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2014年12月18日木曜日

自然との共生を描き続けた和歌

先進文明を担っている言語のなかで、最も特殊なものが日本語であることは折に触れて述べてきました。

欧米言語と比べた時に、より鮮明になるその特徴は、言語が持っている本質的な感覚が異なることを示しているものと言えます。

できるだけわかり易い説明にしたつもりですが、同じことに対していくつかのアプローチをしています。
(参照:本質的に異なる日本語と英語言語とものの考え方 など)


そして言語の持つ感覚の特徴は、自然とのかかわりや宗教(神)とのかかわりにおいてみることができることを示してきました。
(参照:日本語感覚と宗教のかかわり

日本語において、そのもっとも日本語らしい感覚を継承しているものがひらがなです。

ひらがなと言うとどうしても文字を思い浮かべてしまいますが、日本語の発音にはひらがなしかないことをしっかりと確認しておく必要があります。

アルファベットや漢字、カタカナなど、どんな文字で表記しようとも、日本語としての音はすべてひらがなの音になるのです。


話し言葉として聞こえるのはひらがなの音しかないのです。

このひらがなが、日本語の基本的な感覚を、途切れることなく継承してきているのです。

漢語の導入によって、文字が使用され始めました。

その漢語から「かな」が生まれてきました。

ここで生まれた「かな」は、それまでには文字を持っていなかった古代のやまとことばを文字として現わすために生まれたものです。


それ以降の日本語の一番大きな変化は明治維新です。

漢語を導入以来、明治維新までの間は、ほとんど他国の文化に影響をされることもなく、また、侵略を受けることもなくひたすら自国内で独自の文化を発展させてきた期間となっています。

最大の危機は、二度にわたるモンゴル帝国による元寇だったと思われます。

圧倒的な武力と機動力を持つモンゴル帝国の侵略を乗り切ったことは、一つの軌跡と言える出来事であったと思われます。

三度目の侵攻が計画されていたことや、ベトナムとモンゴルの戦いが結果的に日本への侵略をあきらめさせることになったことなど、気象条件やあらゆる条件が日本に味方した形となりました。

もし、この時にモンゴル帝国に侵略されていたら、おそらく日本語は消えていたことでしょう。


国内の争いはあったものの、文化そのものは時として自ら海外のものを導入することがあったとしても、侵略されることはありませんでした。

結果として、日本独特の文化を千年以上の時間をかけて醸成していくことができたわけです。

本格的に海外との接触が始まったのが、明治維新です。

産業革命を終えた西洋の文化が一気に押し寄せてきました。

これに言語上対応したのが、漢字でありカタカナでありアルファベットだったのです。


ひらがなはそのまま残ったのです。

日本人の自然との共生の感覚は、ひらがなによって継承されていったのです。

独特の文化を醸成してきた最大の推進力が和歌だったのです。


古今和歌集は、テーマによって巻が分けられています。

春歌、夏歌、秋歌、冬歌、賀歌、別離歌、羈旅歌、物名、恋歌、哀傷歌、雑歌などとなっています。

これによって和歌に取り上げられていた内容を理解することができます。

つまりは、自然と人(の感情)がうたわれ続けてきたのです。


時には自然を詠いながら心情を表したり、自然の現象や地名などと心情を掛詞として表現したりしながら、自然と人を一体として扱ってきたのです。

自然をどう扱うか、自然とどうかかわるかは、その文化の一番の基礎になることです。

そこから、神とのかかわりや人とのかかわりが定まってくるからです。


知を得た人間が、自然とどのようにかかわるかによって、その後の発展の仕方が大きく変わっているのです。

自然との共有や同化を選択した知は、変化する環境に対して自らを適応させる知恵を生み出していきます。

自然との対峙を選択した知は、自然を従える、コントロールする知恵を生み出していきます。

そして、自然の生物にはない、個という概念を生み出します。

やがて、個は種の保存という自然の大法則をもコントロールするようになり、種の保存よりも個の保存を優先させるようになります。


現代の文明の中心となり、世界を導いてきたのが、個の概念であり自然をコントロールする技術です。

これらの感覚を持った言語を使い、技術を進化させてきた者たちが世界の先端文明を作ってきました。

全く違った言語感覚を持つ日本語が、世界の先端文明の一端を担っていることが彼らにとっては不思議なのです。

日本語の感覚を知らない彼らは、日本人に対して自分たちと同じ感覚を持っていると錯覚しています。

だから、日本人がわからないのです。

日本語の持つ受容力の大きさと言えるかもしれません。


言語上の適応力の高さと言えるかもしれません。

言語の音数としては、世界でも有数の少なさを持ちながらも、表現できることは世界でも有数の豊かさを持っている不思議な言語となっているのが日本語の現状です。

同音異義語が山のようにあります、似たような音の言葉が山のようにあります。

ある種のあいまいさを内包しながら、とんでもない使い分けをしているのです。


これらの言語技術の原点と発展してきた環境が和歌なのです。

和歌は歌ですから、基本はすべて話し言葉です。

話し言葉を、書き表すために必要だったのが「かな」だったのです。

自然と人を一体化にした、一種の音遊びの技術なのです。


和歌は、文字で読んでもよくわかりません。

詠われたときの環境をよく理解しないと、内容のとり間違いが起こります。

あれだけの文字数で表現していますので、多くのことが省略されています。

しかし、省略されていることは、その環境にある者だったら誰もが理解できる共通のことがほとんどなのです。


日本語は環境言語です。

環境と相手によって、同じことを伝えるにも、使う言葉が変わります。

相手も自分も含めた環境を共有することによって、共有された部分は当たり前のこととしてどんどん省略されていくのです。

全く同じ環境は二つとしてありません。

同じ相手でも環境が変われば共有領域が変わります。

省略できることが変わるのです。


日本語はよく主語が省略されると言われます。

ところが、実際に省略されるのは主語だけではないのです。

しかも、共有領域については省略されること慣れていますので、逆に省略しないことの方が不自然に感じられて、失礼になったり馬鹿にされた気になったりするのです。


これらの感覚もすべて和歌が基本となっているのです。

和歌を理解しようとするときに、和歌だけを見ていても駄目なのです。

その和歌が詠まれた環境や、そこにいる人間関係が分からないと理解できないのです。


和歌集にも、短い文でそれぞれの和歌が詠まれた状況を説明している箇所が沢山あります。

これらを無視して和歌だけを取り上げても、理解することが難しいのです。

もちろん日本語として持っている感覚のなかで、詠み人と共有できている領域もありますので、その部分においては自然に理解できるものとなるのでしょう。


もう一度、和歌を違った面から見直してみることは、とてもいい知的活動になると思います。

千年以上前の和歌が、今現在の私たちが使っている言葉でも、ほとんど詠んで理解することができるのです。

こんなことができる日本語は、本当にすごい言語ですね。





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2014年5月16日金曜日

世界を導く「あいまいさ」

欧米を中心として発展してきた近代文明に、あらゆる分野で限界が見えてきています。

二元論を元にしたクリティカルシンキングも、行き着くところがYES/NOになってしまうことによって実態をとらえきれなくなっています。

コーチングや制約条件理論なども論理の展開や手法としては理解できても、実際に使用する場面においては、ある種の割り切りによる定型化が必要になってきています。

人の生活が豊かになることによって生まれている価値観の多様化は、様々な価値基準を生み出しており、今までの考え方では現状を把握することすら難しくなってきているのが現状でしょう。

把握したと思った現状すらが、切り口が異なれば全く正反対の評価をせざるを得ないものとなっています。


二十世紀の前半には、自然科学の世界では革命的な変化が起きました。

その変化を引き起こしたのはアインシュタインの相対性理論と量子力学の発見です。

古典的な物理学の土台をなしていた、因果律と決定論が破綻しました。

一義的決定性や完全なる記述の可能性という幻想は過去のものとなりました。

つまり自然界は根底のところで、一義的な決定的な表現ができないことが明らかになってきたのです。

それによって、自然科学はあらゆる中間領域(=あいまいな領域)に焦点を合わせるようになってきたのです。


私たちの存在そのものの根本原理に関しての見解は、物理学を土台として成り立っています。

物理学が二十世紀前半に成し遂げた飛躍的な発展は、やがて私たちの考え方にも変化をもたらしてくることになります。

すでに、自然科学の革命的な転換を受けて西洋の哲学も「あいまいさ」に目を向け始めています。

古代ギリシャ哲学の「ファルマコン」や「老子道徳経」などがさまざまな角度から取り上げられています。


こうした変化の波がいつ日本に届いてくるのかはわかりませんが、世界のあらゆる分野で日本人の思考や言語との関係が取り上げられてきています。

日本文化にその波が及ぶ時期は予想できませんが、近づいていることは間違いのないことでしょう。

今現在は、過去のものとされている日本古典文学は、その「あいまいさ」において実は未来のものであると言うことができるのではないでしょうか。


古代日本人は、古代中国の哲学を自らの経験を通して認識し、その認識を日本独自の表現方法である和歌を通して発展させていきました。

その結果、和歌は文学表現のメディアであるとともに、当時の知識層による哲学的議論のメディアとして活用されていったのではないでしょうか。

そして、哲学の対象である「心」は、古代日本人の存在論の基本的な概念として定着していったと思われます。

言い換えれば、もともととらえどころのない「心」は、古代中国の思想を特徴づける「あいまいさの哲学」と関連付けられることによって、現実的な概念として定着してしていったと思われます。


世界のどの国においても、「心」についてこれだけ多くの階層が、これだけ気軽に表現することができた環境は、日本における和歌以上のものを見ることができません。

「心」は自然科学における象徴であるとともに、唯一自分で感じること確認することができるものです。

一部の哲学者だけがその閉ざされた環境の中で思考してきた「心」は、そのほとんどを和歌においてみることができるのです。

そこにあるのは、まさしく極端から極端まで揺れ動く、中間領域における「あいまいさ」に他ならないのです。


この「あいまいさ」の思想は、まさしく私たち現代人の考え方に合いません。

現代の私たちは、決定論的な考え方に基づいて、古典の文学の読み方についても「ただ一つだけの正しい解釈」をしようとします。

もちろんこうした読み方も可能ですし、こうした読み方こそが今の考え方に即したものだと言えるかもしれません。


和歌の変遷を見ていくときに、単なる文学論として「大変美しいが、形に囚われてテーマが狭くて、深みが感じられない」という評価がほぼ定着してしまっているのはそのためではないでしょうか。

和歌を考える時に、当時の表現の手段を考えてみれば、知識層の問答がそこに集約されているとみることができると思われます。

誰もが表現できるその形式は、日常語に近いものとしての意味も持っていたのではないでしょうか。

あらゆる階層や地域での和歌を意図をもって編集するためには、最高権力者としての力が必要であったのではないでしょうか。

勅撰集という、単なる趣味嗜好の域を超えた事業としての意味合いもそこから伺うことができると思われます。


特に平安時代の和歌を考える時に、哲学的な議論の手段という役割をそこに認めると、古代人の存在論としての「あいまいさ」が一段と浮かび上がってくるのではないでしょうか。

これから世界を救うのはこの「あいまいさ」ではないでしょうか。

「もったいない」は世界を救ってきました。

「おもてなし」は世界の興味を引きました。

「あいまいさ」を感覚として持っている日本語を母語としているものとして、もっと日本語で表現を発信していってもいいのではないでしょうか。




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2014年5月15日木曜日

和歌に学ぶ言語技術

日本語の表現技術は、文字のなかった時代より和歌によって磨かれてきたと思われます。

和歌が残っている最古の記録としては万葉集と言うことになるのでしょう。


文字の発達においても、中国から導入された漢語の音を利用しながら文字を持たなかった「古代やまとことば」を表現するかな文字を生み出しました。

その目的は、「古代やまとことば」で詠われた和歌を文字として記録することが中心であったろうと思われます。

万葉集はそれだけとっても一級の文化資料であり、その研究だけで学問分野が成り立つほどのものです。

ここでは、万葉集と古今和歌集の表現の技術を比較することによって、発展を見てみたいと思います。


万葉集には、短歌・長歌・旋頭歌の形式で約4,500首の和歌が収められています。

扱われている歌の内容によって、相聞歌と言われる主に男女の恋を詠ったもの、挽歌と言われる使者を慈しみ哀傷する歌、それ以外の内容としての雑歌の三分類に分けられています。

表現の特徴からの分類も行われており、以下の分類が一般的となっています。
  1. 寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
  2. 正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
  3. 詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
  4. 譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現

その後の表現の技術の発展の基礎となっているのが、1と4で行われている「例える」技術です。

万葉集には古今和歌集(約1,100首を収めている)に比べると、長歌の量が多くなっています。

そこで行われている「例える」の技術は、例える対象物と例える心情を同じような言葉で両方とも表現しています。

長歌という文字数制限の比較的緩い方法だからできることともいえるでしょう。


これが150年以降に成立した古今和歌集になると、長歌が5首、旋頭歌4首となり、ほとんどのものが短歌となっています。

表現する文字数が少なくなるとともに、短歌という表現形式が定型化したものとして定着していることを示していると思われます。


古今和歌集のなかでは、より少ない文字数で定型化した短歌形式として、その中での表現技術が磨かれていきます。

万葉集の長歌の中で見られた「例える」技術は、短歌のなかでより洗練された技術として磨かれていきます。

その一つが、例える対象物と例える心情を同じような言葉で両方とも表現していたものを、短い文字数のなかで一つ言葉で両方のことを表現してしまう技術です。

この時代の和歌の中心技法としての掛詞(かけことば)です。


自然を詠った「水」(みず)に「見ず」(見えない)をかけて、川の「水」を詠いながらも相手を「見ず」に過ごす日々を恨めしく思っている感情を込めたりする技法です。

掛詞として使われる言葉も、自然における名詞や現象を表す言葉だけではなく、様々なことについての形容詞や動詞まで多岐にとんできています。

長歌における並記に比べると、ひとつの言葉で表現されることによって同時性がより強調されるとともに、秘めたる思いという心情が強調されています。


そこには、同時性を利用した「例える」ことを越えた表現も現れています。

その一つは全く正反対のことをひとつの言葉に込めることによって、不安定さや揺れ動く状態を表現する技法です。


次の小野小町の歌を見てみましょう。

  色見えて うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありけり

ここには、もう一つの大きな技術である濁点の不使用を見て取ることもできます。

掛詞の可能性を大きくするために、当時の技術では十分に対応できるはずの濁点を、あえて表記に使用にしないと言う技術です。


「色見えて」と「色見えで」で全く反対のことを表現しています。

それによって「色見えて うつろう物は」の最初の二句は二重の意味を持つことになります。

「目に見えて色が変わるもの」=「自然の花」と「目に見えないで色が変わるもの」=「心の花」が同時性をもって表現されています。


万葉集の時に漢語の音を使って「やまとことば」を表記した技術は、古今和歌集の時代には表記として使われる漢語が定まりながらも崩れ始めており、ひらがなの原型が見られるようになっています。

この当時の技術をもってすれば、濁点を表記することは決して不可能ではなかったと思われます。

和歌の表現技術のために、あえて濁点表記をしなかったと考える方が自然ではないでしょうか。


万葉集の長歌にあった並記による「例える」技術は、短歌が主流になることによってより短い言葉で行われる技術として磨かれていきました。

並記の技術はそこで消えてしまったのかというと決してそんなことはありません。

古今和歌集をよく見てみると、テーマごとに和歌群が構成されています。

この和歌群の構成が絶妙なのです。

テーマにおけるひとつずつの和歌の順番も選ばれている歌の数も絶妙なのです。


まるでテーマとしての和歌群によって、長歌が成り立っているような構成になっているのです。

複数の和歌を並べることによって、そこに使われている言葉や技術の対比の妙が、あたかも並べて構成するために詠まれた歌であるかのような編集がなされているのです。


近代以前では万葉集よりも古今和歌集の方が高い評価を受けていました。

近代以降は万葉集の方だと言うことになりました。

その理由の一つは長歌にあります。

文学の原型として表現技術を、短歌よりも直接的に見ることができるからです。

逆転のきっかけの一つとなったのが、「万葉集は歌集の王なり」と宣言した正岡子規の言葉です。


子規がどんな思いで主張したのかは定かではありませんが、古今和歌集を絶賛した江戸時代の国学者にたいして、きちんと万葉集のことも研究しなさいと言いたかった程度ではないでしょうか。

そもそもが、異なる時代の文化・文学の発展を示す第一級の資料であり「上」「下」で判断するようなものはないでしょう。

ここで言えることは、万葉集以降は長歌が読まれることがほとんどなくなったとともに、短歌における表現技術が飛躍的に発展した時期ということができると思います。

万葉集と古今和歌集を比較することは、日本語における表現技術の原点に触れるきっかけになるのではないでしょうか。


あえて勉強する必要はないでしょう。

同じ日本語として自分で感じられることで十分だと思います。

日本語の感覚として持つ文化と言語技術は和歌によって磨かれ発展してきたものということができます。

現代でも使える忘れられている技術もそこにはあるのではないでしょうか。


書くこと、表現することが大きな力となるのがネットの時代です。

短い表現で人を感動させる技術においては、和歌は素晴らしいものがあります。

もう一度、興味を持ってみてもいいと思いますよ。



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2014年5月10日土曜日

「あいまいさ」の美しさ・・・和歌

何回かにわたって、いろいろな観点から日本語の「あいまいさ」について触れてきています。

この「あいまいさ」は日本語の特徴であり、決して欠点としてだけ存在するとだけではないことです。

あまりにも多様な表現力を持つ言語であるために、使っている私たちが場面に応じた的確な使い方ができなくなっていることによって、「あいまいさ」の悪い面が強調されてしまっていることを知ることが大切ではないでしょうか。

表現の仕方によっては、場面に応じてこれ以上ない正確な表現による伝え方が可能であることを、私たち自身が気が付いていないことがあると思います。

何十年の間、日本語を使ってきながらもこんなことが言えること自体、日本語の大きさ・広さを物語っているのではないかと思います。


ひとつの言葉で正反対の意味にあたることを同時に表現することができる言語であることを見てきました。
(参照:「あいまいさ」に込められたもの

精神文化的な感覚としての彼我の関係が言語表現に現れることについても見ていきました。
(参照:「あいまいさ」の素晴らしさ

自然描写の中に同時に心情をも映しながら表現できる言語であることも見てきました。
(参照:自然の中に心を映す技術

YES/N0の両極端の間にある中間領域を表現できる言語であることを見てきました。
(参照:YESとNOの間にあるもの

そして、これらのすべてが和歌という表現方法によって千年を超えて継承されていることを確認してきました。
(参照:和歌を伝えるもの


その和歌の存在が、一般生活の中ではどんどん薄れてきてしまいました。

全く和歌に触れることがない時間がほとんどとなってきています。


日本語の継承してきた「あいまいさ」が一番美しく表現できる手段が、和歌であったと思われます。

和歌の中での言語技術が磨かれてきたことが、日本語の表現の豊かさを作ってきたことであろうと思います。

意味はよくわからなくとも、和歌を聞いた時にうける感覚はとても気持ちのいいものです。


日本語の持つ「あいまいさ」を、「いい加減さ」としてではなく言語技術としての美しさとして表現している一番の手本が和歌だと言うことができると思います。

日本語の持つ言語としての様々な制約や環境を考えた時に、特徴としての「あいまいさ」は世界の他の言語と比べても際立ってるいるものです。

これを「いい加減」として存在させてしまうのか、本来持っている正確さと美しさとして存在させるのかは、使用者としての私たちにかかっていることです。


学習言語としての国語の学校教育のなかで、他の国の言語教育と比べて決定的に劣っている分野があります。

それが言語技術についての分野です。


原因はいくつかあります。

日本語そのものがとても大きな言語でもあるので、学習言語としての基本の習得だけでも10歳頃までかかってしまうこともそのひとつです。

他の国の言語においては、ほとんどの言語が6歳頃には基本的な習得ができています。

その分、基礎の初等教育で言語技術について習得する時間とカリキュラムがないのです。


さらに10歳以降も語彙の増強と、豊富すぎる表現方法によって書かれた文章を理解することにほとんどの精力が使用されることになります。

習得程度を確認するための試験においても、書き取りと読解が中心となっています。

これが、大学までの学校教育において継続して行われていることです。


他の国の言語教育(国語教育)においては、文化的な背景もあり、小学校の低学年より「話すこと・聞くこと」「表現すること」が重視されています。

自分の意見を表現すること、人との違いを訴えることに対する言語技術を習得することが学校教育での目標となっています。

人との差が見つけられないことや自分の意見を表現しないことは、自ら能力がないことを認めることであり評価の対象とすらならないことを植え付けられるのです。


日本が学校教育においてひたすら、インプットとしての書き取りと読解を身につけている間に、彼らは持っている言語を利用してのアウトプットのための技術を身につけていくのです。

その差は交渉の場面において、コミュニケーションの場面において、きわめて大きなものとなって現れてくることは容易に想像ができることです。

日本人がアウトプットが苦手なのは、決して性格的なことだけが原因ではないのです。


日本語としての独特の言語技術のための美しい手本が、昔から存在しているのです。

それが和歌です。

世界の言語の中でもきわめて特殊な言語である日本語は、日本語にしかない特徴を沢山持っています。

他の言語の参考になることは部分的にあったとしても、言語技術においては真似できる言語は存在しません。


日本語によるコミュニケーションにはまだまだ無限の可能性があると思います。

その中で一番大きなものは、ほとんどの人が話すこと・表現することにおいての言語技術を身につけていないことです。
そこに、反対に大きな可能性があるのではないでしょうか。

実際の言語技術の習得は、社会に出てからそこの環境に必要な言語技術だけを身につけているのがほとんどではないでしょうか。


表現するための、思考をするための言語技術については身につける場がほとんどないのです。

技術的にも芸術的にも日本語の言語技術の最高のお手本が和歌ではないでしょうか。

歴史の浅い言語のためにお手本がないのであれば話は別です。

千年を超える継承された言語を用いて、千年を超える言語技術を磨きあげた表現方法が目の前にあるのです。


日本語の持っている「あいまいさ」が美しさとして表現された実物が目の前にあるのです。

こんなに大きくて表現力豊かな言語を持て余している日本人が、和歌で実現されている言語技術を持って社会に、世界に出ていくことを想像することは、世界を大きく変える可能性すらあるのではないでしょうか。

和歌は文章の前にあったものだと思われます。

文字ができる前の話し言葉しかなかった時代にも、すでに和歌の原型はあったと思われます。


文章も、詞も、すべての原点は和歌にあったと思われます。

「和歌に学ぼう、日本語の言語技術」は日本語の可能性にさらに大きなチカラを与えてくれるものではないでしょうか。

母語として継承されていく日本語のなかで「やまとことば」のウエイトは日々減っていっています。

その感覚がなくなることはないと思いますが、和歌を理解できる感覚が少なってきていることは間違いないことだと思います。


学校では教えることがほとんどできない言語技術の習得を、究極の日本語表現である和歌を通じて行うことは極めて理にかなったことではないでしょうか。

せっかく持っている日本語という道具を、より磨いて使いこなせる具体的な方法として取り組んでいきたいですね。



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2014年5月8日木曜日

和歌を伝えるもの

日本語の数多くの特徴が、和歌によって作り上げられ継承されてきたものであることは理解しやすいことではないでしょうか。

和歌については、現代では昔ほど一般生活に馴染んではいないと思われます。

皇室においては、和歌による表現が頻繁に行われていることが伺えますが、一般生活の中では和歌に触れる機会は激減しているのではないでしょうか。

五七五七七の三十一文字と言う限られた文字数の中で表現を磨いてきた芸術は、日本語の表現力を磨き上げてきた主人公でありと言えると思います。

和歌そのものが一般的な表現手段として定着していれば、これからも様々な表現技術が編み出されていくこともあったのではないかと思われます。

しかし、一般的な生活においては和歌に触れることはほとんどありません。


近いものとしては、保険会社が行なっている「サラリーマン川柳」があるのではないでしょうか。

技術レベルとしては和歌には追いつきませんが、そこで行われている掛詞(かけことば、語呂合わせ)はその技術を受け継いでいるものです。

ひとつの言葉に複数の意味を持たせることによって、短い文字数でより広い(あるいは反対のことや思いもつかないこと)ことを想像させる技術は日本ならではのものです。

「なぞかけ」の技術の基本もこれです。

これは是非とも継続していって欲しいものですね。


和歌に変わって、現代において一般的に言語の技術を見ることができるものは音楽ではないでしょうか。

歌謡曲の歴史は、諸説ありますが幕末の戊辰戦争の時に歌われた「宮さん宮さん」(トコトンヤレ節やトンヤレ節とも言われる)に始まるのではないかと言われています。

作詞は品川弥二郎と言われており作曲は大村益次郎という説が有力となっています。


今和歌集の秘伝を一子相伝で伝えたと言われる「古今伝授」が、細川幽玄を最後に朝廷に吸収されたのが関ヶ原の戦いだと言われています。

その後は一般や民間での和歌の歴史はどんどん薄くなってしまいました。

江戸時代は後半になってくると、民衆の間に文化が根付いてきて、川柳や浄瑠璃・歌舞伎なども広まっていきました。

すべて和歌の流れを組んだ表現の技術を持ったものです。

お上の圧力に対して、露骨な批判はできないものの語呂合わせや隠語のように表現を工夫しながら民衆の気持ちを代弁してきたものです。

「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」などは「いろは」をもじった表題ということができるでしょう。
(参照:「いろは」に隠された怨念


明治になると和歌が見直されたりしましたが、文学者のための表現手段の域から出ることができず、一般の中に定着するには至りませんでした。

その代りに明治期から大正期にかけて、はやり歌・歌謡曲が多く発表されていきます。

ラジオやテレビの普及に伴って歌謡曲はあっという間に生活の中に浸透していきました。


やがて音楽を作ることが身近になってくると、ギター一本で言葉を届ける反戦歌や様々な技術が開発されていきます。

音楽も数多くのジャンルが設定されて、膨大な数が発表されて生活に溶け込んでいきます。

音楽を学んだものでなくとも、簡単に曲が作れるようになっていきます。


心に沁みる歌詞を見ていくと、「やまとことば」が生かされているものが多いことに気が付きます。

日本人の歌における感性の基本は、詞にあるものであることがうかがえます。

情景を詠いながらも心情を反映させた詞に心を打たれるのは、今も昔も変わりがない日本人の感性です。

その表現のための日本語は、ある程度完成された領域にあるものではないでしょうか。


言葉は次から次へと新しいものが生まれていきます。

新しい言葉のに担い手は、いつの時代であっても若者たちです。

彼らが新しい感覚として感じる表現は、決して新しい言葉だけではありません。

昔ながらの表現や、表現の語術に素直に感動する感覚も持っているのです。

母語としての日本語を持っている共通性と言えるものでしょう。


和歌が生活からほとんど姿を消してしまった現代では、言語技術の継承は音楽の詞によってなされていくのではないでしょうか。

心に沁みる歌の歌詞に、ひらがなと訓読み漢字が多く使われていることは、決して技術的なことだけではないと思います。

母語としての日本語を持っている私たちの言語感覚に触れるものがそこにはあるのではないでしょうか。


谷村新司の「昴」(すばる)という名曲があります。

この歌詞には、音読みの漢字は一つも出てきません。

音として耳に入ってくるものは、すべてがひらがなであり素直に耳に入ってきます。

漢字で書いてみてもすべてが訓読み漢字になります。


最近では、歌が流れる時に歌詞をテロップとして流すことがよく行われています。

本来は耳だけで聞いていたものに対して、目で文字を追うことによって表記することも表現として大切になってきています。

歌詞を作る人たちが担っている役割は、日本語の表現力を具現化して現代に伝えることではないでしょうか。


音楽を楽しむことは、音を楽しむことだけでなく、日本語の表現を楽しむことでもあります。

和歌が一般の生活から遠いところに行ってしまった現代では、生活の中に溶け込んで日々聞いている音楽に日本語の表現の豊かさを継承していくことができるのではないでしょうか。

そんな面から音楽を見てみるのも面白いですね。




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2014年5月2日金曜日

ひらがなを育てた時代

中世においてひらがな文学を発展させた功労者として紀貫之を何度か取り上げてきました。
(参照:紀貫之という天才を見る

女文字として定着しつつあったひらがなを、女のふりをして「土佐日記」として文学の域として高め、のちの日記文学に結び付けたのも紀貫之でした。

ひらがな文学の最初の作品と言われながらも作者不詳のまま扱われている「竹取物語」(900年頃と言われている)についても、紀貫之の手による本があったことが確認されており原作者ではないかとの説もあります。

その後の女流ひらがな物語文学の隆盛は「源氏物語」をピークとして、ひらがなの使い方そのものを定着させていくこととなりました。



漢字の音を使いそれまでの「やまとことば」を書き表した万葉仮名が、ひらがなに変化していく過程と言っていいのではないでしょうか。

その後、漢字かな混用文が現れ始めるのが「今昔物語」(1100年以降成立と言われている)だと言われていますが、文章の主流としての漢字かな混用文が定着するのは鎌倉時代(1200年以降)であったようです。


ひらがなの成立から漢字かな混用文が定着するまでの間は、ひらがなを使いこなすことによって「やまとことば」の表現力を徹底的に発展させた期間であったということができるのではないでしょうか。

この間の表現力の発展のために大きく貢献したのが和歌であったことは想像に難くありません。

三十一文字の短い表現のなかで限界の表現を磨きあげていった技の中には、日本語の特徴である同音異義語の活躍の場であったと思われます。


当時の地名や言葉を見ても、その読みにおいては濁音が含まれていたことは間違いがないようです。

しかし、表記としての仮名においては濁音は一切表記がされません。

すでに「いろは」が定着している環境であり、日常語においては濁音が存在しているにもかかわらず、表記に濁音がないのはどうしてでしょうか。


万葉仮名を設定し、ひらがなを生み出した技術をもってすれば濁音を表記することは大した労力ではなかったはずです。

今の私たちにとっては濁点は当たり前のものとして表記上も存在していますが、濁点の使用は意外に歴史の浅いものとなっています。

初めて濁点が見られるのが江戸時代に入ってからであり、一般的に使用されるようになったのはなんと明治以降のこととなっています。



たかが「点」なのですが、音としては文字の始まりのころより存在していたにもかかわらず表記されてこなかったのはなぜなのでしょうか。

どう考えても、わざと表記してこなかったとしか思えません。

特にひらがなが大きく発展した時期においても濁点が存在していないことは、日本語の特徴である同音異義語に新たなジャンルとしての同字異義語を持っていたことが考えられます。


現代では濁点が表記されていますので、濁点のあるなしによって文字そのものが異なることになります。

したがって、同字であるが同音ではない文字は存在していません。

濁点を表記しなかったことによって、同じ文字であっても音が異なるもの(清音と濁音)が存在することがおきていたわけです。


たかが「点」なのですが、これによってひらがなの表現の広がりが一層大きくなっていたことが考えられます。

わざと濁点を使用しないことによって、ひとつの言葉に持たせる意味合いをより多くすることができたと考えられます。


当時の和歌の一般的な技術としては、「本歌取り」と「掛詞(かけことば)」があります。

「本歌取り」はもとになる有名な歌の一部を借用することにより、短い言葉のなかでもととなる歌の解釈をも借用するという技術です。

「掛詞(かけことば)」は、いわゆる語呂合わせ・駄洒落のことで、一つの言葉に複数の意味を持たせるものです。

古今集より一例を挙げてみましょう。

あふことの なきさにしよる なみなれは うらみてのみそ たちかえりける
(逢うことの なぎさにしよる 浪なれば うらみてのみぞ 立ち帰りける)在原元方

掛詞としては「よる」→「夜」と「寄る」、「なみ」→「浪」と「涙」、「うらみて」→「浦見て」と「恨みて」などが同音異義語で使われています。

同字異義語として、「なきさ」→「なぎさ」と「無き」と「泣き」がかかっています。

連想が広がっていきますね。


もともと同じ言葉であったと考えられる「萎る(しほる)」と「絞る(しぼる)」は、意味がしっかりと別れたことによって「萎る」が「しをる」と表記されるようになっていました。

それでも歌の中では相変わらず「しほる」としばしば使われているのは「絞る」を連想させるためではないかと思われます。


これだけの文字を生み出した者たちが、音としては文字よりも先あったと思われる濁音を表記する術を持っていなかったわけはないと思われます。

あえて、濁音を表記することよりも言葉としての表現力を求めた感性は、日本語の表現力の豊かさの原点ともいえる姿勢ではないでしょうか。


現代ひらがなでは、濁音を入れても音数としては66音しかありません。

三十一文字のなかで自然を詠いながらも、その中に心情を盛り込む技は、美しい音とともに完成された芸術ということができるのではないでしょうか。

四拍子にピッタリと合う七五調の音調は、素直に心に響いてくるリズムをも含んでいます。

日本語は本当に素晴らしい言語ですね。




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