2014年12月18日木曜日

自然との共生を描き続けた和歌

先進文明を担っている言語のなかで、最も特殊なものが日本語であることは折に触れて述べてきました。

欧米言語と比べた時に、より鮮明になるその特徴は、言語が持っている本質的な感覚が異なることを示しているものと言えます。

できるだけわかり易い説明にしたつもりですが、同じことに対していくつかのアプローチをしています。
(参照:本質的に異なる日本語と英語言語とものの考え方 など)


そして言語の持つ感覚の特徴は、自然とのかかわりや宗教(神)とのかかわりにおいてみることができることを示してきました。
(参照:日本語感覚と宗教のかかわり

日本語において、そのもっとも日本語らしい感覚を継承しているものがひらがなです。

ひらがなと言うとどうしても文字を思い浮かべてしまいますが、日本語の発音にはひらがなしかないことをしっかりと確認しておく必要があります。

アルファベットや漢字、カタカナなど、どんな文字で表記しようとも、日本語としての音はすべてひらがなの音になるのです。


話し言葉として聞こえるのはひらがなの音しかないのです。

このひらがなが、日本語の基本的な感覚を、途切れることなく継承してきているのです。

漢語の導入によって、文字が使用され始めました。

その漢語から「かな」が生まれてきました。

ここで生まれた「かな」は、それまでには文字を持っていなかった古代のやまとことばを文字として現わすために生まれたものです。


それ以降の日本語の一番大きな変化は明治維新です。

漢語を導入以来、明治維新までの間は、ほとんど他国の文化に影響をされることもなく、また、侵略を受けることもなくひたすら自国内で独自の文化を発展させてきた期間となっています。

最大の危機は、二度にわたるモンゴル帝国による元寇だったと思われます。

圧倒的な武力と機動力を持つモンゴル帝国の侵略を乗り切ったことは、一つの軌跡と言える出来事であったと思われます。

三度目の侵攻が計画されていたことや、ベトナムとモンゴルの戦いが結果的に日本への侵略をあきらめさせることになったことなど、気象条件やあらゆる条件が日本に味方した形となりました。

もし、この時にモンゴル帝国に侵略されていたら、おそらく日本語は消えていたことでしょう。


国内の争いはあったものの、文化そのものは時として自ら海外のものを導入することがあったとしても、侵略されることはありませんでした。

結果として、日本独特の文化を千年以上の時間をかけて醸成していくことができたわけです。

本格的に海外との接触が始まったのが、明治維新です。

産業革命を終えた西洋の文化が一気に押し寄せてきました。

これに言語上対応したのが、漢字でありカタカナでありアルファベットだったのです。


ひらがなはそのまま残ったのです。

日本人の自然との共生の感覚は、ひらがなによって継承されていったのです。

独特の文化を醸成してきた最大の推進力が和歌だったのです。


古今和歌集は、テーマによって巻が分けられています。

春歌、夏歌、秋歌、冬歌、賀歌、別離歌、羈旅歌、物名、恋歌、哀傷歌、雑歌などとなっています。

これによって和歌に取り上げられていた内容を理解することができます。

つまりは、自然と人(の感情)がうたわれ続けてきたのです。


時には自然を詠いながら心情を表したり、自然の現象や地名などと心情を掛詞として表現したりしながら、自然と人を一体として扱ってきたのです。

自然をどう扱うか、自然とどうかかわるかは、その文化の一番の基礎になることです。

そこから、神とのかかわりや人とのかかわりが定まってくるからです。


知を得た人間が、自然とどのようにかかわるかによって、その後の発展の仕方が大きく変わっているのです。

自然との共有や同化を選択した知は、変化する環境に対して自らを適応させる知恵を生み出していきます。

自然との対峙を選択した知は、自然を従える、コントロールする知恵を生み出していきます。

そして、自然の生物にはない、個という概念を生み出します。

やがて、個は種の保存という自然の大法則をもコントロールするようになり、種の保存よりも個の保存を優先させるようになります。


現代の文明の中心となり、世界を導いてきたのが、個の概念であり自然をコントロールする技術です。

これらの感覚を持った言語を使い、技術を進化させてきた者たちが世界の先端文明を作ってきました。

全く違った言語感覚を持つ日本語が、世界の先端文明の一端を担っていることが彼らにとっては不思議なのです。

日本語の感覚を知らない彼らは、日本人に対して自分たちと同じ感覚を持っていると錯覚しています。

だから、日本人がわからないのです。

日本語の持つ受容力の大きさと言えるかもしれません。


言語上の適応力の高さと言えるかもしれません。

言語の音数としては、世界でも有数の少なさを持ちながらも、表現できることは世界でも有数の豊かさを持っている不思議な言語となっているのが日本語の現状です。

同音異義語が山のようにあります、似たような音の言葉が山のようにあります。

ある種のあいまいさを内包しながら、とんでもない使い分けをしているのです。


これらの言語技術の原点と発展してきた環境が和歌なのです。

和歌は歌ですから、基本はすべて話し言葉です。

話し言葉を、書き表すために必要だったのが「かな」だったのです。

自然と人を一体化にした、一種の音遊びの技術なのです。


和歌は、文字で読んでもよくわかりません。

詠われたときの環境をよく理解しないと、内容のとり間違いが起こります。

あれだけの文字数で表現していますので、多くのことが省略されています。

しかし、省略されていることは、その環境にある者だったら誰もが理解できる共通のことがほとんどなのです。


日本語は環境言語です。

環境と相手によって、同じことを伝えるにも、使う言葉が変わります。

相手も自分も含めた環境を共有することによって、共有された部分は当たり前のこととしてどんどん省略されていくのです。

全く同じ環境は二つとしてありません。

同じ相手でも環境が変われば共有領域が変わります。

省略できることが変わるのです。


日本語はよく主語が省略されると言われます。

ところが、実際に省略されるのは主語だけではないのです。

しかも、共有領域については省略されること慣れていますので、逆に省略しないことの方が不自然に感じられて、失礼になったり馬鹿にされた気になったりするのです。


これらの感覚もすべて和歌が基本となっているのです。

和歌を理解しようとするときに、和歌だけを見ていても駄目なのです。

その和歌が詠まれた環境や、そこにいる人間関係が分からないと理解できないのです。


和歌集にも、短い文でそれぞれの和歌が詠まれた状況を説明している箇所が沢山あります。

これらを無視して和歌だけを取り上げても、理解することが難しいのです。

もちろん日本語として持っている感覚のなかで、詠み人と共有できている領域もありますので、その部分においては自然に理解できるものとなるのでしょう。


もう一度、和歌を違った面から見直してみることは、とてもいい知的活動になると思います。

千年以上前の和歌が、今現在の私たちが使っている言葉でも、ほとんど詠んで理解することができるのです。

こんなことができる日本語は、本当にすごい言語ですね。





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