


相手の話から事実だけを切り分けて、その事実を確認して共有することが、全ての交渉ごとの始まりです。

ほとんどの交渉事は、事実の共有ができれば解決策がすぐ出てきます。

事実を共有することによって、対立していた交渉目的が共同目的に変わってしまうからです。


事実を聞き分けるチカラと、事実を見極めるチカラは言語技術の使用目的です。

そのために日々チカラを磨いておきたいですね。



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2014年10月27日月曜日

事実を表現すること(3)

自分自身で、事実を表現することができないと、人の言っていることから事実を切り分けることができません。

交渉ごとの基本は、事実を確認することから始まります。

思考活動の初めも認知活動から始まります、当然現状の事実を確認することから始まります。


現状というのは、現在の状況ということになりますので、評価している内容や関係性なども含むことになります。

一番初めにしなければいけないことは、現状の中の事実のみを把握することです。

その次にすることが把握した事実を確認することです。

ここで事実を共有する行為が行われることになります。


事実を共有するためには、その事実を表現しなければなりません。

事実は、お互いの目の前にあって見えるものばかりではないですから、間違いのない事実として表現する方法を持っていなければ推測や意見・評価と区別することが難しくなります。

自分で事実を表現する難しさをしっかり感じられるようにならないと、人の表現していることから事実を切り分けすることはなかなかできません。


人の表現していることのなかで、事実であるか相手の評価であるかを取り間違えると、解決できることも解決できなくなってしまうのです。

間違えて事実として捉えてしまうと、変更することのできない大前提として位置づけることになります。

そうするとその前提の上で、すべてのことを考えることになります。

事実だと認識していたことが、単なる相手の評価である場合は、現実には非常に多くあります。

その結果、固定されたものとして動かせないものとして据えてしまうことになり、対策の対象外としてしまうのです。


ほとんどの交渉事は、しっかりと事実が確認できた段階でほとんどのことが解決してしまいます。

そして日本人が日本語を使っている場合に一番難しいことが、この事実のみをきちんと切り分けすることなのです。

そのためには、事実を事実として表現できることが求められます。


精確な表現(精密かつ正確)が求められることになります。

初めに事実をとらえる行為は、基本的には個人的な活動になります。

どんな表現でも構わないので、自分自身だけが理解できればいいことになります。

できるだけ精確な表現で理解できるようにします。


対象が物であるならば、一番正確な表現は、メーカー名、品番、製造番号、シリアル番号になるのではないでしょうか。

物として頭に浮かばなくとも、誰でもが調べることで来て、誰でもが全く同じものに行きつくことができるからです。

その次に精確な表現は、サイズ寸法・重量・色・製品機能などの仕様表現になるのではないでしょうか。

これもほとんどの人が同じものに行き着くことができます。


最初は、対象物を限定できる固有の表現がないかどうかの確認です。

次が、対象物を正確に数字や色で表現することです。

これは一つの写真の中の対象物を決めて、みんなで表現して比べるといい訓練になります。

その次の段階は、誰でもがイメージできる具体的なものを例えとして利用する方法です。

富士山の様にすそ野が広がった・・・というような利用方法です。


この物を何に使うのかという使用目的は、事実としては要らないことです。

それは使用者が評価として行っていることであって、そこに存在している事実ではありません。

自分で書きだして表現してみることによって、誰が見ても同じものを認識できるかどうかを確かめることができます。

訓練のためには、物を表現することから始めることがわかりやすいくなっています。


事実は物の存在だけではありません。

もうワンランク上の表現が求められるものとして、何が起きているのかを表現することがあります。

この場合も自分で理解することは比較的簡単にできますが、共有するために表現することは一段と難しくなります。

何がどうした、という短い文で表現することになるはずです。

そしてそれをより精確な表現で補うことになります。


電車が動いていた。東海道線の品川駅から横浜方面へ。時速15kmだと思った。

ここでは自分が思ったという事実が表現されています。

しかし、時速15kmは事実ではありません。

数字が出ているとその正確さに惑わされることがありますので注意が必要です。

精確に表現されていれば、そこに書かれている事が事実であることから、さらに周辺の事実が確認できることが起こるのです。


この能力は日本語の得意とするところです。

事実に即した精確な表現ななされていれば、その事実が存在してるために必要な潜在的な事実もそこから読み取ることができるのです。


事実を共有するときに、一番最初にしておきたいことがあります。

それはその事実がいつどこで起きたのかということです。

事実を表現するときに、日付(西暦)と時間(24時間表記)は必ず最初に抑えておきたいところです。

それによって、事実としての価値がぐっとついてくることになります。

また、最初に日付と時間と表現することによって、きちんと事実を表現しようとする気持ちが備わります。


事実を表現することは、やればやるほど役に立つことが増えてきます。

日本語が基本的に一番苦手としていることですので、これが加わると一気に日本語のチカラが広がります。

人と何かの共同作業をやるときに、事実の確認の共有からやる癖をつけるといいですね。

交渉事が、今までよりも楽に進むようになりますよ。





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2014年10月26日日曜日

事実を表現すること(2)

自分で事実を表現する技術が身についてくると、相手の話していることで事実を切り分けして把握することができるようになります。

事実を表現する方法は、思ったよりも少ないことに気がつくと、一気に視界が開けてくることがあります。

開眼するとか、悟りを開くとかということは、事実をしっかりと抜き出して把握できるレベルを示しているのではないでしょうか。


論理だとか、思考だとかという知的活動は、すべてが頭の中で行われている仮想・仮説に過ぎません。

そのために、実験によって現実にそうなるのかどうかを事実として確認する必要が出てくるわけです。

そしてその事実を確認することによって、さらなる思考や論理がなされていくことになります。


あらゆる論理や思考は、何らかの事実の一面をとらえることによってはじまると思われます。

その事実に対してどの様な捉え方をするのかは、視点や観点、分析上のカテゴリーなどによって変わってくることになります。

事実そのものはなんの位置付けもないものであり、自然の法則に従ってただそこに存在しているだけのことです。

これに対して、人間がそれぞれの立場からそれぞれの視点で評価をするのです。


自分や所属する組織にとって、利となるのか不利となるのかによって、同じ事実に対しての評価が良いこととも悪いことともなってしまうのです。

そこに存在している事実のすべてを把握することは、人間にはできません。

したがって、自分にかかわりのありそうな事実のみを切り取って評価することになります。

そしてほとんどの場合は、自分にとって都合の悪い評価となる事実については無視することが行なわれます。

自分にとって都合の良い事実のみを取り上げて、評価することをします。


KPIとか言って、評価の良い悪いは別にして、自分にとって評価するのに都合の良い・役に立ちそうなことだけを取り上げて扱うことは、優れ技術であると思われていたりもしています。

評価をわかりやすくしているだけのことであり、他の事実に目をつぶることをしているにすぎません。

つまりは、そこで起きている現象をいかに単純化して評価しているかということになるのです。


事実は、単独では存在しません。

その時そこにある事実は、過去の事実からの変化での結果であり、あらゆる事実が存在している中で、自分たちの見える範囲の事実が起きているにすぎないのです。

評価や意見や思考は、個人のものであり一人ひとりが好き勝手にできることです。

それが、何らかの組織になるとこれらに対して枠をはめます。

その枠にはまったことが、その組織として受け入れることができるものとなります。


人は何らかの組織に所属することによって生きていきます。

常に、一つの組織とは限らず、さまざまな分野のさまざまな階層の組織に属しながら、また、その組織の間を移動しながら生きていきます。

組織が違えば、同じ事実に対する評価の仕方や結果が異なってきます。

さらには、評価対象とする事実そのものが異なってくることもあります。


全ての交渉事や共有事について基本となることは、対象とする事実の共有です。

事実を表現しようとするとどんな表現方法になるでしょうか。

「何がどうした。」こんな表現がたくさん並ぶことになりませんか。

切り取った瞬間に起きている事実を、すべて把握したり表現したりすることは不可能です。

どんなことをしようとも、評価の対象としたい事実だけを対象としてしまうことが起きます。


客観的になるということは、評価の対象以外の事実についても目を向けるということであり、事実に対しての評価を公平に行うということではないのです。

これらの事実の関係を表現することは、事実を表現することになりません。

関係を人が論理つけしているのであって、事実はただ単に存在しているだけです。

原因と結果は、人が勝手に論理つけしていることであって、事実とは異なります。


事実を表現することは、起きている現象をそのまま事実に即した言葉で表現することになります。

対象物があるならば、どこまでその対象物を特定できるかが表現のチカラになります。

変化をしているならば、その変化をどこまで忠実に表現できるかになります。


評価や感想・関係などは一切不要です。

事実のみを表現することを訓練することは、とても役に立ちます。

人の行っていることのどこまでが事実なのか、どこまでが事実に基づいた話しなのかが、瞬時に分かるようになります。


そうなると、評価と事実の区別がはっきりしてきますので、相手の評価の観点や基準が見えてきます。

交渉のうまい人は、自然とこの技術を身につけています。

同じ事実に対して違う見方を提供して、相手の評価の基準を動かしてしまいます。


相手が現状を変えるために、新たな事実を要求してきているのに、事実に対する見方を変えただけで相手を納得させてしまうのです。

これが最強の交渉力です。

現状を変えたくて、交渉してきた相手に対して、全く現状を変えることなく、事実に対する見方を変えることによって評価を変えさせてしまうのです。


かつての仕事仲間にこのことが得意な人がいました。

ややこしい交渉で長期戦になってしまった時に、よく声を掛けられた人です。

ほとんど何の準備もなく、今までの進展の状況も聞かずに交渉に行きます。


とにかく相手の主張を聞きます。

そして、「それはお困りですね、何とか協力して差し上げたいですね。」と言い出します。

相手は今までさんざん、自分たちの要求を押し付けようとしていたので拍子抜けです。


すかさず、「まずは、いくつか事実を確認させて下さい。」と続きます。

お互いにわかっている、間違いのない当たり前の事実ばかりです。

こちらのミスに基づく事実については丁寧にお詫びをします、相手のミスに基づく事実についても指摘をして相手も納得をします。


最後は、相手の押し付けてきた要求だけではない解決の方法があることをお互いに認めてしまっています。

そして、その方法について一緒に検討してみましょうとなってしまいます。


一種のマジックかとも思いましたが、彼にとっては当たり前のことなのです。

彼の研究室での仕事のほとんどは、決められた時間での実験状況のレポートだったそうです。

明確な目的のある実験が少なかったために、あらゆる変化を記録する必要があったそうです。

事実のみを的確に表現することに慣れていたのです。


彼は精確という言葉を使います、正確かつ精密ということだそうです。

習っておけば良かった何と思っています。




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2014年10月25日土曜日

事実を表現すること(1)

今まで日本語についてさまざまな観点からの検討を試みてきました。

それこそ、言語学の専門家でないが故のしがらみのない自由な切り口をして来たのではないかと思います。

そのなかでも、日本語の最大の弱点と思われるものを取り上げてみると、話し言葉としての表現になるのではないかと思います。


英語との比較でみてみると一番わかりやすいのではないかと思います。

日本語の構文は,SOVの形式となっており、自分の意志が一番表現される動詞の部分が文の最後にきます。

この構文は世界の言語のなかで一番多い構文となっているのですが、先進国の言語における構文の中では少ない方になっています。

先進国の言語における構文の標準形はSVO形式がほとんどであり、日本語と共通文字であるである漢字を使っている中国もSVO構文となっています。


SOV形式とSVO形式の一番の違いは、「何が(誰が)どうした」という文としての骨格が、どの段階でわかるかということになります。

すべての言語がそうだとは言えませんが、SVO形式に比べてSOV形式の言語の方が表現力が豊かであり、形容詞や州諸語をたくさん持っているように思われます。

SVO形式の構文は、結論がすぐに来てしまうために、そのあとの形容詞や修飾語にはあまり注意が払われません。

目的語としてのOに重きが置かれており、文章としての面白さや表現は修飾語よりも動詞が中心になっているようです。


日本語は、典型的なSOV形式の構文ですので、最後のVまでをしっかり確認しないと、伝聞なのか意見なのか事実なのかさっぱりわかりません。

これを逆手にとって、勇ましい内容を話している割には、最後の結論が「・・・ということを聞きました。」や「・・・と思います。」などが出てきてズッコケることがあります。

日本語で一番気をつけなければいけないことは、そこで述べられていることが事実なのか推測なのか希望なのかの判断が、一番最後の動詞までをしっかり聞かないとできないということです。


人の話を最後まで聞けということは日本語については本当に大切な教えとなっているのです。

英語の場合は、早い段階で動詞が出てきますのでその段階で大筋が理解できます。

その後の言葉を確認しないと理解できないのはbe動詞くらいではないでしょうか。


交渉の基本は、起きている事実をお互いに確認することから始まります。

特に会話においては、この事実を確認することが大変難しくなっています。

それが事実なのか推測なのか希望なのかは、話している方も順序立てて整理して話しているわけではありません。

ましてや希望していることに対しては、実現してほしいわけですから、あたかもすでに事実になっているかのように話されることが多くなります。


相手の話の中から、事実を切り分けしなければならないのです。

更には、その事実に対しての評価までもが述べられる場面においては、あたかもその評価自体が事実のように表現されていることが非常に多くなっています。

それは事実なのか、それとも、ある事実に対して相手が行なっている評価なのかは大きな違いなのです。


特に、相手に交渉上の落としどころについて目的がある場合は、事実に対する評価を、そのために都合のいい評価にしている場合が多々あります。

交渉上手は、相手の話や自分たちの持っている情報から、まずは事実を切り分けすることを行います。

そして事実だけを共有することを行います。

これが日本人にはとても苦手です。


普段から、事実も意見も推測もごった混ぜになった会話をしていますので、事実だけを切り出しすることがとても苦手です。

そこでは、相手の言っていることの中から事実を拾い出したり、言葉の行間から事実を見つけたりしなければなりません。

この感覚は、日本語の母語の感覚にはないものです。

自力で身につけなければならないものとなっています。


かなり難しい感覚となっています。

相手との会話の中から事実だけを切り取ることは、かなり難しい行為です。

そのためには、自分で事実を表現することを訓練しておく必要があるのです。

自分はいま、事実を話しているのか、意見を言っているのか、希望を言っているのかを常に意識する必要があるのです。


更には、事実を表現するときにはどんな表現方法をするのがわかりやすいのか、どんな表現になりやすいのかを身を持って経験しておく必要があるのです。

評価を交渉のテーブルにのせて反論をすると喧嘩になってしまいます。

評価は、事実に対してそれぞれの立場で行われた見方にすぎません。

同じ事実に対しても、立場が違えば評価は異なるものになります。

変えられる立場であればいいのですが、その立場は簡単には変えることができません。

その立場に立って、より良い評価にしたいために交渉しているわけですから、そのために事実をどう変化させるかが交渉の中心ごとになってしまいます。


相手は事実と評価が同じレベルになっていることが大変多いです。

話を聞いているとよくわかると思います。

事実に対する話と自分たちの事実に対する評価の話が、同じ次元で区別なく出てきます。


相手に事実を切り分けてくれというのは無理な話です。

こちらが、事実と評価を切り分けて、まずは事実だけを共有することをする必要があるのです。

ほとんどの交渉事は、この段階で対立関係がきわめて緩和されてきます。

少なくとも、事実としては共有できてくるわけですから、合意できる点ができてくることになります。


その時点から、だんだんに対立関係にあった交渉の環境に変化が出てきます。

一方的な要求であったものが、共に何とかしようという雰囲気に変わってくるのです。

日本語は事実を切り分けするには、とても難しい言語です。

それでも、事実を切り分けできた場合のメリットはとても大きなものがあります。


事実だけを表現することを試してみませんか。

かなり役に立つことは間違いないですよ。






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2014年10月24日金曜日

日本語と皇室

言語について見ていくと、どうしてもその言語が持っている精神文化に触れることになっていきます。

言語の前提には、その言語を使うための精神文化があったことは間違いないと思われます。

言語の特徴は、その言語を生み出し使用するようになった精神文化が存在したことや、新しい言語や言葉が導入された背景には、植民地のような強制があったかどうかは別にしても、精神文化の変化を見ることができます。


言語としての日本語の特徴を見てきた中では、どこかに必ず精神文化(とくに宗教や生活環境)との関係が触れられてきています。

これは、過去のこのブログについてもいえることです。
(参照:気づかなかった日本語の特徴日本語 vs 英語 など)

特に意識をしなくとも、どうしてもかかわってしまうことです。


日本語の特徴の一つとして、文字のなかった時代の言葉を現代にまで継承して、今なお日常語として使用していることがあります。

このこと一つをとってもそうですが、そこには皇室(朝廷)という存在が大きな役割としてあったことに気がつきました。

記憶に新しいところでは、東京オリンピック招致のスピーチで行われた高円宮久子様の、和の心を持った完璧なクィーンズ・イングリッシュによるスピーチがあります。

英国貴族のメンバーからも、手本としたい英語であるとされた内容は、そのほとんどがご自身で考えられたと言われています。


また、正月に行われる歌会始などは、伝統的な和歌に技法の中に「今」を詠いこまれます。

和歌は、川柳や標語などとして広く一般に浸透している日本語の伝統表現です。


皇室という呼び方は世界で日本だけであり、戦前には帝室とも呼ばれていたものです。

世界には、日本の皇室以外にも王室・公室と言う存在がある国や地域が26ほどあります。

代表的なのは、イギリス連邦の王室やモナコの公室、ブータンなどがあります。

公室については国名にも公国とついている場合がほとんどですのでわかりやすいと思います。(モナコ、リヒテンシュタイン、ルクセンブルクの3公国)


日本の皇室は、この中でも最古の歴史を持つ存在であり、少なくとも6世紀まではその存在を遡ることができます。

日本の次ぐのは、10世紀まで遡ることができるデンマークの王室になります。

この中で注目すべきは、欧州の王室です。

3か国(スペイン、スウェーデン、モナコ)を除いたヨーロッパ全ての王室はイギリスを含めて、ドイツから婿を取って継承してきているのです。

ドイツの血が、ヨーロッパのロイヤルファミリーを席巻しているのです。


王室が権威も権力もすべてを握っていた君主制は、フランス革命以降に廃止されるようになり、アジアにおいても辛亥革命によって君主制が廃止された例もあります。

反対に、スペインやカンボジアの様に王政が復活された国もあります。

日本の様に象徴化された存在となっている国もあれば、現実に君主としての統治をおこなっている国もあります。


ヨーロッパにおける文化手的な基盤の共通性は、こんなところにもうかがえるのではないでしょうか。

特に血統と伝統を重んじる世界ですので、精神文化の拠り所としてはこれほど頼りになる存在はありません。

世界のロイヤルファミリーにあっても、日本の皇室は特別な存在であり、その独自性と皇族の品位は敬意の対象となっているのです。

私は、決して公室ファンというわけではありませんが、日本の精神文化の具現がまさしく皇室に見ることができるのではないかと感じているところです。


日本の皇室は、まさしく歴史文化の源としての神話にストレートにつながる存在です。

このような存在が、世界の先進国のトップランナーを走る国である日本にあること自体が不思議なのです。

外国人から不思議がられるのは当たり前のことですが、日本人である私たち自身が、経済・工業先進国としての存在と神話につながる皇室の存在がなぜ併存可能なのかが理解できないのです。

生まれた時から、そうなっていたのです。

そういうものだと思っているから、特別におかしなことだとは思わないのです。


言葉として、文字のない時代の言葉を今に継承して、日常語として使っているだけでなく、精神文化そのものを継承しながら「今」を作っている不思議な国なのです。

おそらくは、日本に生まれていなければ永久に理解することは不可能ではないでしょうか。

日本に生まれたとしても、何らかのきっかけで考えることがなければ何の疑問も抱かいないのではないでしょうか。


日本が世界に対して発信すべきことは、まだまだたくさんありそうです。

そのためにも、私たち自身がしっかりと日本を理解した日本人である必要があります。

嫌でも世界と触れる機会は増えてきます。

その時に、私たち自身がしっかりとした日本人でいることが、さらに日本に興味を持ってもらえることになるのではないでしょうか。


日本の不思議さこそ、世界に誇るべきものではないでしょうか。

この不思議さを伝えるチカラを身につけたいですね。

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2014年10月23日木曜日

日本語感覚の交渉力が求められている

交渉学という学問分野がありことを知りました。

どうやら世の中のあらゆる交渉について研究する学問とでも呼ばれているようですが、もともとはゲーム論を中心とした経済学や心理学・政治学などの学際的にあったものが、少しずつ体系化されてきているようです。

そうはいっても、現実には意思決定分析のような研究領域からビジネスの実践訓練など大変多岐にわたっているものでもあります。

そこにも、対照的なアプローチがあり、時代によっての流行的なものもあるようです。


ひとつは、権力やポジションなどを背景にした、強硬な態度や強引な説得によって交渉を勝ち取ろうとすることであり、もう一つは、協調的な交渉によって双方の便益を少しでも高めようとするものです。

前者は強者の論理となり、立場的に強い方が一方的に利を得ることとなり、交渉における勝者と敗者がはっきりと分かれます。

後者は、一方的にむさぼり取る勝者の立場を善しとせず、双方がある程度の便益を享受できるものとなります。


特に先進国におけるこれからの交渉は、後者の方に移行してきていますが、前者の交渉が中心となっている分野や国があることも否定できません。

それでも、これからのトレンドは協調的な交渉において一方的な搾取を許さない方向に向かっていることは確実であると思われます。

ところが、論理的には成り立っているはずのこの協調的な交渉が、実際の場面ではなかなかうまく運用できていないことが多くあります。


日本語の感覚が持っているもので言うところの、「なかを採っていきましょう。」や「三方一両損」「痛み分け」などがそれにあたると思われます。

特にお互いの主張と譲歩が限界となった時に、交渉の最後の落としどころとして、明確な勝者敗者を作らない日本人らしい交渉術です。

これを真似て、作り出した方法が、win-winネゴシエーションです。


そもそも、二元論を原則とした勝ち負け、正悪、賛否のどちらかを決めないと落ち着かない彼らにとって、交渉とは勝つための手段であって、一方的な勝利を得るための手段であったわけです。

一方的に負ける可能性が大きい場合は、交渉という手段を回避しようとします。

交渉というのは、はっきりとした勝ち明けを決する場であったのです。


今更、協調的な交渉と言われても、そう簡単に本質が変わるわけがありません。

それでも、一方的な搾取に対する非難は法律でも規制されるようになってきました。

そのために、一方的な搾取をしながらも、相手にそのように思わせないために開発された技法が、win-winネゴシエーションです。

一部の人がありがたがって使っているような、両者の利益を考えた交渉とはかけ離れたものです。

その実態については過去のブログを参照していただきたいと思います。
(参照:Win-Win にだまされるな)


交渉の場面においては特に、英語との対照において日本語を考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。

英語は、言葉なり文字なりで表現されていることが全ての情報です。

そこで拾いきれなかった事は、交渉の対象となることもありませんし、交渉において考慮されることもありません。

ニーズも望んでいる結果も表現されなければ、交渉の対象とはならないのです。

交渉の必要がある事については、必ず何らかの表現がされてテーブルに載らなければならないのです。

そして、そこで白黒をはっきりとつけることが、英語の文化であり当たり前の姿であるのです。


勝った方がすべての利を享受し、負けたほうは利を得ることができないことになります。

そのために恨みや悔しさは残りますが、そこは感情よりも論理が優先する英語文化です、怨念が残ったとしても論理において敗けたことで自分自身を納得させるのです。

そのことが次の場面での勝利に対する執念となってくるのです。


彼らは、勝つか負けるかわからないという態度で交渉には臨みません。

必ず勝ちにいくのです。I can なのです。
(参照:日本語 vs 英語


日本人は交渉事が好きです。

交渉うごとよりも相談事と言った方がいいかもしれません。

そこでは、行間を読んで相手の状況を推察することが行なわれます。

相手の立場や、会社の状況を踏まえた判断が自然に行われるのです。


強者はいつまでも強者でいられることがないことをわかっています。

平家物語の世界ですね、盛者必衰のことわりが精神文化にしみこんでいますので、強者が強者であるためには弱者に対しての施しが必要なものだと考えられています。

英語圏のボランティアとは、持ちすぎたものが罪ほろぼしとして行うニュアンスが強いのに対して、日本の施しは持ちすぎる前に分け与えることを前提としています。

そのために、交渉の中に存在する利のすべてがどちらか一方に独占されるということが、起こりにくくなります。


更には、「ここでは泣いておいてくれ、その代り必ずこっちは任せるから。」という口頭の、実現性が比較的低い約束が出てきたりするのです。

受ける場合にしても、絶対はないとわかっていても、貸しを作ったとしてその後の交渉を優位に運べる口実を得ることになります。

相手の立場や影響力を考慮して、その場の単独交渉だけでの勝ち負けをはっきりつけようとはしないのです。


表現されたものだけではない、共通認識や相手の状況を推察することによって、最後の落としどころは双方にとって利がある地点に落ち着いていくことになります。

一方的な搾取は、禍根を残し警戒し続けなければならない敵を作ることになります。

日本では、恨みは理屈を凌駕します。

感情が論理を押さえつけて行動に移るのです。


完全なる支配や、根こそぎの虐殺はあり得ないのです。

生ある限り、相手の変化や成長による逆転を恐れるために、完全なる搾取をせず恨みを抱かせないように施しを残すのが日本であり、根こそぎその可能性を抹殺してしまうのが欧米・中国なのです。

体裁としての交渉がまとまった締結の場面が欲しいのであれば、根回しによってその場面を作ればいいことになります。


日本型の交渉が、注目を集めています。

もちろん、すべてが良いところだけではありませんが、世界の交渉から見ると学ぶところがたくさんあるようです。

目先のテクニックだけではなく、日本人の精神文化が現れた場面が交渉の場面ではないでしょうか。

日本人同士だから成り立つ交渉もたくさんありますが、どんな条件が整えばそのような交渉が可能なのかは研究する価値がるのではないでしょうか。


またまた、日本語を使いまくっての楽しい場面がありえそうですね。

日本人や日本語の感覚を表現し、他の言語を母語とする人たちに理解してもらうことは大変難しいことですが、今後はもっと積極的に取り組む必要がありそうですね。

日本の良さは、、まだまだたくさん見つかりそうですね。





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2014年10月22日水曜日

道徳についての中教審の答申が出ました。

昨日、10月21日に中央教育審議会(中教審)より文部大臣に対して、「道徳に係る教育課程の改善等について」の答申が提出されました。

これは、初等中等教育分科会教育課程部会の下に設けられた道徳教育専門部会にて、10回にわたって審議されたものを中教審として答申したものです。

道徳教育に当たっては、期待される「いじめ対策」として教育改革の中心に置かれていたものです。


有識者のヒアリング等によって広範囲な意見を吸い上げたと言われていますが、その対象のほとんどが教育学者となっています。

また、中教審そのものは全国都道府県教育委員会連合会の別名であり、道徳専門部会のメンバーを見てもすべてが既存の教育行政の環境のなかで活動している人ばかりとなっています。

その割には、少し踏み込んだ内容になっているのではないかと思いますが、マニュアル的なカリキュラムがない教科でもあり先生による授業内容のばらつきの大きさが指摘されています。

「生きる力」を育むことが大きな目的として掲げられており、「豊かな心」「確かな学力」「健やかな体」のための基盤となるものであるとしています。


評価できる点は、その教科としての評価方法として他の教科とは一線を画しており、点数での評価にはそぐわないものとしていることです。

子どもたちの表現することに焦点を当てており、押し付けられた規範やルールではなく、自分たちで考えて表現することを導こうとしています。

しかし、実際にどのような評価方法とするかとの間では、教える側のレベル差とともに明確な指針としては打ち出せていません。

考え方としては理解できる部分もたくさんありますが、現状の教育環境以外での社会生活知らない教師たちがどのように運用できるのかについては見えてきません。


その中で道徳教育は、本来、学校教育の中核として位置付けられるべきあるものであとしています。

そこでは、優れた取り組みがある一方で以下のような問題点が存在していることも確認しています。

道徳の時間において、その特質を生かした授業が行われていない場合があること、発達の段階が上がるにつれて授業に対する児童生徒の受け止めが良くない状況にあること、学校や教員によって指導の格差が大きいこと、などが挙げられています。

更に但し書きとして、特定の価値観を押し付けようとするものだという批判を取り上げていますが、特定の価値観を押し付けたり主体性を持たずに、言われるままに行動するように指導することは、道徳教育の目指す方向の対極にあるものだとしています。

学校教育の中核に位置付けるべきものとしながらも、週一時間の時間はそのままであり、抱えている課題の多さを挙げていることが多いと思われました。


普段から子供たちと一番接している学級担任よる指導を推奨しており、一人ひとりの児童生徒に対しての更なる個別的な対応を求めているものとなっています。

道徳の時間を、「特別教科 道徳」として位置付けて、より意識されることを提唱していますが、そこまでの中身が伴って初めて意味のあるものとなるのではないでしょうか。


道徳に期待することは、学校教育の教科のなかで唯一、自らテーマを見つけて表現することが実践できる可能性があるということです。

道徳以外の教科で、何らかの形で表現をすることがなされるものは、音楽、美術、体育などではないでしょうか。

ただしその表現する手段と目的が限定されている場合が多く、比較的自由に言語表現ができる環境は道徳にこそふさわしいものではないでしょうか。

今回の答申の内容は、そのほとんどが一人ひとりに対して、自分で考えて表現することを「生きる力」として捉えているように思われます。


他の教科では、ひたすらインプットによって知識を習得することに専念していく事がメインであるのに、たった週一時間の道徳だけで、アウトプットを求めても難しいでしょう。

しかし、その取り組みはインプットに偏った学校教育に、小さな可能性を見ることができると思います。

扱う材料さえ間違わなければ、イギリスにおける演劇を利用した表現教育や、アメリカにおけるディベートによる表現教育なども大いに参考になるのでないでしょうか。

しかもそれは、数字としての評価ではなく、個性としてのある程度何でも認められる環境で行われることになれば、大きな改革と言えるでしょう。


問題は、答申でも指摘されている通り、指導する側にその経験がほとんどないために、どの様に指導しどの様に評価したらいいのかわからないことです。

いわゆる学校の成績や、試験としてどのように評価するのかは、大きなテーマです。

特に、高等教育以降の入学試験や評価においてどのように位置づけられるかが、中等教育以下にも影響を与えることになります。


現状では、あまり影響のない内申点としての評価しかないことで注目されないことが、教科としての変革のやりやすさにつながっていますが、反対に教科としての重要性としては極めて軽く扱われているものです。

児童生徒に大きな負担となることなく、楽しさを持って進められることが理想ではないでしょうか。

特に小学校の高学年以降のいじめの原因のほとんどは言葉によるものです。

道具としての言語を一通り身につけた彼らが、身につけた言語を他人に対してどのように表現していいのかがわからず、本人は意図せずにいじめになっていることがほとんどだと言われています。

特に小学校の高学年における道徳は、その効果を期待されるところだと思います。

自由に表現できることとともに、自分の表現が人にどんな影響を与えるのか、まさしく道徳の目標にもある「自分自身」から「他の人」「集団や社会」「自然や崇高なもの」へと感覚を広げていく時期なのです。


せっかく、一歩踏み込んだ答申となっている内容を少しでも現実的なものに展開していってもらいたいと思います。

教育指導要領の改定などの具体的な実施は、平成30年度をめどに置いているようです。

それ以前のモデルでもいい結果が出て欲しいと思います。





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2014年10月21日火曜日

ヘイト・クライム

最近よく聞くようになった言葉に、「ヘイト・スピーチ」があります。

昨日の橋下徹大阪市長と在特会(在日特権を許さない市民の会)の桜井誠会長の面談の様子が、ニコニコ動画で配信されていました。

何ともお粗末な面談で、どちらから仕掛けた面談かわかりませんが、最悪の結果になったと思います。


ここで最悪と言っているのは、中身が何にもなく、両者の意見すらもまともに発せられないだけでなく、この面談の効果として、それまであまり知られていなかった在特会という存在を大いに世間に宣伝してしまったことです。

いろいろな人がコメントや意見を寄せていますが、NPO法人「コリアNGOセンター」(大阪市生野区)の金光敏事務局長の意見が一番的を射ていたものではないでしょうか。

「何のための面談か全く意味が分からなかった。在特会の社会的認知を高めただけ。市民の代表の市長が公の場で罵倒される姿に不快な感じがした」と話した内容は、すべてを代表したものではないでしょうか。


ヘイト・クライム(hate crime)は呼んだ通りに英語ですので、アメリカで生まれた概念です。

日本語に訳すると直訳的には憎悪犯罪とでもされていることが多いようですが、憎悪犯罪で理解できますか?

なるべく具体的に表現してみると、人種、民族、宗教、性的指向などに係る特定の属性を有する個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる暴行等の犯罪行為のこととでもなるのではないでしょうか。

つまりは、犯罪の原因が個人の感情にあるわけで、個人の感情だけで犯罪として成立することはありません。

殺してやりたいほど憎いと思っていても、それだけでは犯罪として成立しないことと同じです。

行為としてなされたものが、具体的な犯罪の要件を満たしている場合にのみ犯罪として成立します。


特定の民族や人種に対して憎悪を抱く人たちが集まって相談していても、具体的に他の人に迷惑をかける行為がなければ犯罪にはなりません。

思想の自由や言論の自由という基本的な人権との関係で、扱いがとても難しい分野となっています。


ヘイト・スピーチは民族や人種、性別など、自分で変更するのが難しい属性に対する憎悪表現を指します。

そうした言葉で世の中をあおり立て、差別や偏見を助長するのがヘイトスピーチと言われていますが、判断が難しいのが「世の中をあおり立て」「差別や偏見を助長する」ことをどうやって確認するのかということになります。

ヘイト・クライムが具体的な犯罪行為を対象としているのに対して、ヘイト・スピーチは表現を対象としています。

まさしく基本的な人権として万人に保障されている表現の自由との関係が難しいことになります。


韓国や中国による慰安婦問題についての発言や行動は、史実と大きく離れているだけに頭にきている人がたくさんいることも事実ですが、それだけで罪に問うことはできません。

具体的な被害があって初めて、名誉棄損その他の罪に問うことが可能となるだけです。


それに対して何かの反論をしたいという気持ちは、ある意味では素直であり当たり前のことだと思います。

それが彼らの在日特権の認めないという方向にいくのかどうかは、難しいところになるでしょう。


世相やニュースとして取り上げることが、このような団体の活動を助長することになることも間違いありません。

私自身も在特会の存在そのものも今回のことで初めて知ったところです。


在特会は、国連、アメリカ、日本警察の三者においてヘイト・クライムに相当する組織として監視対象となっているところです。

このような対象に対しての扱い方が、日本は本当にうまくないです。

報道が取り上げれば取り上げるほど、彼らの存在を世の中に対して宣伝していることになります。

今回のような面談を行えば、各メディアがこぞって取り上げるようになります。

これを規制することは、報道の自由との関係が出てきます。


どうやら日本全体が、今までの法律や規制の範囲では健全社会を維持していくことができない環境になっているのではないでしょうか。

憲法九条の解釈や自衛権の解釈の問題もその一部ではないでしょうか。

今までの規定ではカバーできない犯罪が増えてきています。

そこを狙ってくる犯罪もあります。

影響を及ぼした結果の割には、それに対する罪があまりにも小さいものもあります。


そこで考えるべきは、新たな規制ではなく、そもそもの立法したときの主旨ではないでしょうか。

法律や規制には必ずその目的があります。

代表的なものは、日本国憲法の前文です。

憲法の各条項がすべて、この前文のために規定されているものです。


目的が明確にされていれば、具体的な行為を特定することによって、司法側で判断することが可能ではないでしょうか。

アメリカのように文字に書かれえたものがすべてであり、そこにないことについてはわかっていても問われることのない文化とは異なるのです。

あらためて、今存在してる膨大な法律や規制のそれぞれの目的について、規定しなおしてみることはとても有意義なことではないでしょうか。


文字や文章になっていること以外のことについても、共通認識を持っている分野が沢山あるのが日本人です。

これ以上沢山の法律や規制ができても、運用できるのでしょうか。

法律が適正であるかどうかの判断基準は、憲法の主旨にずれていないかどうかです。

つまりは、憲法の主旨さえ理解していたら、細かな法律や規則は知らなくとも抵触することはないということになります。


ヘイト・クライムは完全なる犯罪ですが、ヘイト・スピーチをどう規制するかはとても難しいことだと思います。

人を殺してやろうと考えることは罪にはなりません。

殺してやろうと思って行動することが罪になることになります。


アメリカでは、州の法律では国旗を燃やすと罪に問われることがあります。

ところが州で有罪となっても連邦裁判所にまでいくと、それだけだったら必ず無罪になります。

国旗を燃やしたことによって、誰かに迷惑をかけたとしたら別ですが、自分の国旗を何らかの抗議行動として燃やしても罪に問われることはないのです。

連邦においては、たとえ国がどんな状況にあっても、個人の意見や意思を規制することは出来ないとなっているからです。


こういうアメリカは、私は好きです。

ほかは、あまり好きなところはないのですが・・・

こういうところは大いに手本にしたいところだと思います。

ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチへの対応は、今までとは違ったことが求められていると感じています。

どの様な対応をしていくのか、見ていきたいと思います。





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2014年10月20日月曜日

交渉力って何?

これだけ執拗に日本語について書いていると、私のことを相当にすごい日本語使いだと思う人がときどきいます。

リアルにお会いしても、私のブログをずっと読んでくださっている方などは、「意外と普通なんですね。」などと言われます。

何が普通であるのかよくわかりませんが、私自身は人と話をすることが苦手です。

今でも時々は出ますが、赤面症です。


「わかっていること」と「やれること」の大きな違いについては、今までも何回か触れてきています。
(参照:「わかっていること」と「やれること」の違い

「わかっていること」と「やれること」は直接には結びつかない全く別の次元のものであることがわかっています。

私自身がお伝えしていることは、「わかっていること」が基本であって、その中で実際に「やれること」はごくわずかであると思います。


特にやり方とかノウハウ的なことは、サンプルとしてやって見せることは出来たとしても、決してそれをやり続けているわけではありません。

「知っていること」を「やっていること」と思い違いをしてしまうことは、良くあることです。

自分自身の中でも頻繁に起こることです。


特に何かをやろうとしたときに、「知っていること」が邪魔になることがよくあります。

関係する何かを「知っていること」によって、実際にはやってもいないのに結果を予測してしまうことです。

予測すること自体は、決して悪いことではありませんが、その予測によってあたかも実際にやって結果を得たような気になってしまうことが一番怖いのです。


交渉の場面においては、予測力がフル回転します。

特に事前に相手の出方を想定するときなどは、まさしく予測力や想像力までもが動員されます。

予測力や想像力の根拠は、今現在持っている知識すなわち「知っていること」です。


交渉相手の情報が少ないほど、予測力を働かせなければならなくなります。

結果としてはこれが無駄なことになることがとてもたくさんあります。

交渉は、まずは予測したストーリー通りになりません。


交渉力と言うと、説得力や相手を意のままに動かす力と勘違いすることがありますが、全く関係ないことです。

大切なことは交渉の目的を、できるだけ具体的に設定することです。

販売するための交渉であれば、どんな商品をいくらでどんな条件で販売するのかを設定しておくことが大切です。


こちらの交渉目的以上に大切なものがあります。

それは、交渉相手の交渉目的です。

これを忘れたり、確認しなかったりすることがたびたび起こります。

その結果、一方的な売り込みになってしまいうまく交渉にならないことが起こるのです。


お互いの交渉の目的が近いところにあれば、余分な話は必要ありません。

詳細の条件交渉だけでまとまることになるでしょう。


しかし、通常の交渉において一番確認しずらいことが、交渉相手の交渉目的です。

購入目的があると思って交渉した相手の目的が、新商品の機能についての比較情報収集であったなどということは、日常茶飯事ではないでしょうか。

更には、交渉目的の裏にある相手のニーズに、相手自信が気がついていない場合もあります。

特に購買部の担当者との交渉は、購入価格が相手の交渉目的になりがちですが、会社としてのニーズは違うところにあることが良くあります。

購買部の担当者自身がその商品の購入目的を理解していないのです。


交渉力の基本は、相手の交渉目的を直接具体的に確認することで決まります。

この時に、本音の交渉目的をつかめるかどうかは大きな要素です。

また、交渉目的を確認することによって、相手の持っている本当のニーズを確認することが可能になるのです。


このことを確認できないのに、、交渉のストーリーを描くことは出来ません。

類型化されたプレゼンテーションや説明資料が交渉には役に立たないのは、こんな理由からです。

類型化して、一般化して、抽象化してしまったニーズには誰も共感しないのです。

自分だけの個別のニーズに合致した、交渉だけを求めているのです。


仮に類型化した資料の一部のニーズが自分に当てはまったとしても、それ以外の不要な部分の多さが、焦点への集中を鈍らせてしまうのです。

交渉の目的は、毎回異なるのが当たり前のことです。

先回の目的と全く同じということはあり得ません。


交渉力は、相手の交渉の目的とすることと、こちらの目的とすることをしっかりと確認し合うことに他なりません。

双方の目的が同じことに対しての相反する結果を求めることであることはほとんどありません。

むしろすれ違っていることの方が多いのです。

交渉ごとのうまい人はそのことをよく知っています。


ですから、相手の目的もかなえて、自分の目的もかなえるという結果を手にすることができるのです。

何かを販売しに行くときに、こちらの目的はある条件での販売になります。

そのときによくやってしまっていることが、相手の目的をしっかりと確認していないことです。

その結果、その交渉おける相手の目的を、対象商品に対する販売の条件にしてしまうのです。


相手の本来の目的は、そんなところにありませんので、こちらの目的以下のどんどん厳しい条件を突き付けてくることになります。

大失敗の交渉です。

勝手に相手の交渉目的を、こちらの目的に敵対するところに設定してしまったのです。


実際には、とてもよくある話です。

最初に交渉の目的を確認することは、もしかすると勇気がいることかもしれません。

しかし、交渉を行うのはその目的をかなえるためにやっているので、それ以外の何物でもありません。

また、交渉目的は、初期段階でしか確認することができません。

交渉の途中で目的を確認しようとでもしたら、それこそ大恥をかくことになるでしょう。


交渉や打合せのたびに、今回の目的をきちんと確認する習慣をつけておきたいですね。

有限の時間のなかで、きちんと結果を出していくためには絶対必要なことです。

このことは、「知っている」人はほとんどなのですが、「やっている」人はほとんど見られないことの典型だと思います。

自分では気がつきにくいだけに、常に気をつけていたいですね。




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