和歌については、現代では昔ほど一般生活に馴染んではいないと思われます。
皇室においては、和歌による表現が頻繁に行われていることが伺えますが、一般生活の中では和歌に触れる機会は激減しているのではないでしょうか。
五七五七七の三十一文字と言う限られた文字数の中で表現を磨いてきた芸術は、日本語の表現力を磨き上げてきた主人公でありと言えると思います。
和歌そのものが一般的な表現手段として定着していれば、これからも様々な表現技術が編み出されていくこともあったのではないかと思われます。
しかし、一般的な生活においては和歌に触れることはほとんどありません。
近いものとしては、保険会社が行なっている「サラリーマン川柳」があるのではないでしょうか。
技術レベルとしては和歌には追いつきませんが、そこで行われている掛詞(かけことば、語呂合わせ)はその技術を受け継いでいるものです。
ひとつの言葉に複数の意味を持たせることによって、短い文字数でより広い(あるいは反対のことや思いもつかないこと)ことを想像させる技術は日本ならではのものです。
「なぞかけ」の技術の基本もこれです。
ひとつの言葉に複数の意味を持たせることによって、短い文字数でより広い(あるいは反対のことや思いもつかないこと)ことを想像させる技術は日本ならではのものです。
「なぞかけ」の技術の基本もこれです。
これは是非とも継続していって欲しいものですね。
和歌に変わって、現代において一般的に言語の技術を見ることができるものは音楽ではないでしょうか。
歌謡曲の歴史は、諸説ありますが幕末の戊辰戦争の時に歌われた「宮さん宮さん」(トコトンヤレ節やトンヤレ節とも言われる)に始まるのではないかと言われています。
作詞は品川弥二郎と言われており作曲は大村益次郎という説が有力となっています。
今和歌集の秘伝を一子相伝で伝えたと言われる「古今伝授」が、細川幽玄を最後に朝廷に吸収されたのが関ヶ原の戦いだと言われています。
その後は一般や民間での和歌の歴史はどんどん薄くなってしまいました。
江戸時代は後半になってくると、民衆の間に文化が根付いてきて、川柳や浄瑠璃・歌舞伎なども広まっていきました。
すべて和歌の流れを組んだ表現の技術を持ったものです。
お上の圧力に対して、露骨な批判はできないものの語呂合わせや隠語のように表現を工夫しながら民衆の気持ちを代弁してきたものです。
「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鑑」などは「いろは」をもじった表題ということができるでしょう。
(参照:「いろは」に隠された怨念)
明治になると和歌が見直されたりしましたが、文学者のための表現手段の域から出ることができず、一般の中に定着するには至りませんでした。
その代りに明治期から大正期にかけて、はやり歌・歌謡曲が多く発表されていきます。
ラジオやテレビの普及に伴って歌謡曲はあっという間に生活の中に浸透していきました。
やがて音楽を作ることが身近になってくると、ギター一本で言葉を届ける反戦歌や様々な技術が開発されていきます。
音楽も数多くのジャンルが設定されて、膨大な数が発表されて生活に溶け込んでいきます。
音楽を学んだものでなくとも、簡単に曲が作れるようになっていきます。
心に沁みる歌詞を見ていくと、「やまとことば」が生かされているものが多いことに気が付きます。
日本人の歌における感性の基本は、詞にあるものであることがうかがえます。
情景を詠いながらも心情を反映させた詞に心を打たれるのは、今も昔も変わりがない日本人の感性です。
その表現のための日本語は、ある程度完成された領域にあるものではないでしょうか。
言葉は次から次へと新しいものが生まれていきます。
新しい言葉のに担い手は、いつの時代であっても若者たちです。
彼らが新しい感覚として感じる表現は、決して新しい言葉だけではありません。
昔ながらの表現や、表現の語術に素直に感動する感覚も持っているのです。
母語としての日本語を持っている共通性と言えるものでしょう。
和歌が生活からほとんど姿を消してしまった現代では、言語技術の継承は音楽の詞によってなされていくのではないでしょうか。
心に沁みる歌の歌詞に、ひらがなと訓読み漢字が多く使われていることは、決して技術的なことだけではないと思います。
母語としての日本語を持っている私たちの言語感覚に触れるものがそこにはあるのではないでしょうか。
谷村新司の「昴」(すばる)という名曲があります。
この歌詞には、音読みの漢字は一つも出てきません。
音として耳に入ってくるものは、すべてがひらがなであり素直に耳に入ってきます。
漢字で書いてみてもすべてが訓読み漢字になります。
最近では、歌が流れる時に歌詞をテロップとして流すことがよく行われています。
本来は耳だけで聞いていたものに対して、目で文字を追うことによって表記することも表現として大切になってきています。
歌詞を作る人たちが担っている役割は、日本語の表現力を具現化して現代に伝えることではないでしょうか。
音楽を楽しむことは、音を楽しむことだけでなく、日本語の表現を楽しむことでもあります。
和歌が一般の生活から遠いところに行ってしまった現代では、生活の中に溶け込んで日々聞いている音楽に日本語の表現の豊かさを継承していくことができるのではないでしょうか。
そんな面から音楽を見てみるのも面白いですね。
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