おかしな疑問が湧いてきてしまいました。
調べようがないので、放っておいたら、不思議なもので思わぬところで出くわすものですね。
「花」「こころ」「ひと」「風」「袖」など様々な言葉が浮かんできますが、題材として扱われていても、実際に言葉として登場しているものはそれほど多くはないようです。
国歌大観と言う角川書店から出ている近代以前の和歌を集めたデータに約42万首が収められています。
調べた方も概数で調べていますので、傾向として捉えておけばいいのではないでしょうか。
一番多かった言葉が「月」で、6万首以上あったとされています。
日本人の好きな「桜」は1万首ほどしかなく、「花」を加えても5万4千首程度となっており「月」には及ばない結果となっています。
もう一つの候補である「風」については5万首弱となっており、これも「月」には及びません。
「涙」そのものが登場しているものはおよそ1万3千首程度ですが、「袖」や「露」、「雨」などの隠れた「涙」に連想するものを集めても6万首弱となっています。
さらに「こころ」を見てみると、心を詠っているものは非常に多いのですが、「こころ」そのもののが登場しているのはおよそ4万2千首ほどとなっています。
最後の対抗馬は「人」ではないでしょうか。
いろいろな詠まれかたをしているだけに、登場する文字としてはかなりのはずです。
結果は、およそ5万2千首ほどであり、やはり「月」にはかないませんでした。
どうやら一番詠まれた歌言葉は「月」だったようです。
その理由は月自体の姿にもよるものもあるでしょうが、月が様々な思いを喚起させるとともに、その思いを映し宿しているものとして捉えられていたと思われます。
昔の人にとって月を詠むことは、思い出を詠むことでもあり、世の中を詠むことでもあったのではないでしょうか。
古今和歌集にあるかなで書かれた方の序文である「仮名序」の中で、編者の紀貫之は以下のように結んでいます。
歌の様を知り、事の心を得たらん人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも
古今和歌集の編集の意図の説明として読み取ることができるとともに、それを超えた意味も含まれているように感じられます。
解釈としては、「歌の趣を知り、物事の本質を会得できた人は、大空の月を見るように、いにしえを仰ぎみて、今を恋慕わずにはいられないのだろう。」と言うことになります。
月は過ぎ去った過去と現在を結ぶタイムマシンのような役割を持っていたようです。
紀貫之が詠んだ辞世の歌にも月と影が詠われています。
月は自らが光を放つものではないことからも、月に何を移すのかはその言語文化を知る上での大きな手がかりになるのではないでしょうか。
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