2014年10月31日金曜日

論理と共通認識領域

言語としての日本語教育のなかで、学校教育においては、言語や知識としてのインプットがほとんどであり、言語を用いてのアウトプットについては教育されてきていないことは何度か触れてきました。

では、表現するための教育を受けてきていないことが実際の場面ではどんな影響が出ているのかを見てみたいと思います。


日本人は、表現することにおいても、議論をして結論を出していくことが苦手です。

それに比べると同じ表現でも、一方的な発信はそれほど苦手としてないように思われます。

もちろん、場慣れや大勢を前に表現することの緊張はありますが、自分なりの立場や理屈で意見を述べることは決して苦手ではないと思われます。


一方的な発信は、プレゼンテーションや発表会などであって、その場では一方的な論理の展開が可能な場面です。

人によっては、断定確信的に表現する場合もあれば、推定感想的に表現する場合もあり、聞き手によって同じ内容でも表現を変えていたりする場合もあります。

トレーニングや教室的なものも、人前で話すことやスピーチ・プレゼンテーションなどについては、アナウンサーや心理学者などによって多くのものがあります。

その効果についても実績のあるものがたくさんあります。


ところが、実際の仕事や生活の場においては、一方的に自分の意見だけを表明しきれる場面はほとんどないことはみんなが気づいていることではないでしょうか。

ましてや、スピーチや講演などをする機会は決して多くはありません。

たまたま、その機会があるときに格好よくやりたいことはわかりますが、そのための技術を学んでも、実際に使用する機会はそんなにあるわけではないのです。

一方的な発信は、大勢の前で話すことの度胸をつけることや効果的な表現の訓練にはなりますが、双方向のコミュニケーションにおいては邪魔になることがあるのです。


私たちの仕事や生活の環境は、大から小まで双方向コミュニケーションで成り立っています。

大勢の前で発表することは出来ても、その内容について互いに協議しながらさらにいいものにしていったり問題を解決していったりという行為ができないと困ることになります。


日本語の大きな特徴の一つに、「行間を読む」ことがあります。

つまりは、表現されていないこと(領域)を共有していて、すべてのことの前提になっているために、具体的には表現しないことです。

また、あまりにも豊かな表現を持っているために、一人ひとりの持っている日本語がかなりバラエティに富んでいます。

そのために同じ言葉であったとしても、一人ひとりその理解について微妙に異なっていることが多くなっています。

これが沢山重なってくると、話している言葉は同じでも、その理解内容についてはかなり違ってしまうことが起きてきます。


日本語による日本人同士の議論で特徴的なものは、「共通認識領域」を作るのが苦手なことです。

それぞれの立場での見方や評価で主張するばかりであって、平行線のままに終始していくことが本当に多いです。

時間ばかりが過ぎていき、なされていることはお互いの意見の主張だけということを見たことはありませんか。

最後の落としどころは、「なかを採って」だとか「議長一任」、「両者痛み分け」、最悪の場合は多数決などになっているだけです。

そうでなければ、根回しや力技で一方の主張を押し付けることになります。


日本語で行われた日本人同士の議論で、当事者が納得し解決されて握手となった場面をほとんど見たことがありません。

特に多いのが、お互いが言おうとしている意見が根底では同じにもかかわらず、違った言い方や理屈でしか主張しないためにいつまでも平行線で、気がついたらお互いに気まずい思いをしていることです。

極端な場合には、使っている言葉は同じだが、両者の持っているのその言葉の定義が違うための誤解となっていることもあります。


議論をしている当事者は、自分の意見を通そうと一生懸命なので気がつきませんが、オブザーバー的な立場にいるととてもよくわかるときがあります。

それでも、自分が当事者になった時は、同じことをやっているんですね。


日本語は知的活動のためのツールとしては、素晴らしく優秀なものだと思います。

しかし、相互コミュニケーションとしての議論や交渉において問題解決を図っていくためには、もう一工夫必要なモノとなっています。

学校教育では、日本語を使ってのアウトプット技術をほとんど身につけていない以上、自分で身につけていかなければならないことです。


それは、議論や交渉の大前提としての「共通認識領域」をしっかりと作ることです。

議論や交渉において使用される論理は2種類しかありません。

普段から当たり前に使っているので、表現しない共通領域になってしまっていることではないでしょうか。


一つは演繹法であり、もう一つは帰納法です。

難しく聞こえますが、私たちが日常的に使っている論理であり、すべてのことをこの二つを使って考えているのです。


簡単に言いますと、演繹法はいわゆる「三段論法」です。

例えば、「動物には生命がある。」、「人間は動物である。」、だから「人間は生命がある。」ということですね。

最初の「動物には生命がある。」が大前提としての「共有認識領域」です。


日本人同士の議論では、この部分が省略されることが大変多いです。

当たり前のことだから、触れること自体が恥かしいということも精神文化的にはあります。

何を当たり前のことを言っているんだという批判や評価も原因になっていることもあるかもしれません。


更には、日本語では表現方法が沢山ありますので、最後の意見として「だから、人間は死ぬ。」という導き方もあります。

大前提が明確に表現提示されていないと、正しく三段論法になっているのかどうかも分からないのです。

「生命がある。」と「死ぬ。」ことは見方によってはかなり違うニュアンスとなります。

場合によっては絶対に置き換えが許されないこともあるでしょうし、どちらでも構わないこともあるでしょう。


帰納法としては、経験的な事実をいくつか集めてそこから一般的な結論を導き出すものです。

「この業界の企業の3社がこういった問題を抱えているのだから、同じ業界にあるこの企業でも同じような問題があるはずだ。」というようなものです。

これもまた、普段からいたるところで使われている論理ですね。


演繹法に比べると、さらに大事な部分である経験的ないくつかの事実が「共通認識領域」になければ、議論にも交渉にもならないことになります。

この部分をなしにして、意見を主張し合ったりしてもどちらも納得感も理解できないまま平行線は当たり前ですよね。


あまりにも当たり前に、論理を使いこなしてしまっているものですから、論理であることすら意識していないのです。

特に最近は、欧米の影響で自己主張に重きが置かれているために、前提抜きの自己主張が頻発しています。

子どもの喧嘩や力に任せたごり押しがいたるところで行われているのです。


対等の議論や交渉ごとの経験が圧倒的に少ない日本語の環境では、欧米の持つ目に見える表現技術にどうしても目が行ってしまいます。

いかにもグローバル的で格好良く映ります。

しかし、彼らの表現技術の根幹は「共通認識領域」を作ることから始まっているのです。

日本語の感覚の様に、「行間を読む。」文化のない彼らは、表現されたもののみが信用できる対象です。

当たり前のことを当たり前の前提として、「共通認識領域」に置くことから始まるのです。


英語で書かれた論文やメソッドを見ると、そのまま日本語に翻訳するとくどいくらい丁寧に前提が表現されています。

そのまま翻訳本として出してしまったら、まず読む人がいないくらいでしょう。

日本人の感覚で言ったら、馬鹿にしているのかとも思われるくらいです。


日本語でやるときにも「共通認識領域」を意識して作れるようになったら、ものすごい力になりますね。

これだけで解決してしまう問題もたくさんありそうですよ。







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