今回は「あいまいさ」は正反対の概念を取り込んだものであることを見ていきたいと思います。
「あいまいさ」は「いいかげんさ」につながる言葉として、決してポジティブな使い方はされない言葉ではないでしょうか。
「いいかげん」という言葉も二面性を持った言葉であり、「丁度いい」や「適切である」という意味で用いると、「風呂の温度がいい加減である。」と言うこともできる。
また、「でたらめ」や「思いつき」という意味で用いることもあり、「いい加減なことを言うな。」のような使い方もある。
「あいまいさ」が結び付く「いいかげん」は後者の方であり、「思慮が足りない」や「その場しのぎ」的なニュアンスが含まれるものと思われます。
「あいまい」は辞書的な解釈を見てみると、大きく二つの意味があります。
ひとつは、言葉や表現において複数の意味を持つもののこととあります。
「日本語のあいまいさ」と言われるゆえんはここにあると思います。
もう一つは、そのものや周辺が不明瞭であるさまとあります。
こちらの場合は、反対語として明瞭や明確が充てられるものとなるのでしょう。
「日本語のあいまいさ」は日本文化のあいまいさそのものでありますが、「あいまいさ」を使いこなせる言語においては、より正確さや明確さを表す表現を持っています。
他の言語との比較はいたるところで出てきますので、他の言語に合わせた表現の仕方はいくらでもできるものです。
「あいまいさ」を多く持っている言語の方が表現方法が豊かであると同時に、自ら持っている「あいまいさ」を拭い去った表現で正確さや明確さを伝えることも可能となっています。
日本語の持っている「あいまいさ」の特徴は、正反対の概念を取り込んだ複数の意味を一つの言葉が持っている、あるいは意図的に持たせていることにあります。
その技術の発展にはやはり和歌という文学表現が大きな影響を与えていると思われます。
呼び方はどうでもいいのですが、和歌でも歌でも川柳でも、五七五七七の三十一文字の中に情景を表し心情を映しこむ技法は文字のない時代より伝わっている表現方法です。
やがて、歌合せとして巧拙を競ったり、歌を評価しあったりしながらもその技術を磨いていくことになります。
身分の差もそれほど影響せずに、文字の読み書きができるものであれば誰もが簡単に取り組むことができた表現方法です。
基本をなす七五調の音は、長編文学においても反映され、切れの良いリズムの良い文章を構成してきています。
謡だけではなく、一般的な歌謡曲やJ-POPと言われる音楽分野においても、その歌詞には七五調が息づいています。
この感覚は、日本語を母語とする者においては極めて自然なものとして身についているのだと思われます。
先回も取り挙げた、紀貫之の辞世を例として「あいまいさ」を見てみたいと思います。
手にむすぶ 水にやどれる 月影の あるかなきかの 世にこそありけり
歌の解釈はそれこそ、言葉をどう読み取るかで変わっていってしまいます。
作者と同じ解釈ができるかどうかもわかりません。
そこに込められた心情を見ると言うスタンスを持てば、何かが見えてくるのではないでしょうか。
まずは、「むすぶ」は結ぶの意味で手にすくった水の上で月の像が結ばれることを意味していますが、両手を結ぶことや「すくう」と言う動作までもが含まれています。
ひとつの言葉にどれだけの意味を持たせているのでしょうか。
さらに、「みず」です。
濁点の表記はしませんので「みす」となりますが、読みは「みず」ともなります。
「水」は勿論のこと「見ず」(否定としての見えず)だけではなく、全く反対の「見つ」(見たという意味)までも読み取ることができます。
水面が揺れると見えたり見えなかったりする月影の映像は、目からも耳からもきわめてリアルに伝わってきませんか。
そこから、あるかなきかの命のはかなさをしみじみと心にしみこませてきます。
月の影という言葉自体が、月の光と影の両方を表す言葉となっています。
月の影を月の光と置き換えてもそのまま意味が通っているものがほとんどですが、月の影と表現することによって月そのものではなく映された月の光までも捉えることができます。
影は「光」と「影」という正反対の概念を一つの言葉の中に持っているのです。
まるで、月の見えない部分が太陽の光を遮っている地球の影であることをわかりきっているかのような表現ではないでしょうか。
これと同じことが「水」のところで見てみた「見づ」と「見つ」にも読み取ることができるのです。
複数の意味を持ったことを「あいまいさ」ということを見てきましたが、日本語の「あいまいさ」には正反対の概念が込められていることが多くなっています。
単なる「あいまいさ」に比べると、そのカバーする範囲はとんでもない広さになっていると言うことができます。
正反対の意味が一つの言葉によって表現されてしまうのであれば、どちらの意味として考えなければならないのかの手掛かりが必要になります。
そしてどちらの意味なのかを決めなければいけません。
しかし、和歌における日本語の「あいまいさ」は、その正反対の意味が同時に存在しているのです。
そのどっちつかずの「あいまいさ」を歌として表現しているのです。
目に見える月はこんなに鮮やかに水に映っているのに、あなたの姿を見ずに過ごすことは何と辛いことであろうか・・・
水に映る月を詠いながらも、心は合えぬあなたを思っていることが、そこはかとなく起こっている・・・
こんなことが「あいまいさ」に込められた思いではないでしょうか。
こんな「あいまいさ」を使いこなせる言語を持っていることは、なんと素晴らしいことでしょうか。
そこにはより的確な表現をしようとすればできるだけのものがあるのですから、さらに驚くべきことではないでしょうか。
使いこなすための努力はまだまだ足りないのかもしれないですね。
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