特に、他の言語の代表として、欧米の先端文明を走ってきた言語としての英語を意識していたことはわかっていただけることと思います。
(参照:言語とものの考え方、日本語は究極の環境言語、日本語感覚と宗教のかかわり)
そこで見えてきたことは、人が生きていく上での一番基本的なものが、日本語と他の言語では両極端と言っていいほど異なっていることです。
欧米型の言語の持っている感覚によって、ここ200年ほどの物質的・技術的な発展があったことは間違いがありません。
それによって人間そのものが多大な恩恵を受けてきたことも間違いがありません。
そのことによって、欧米型の言語の持っている感覚によるものが現代文明を支えており、それ以外のものは遅れているものとして扱われてきました。
欧米型の言語の持っている感覚に近づこうと、あらゆる国が教育と技術を磨き上げてきました。
ところが、21世紀を迎えるころから、欧米型の言語の感覚ではうまくいかなかったり説明がつかなかったりすることが多くなってきました。
特に日本語においては、基本的に持っている感覚が正反対と言っていいほど違っていますので、敏感に感じられていることとなっています。
現代文明の最先端を走る国の一つとなってはいても、欧米型の言語が持っている感覚に対して違和感を感じている部分があったのです。
しかし、その違和感は日本語の感覚から来るものであり、現代文明に対しては遅れているものであると思い込まされてきました。
教育体系も、その様な評価をするようなものとして作り上げられてきました。
自然に対して共生の感覚を持ち、同化や生かされているものという感覚持つ日本語は、自分の意思よりも相手の意思、すなわち協調性を重んじるものとなっています。
そのために、他者のことは自分のことよりもより高い評価をすることが当たり前となっています。
それが奥ゆかしさであり、共生の感覚であることが無意識で身についています。
この感覚がなおさら、他者の文化をある種の過大評価をし、自己の文化を一段低いものとして見てしまうことにつながっているのです。
仮に明らかに自分の方が優れているとしても、自らそれを表現することがはばかられる文化なのです。
他者に求められ評価されることによって、さらに評価する者が増えていって、共生している社会から認められることによって初めてその評価を認められるのです。
自分で自分を評価することは基本的にはありません。
他者の、共有環境の評価によって生かされていることを確認しているのです。
したがって、過小評価どころか自分で自分の客観的な評価ができないようになっています。
そもそも、環境との相対的な関係においての評価しか受け入れられませんので、自分で絶対評価をすることができません。
共生している環境もいくつもありますので、同じことについてもそれぞれの環境において評価が異なるのです。
したがって、日本語の感覚では、自分たちがどんなに他者に比べて優れたものを持っているとしても、自己表現でそれを確認することができないのです。
欧米型言語の感覚では、自己評価が可能になりますので、そのことを一生懸命学び、ある程度の真似はできるようになりました。
世界においては、欧米型言語の感覚がスタンダードだからです。
日本語の感覚は、世界では通用しないからです。
特に先端文明圏では、全く通用しないものとなっています。
結果として日本語感覚では、自らの言語感覚を欧米型の言語感覚よりも劣ったもの、遅れたものとして封印してしまうことになるのです。
ところが、母語として持った言語は、思考そのものであり考え方や受け取り方そのものです。
母語としてその言語を持った以上、生涯変えることができないものです。
日本語感覚では不自然と感じるものであっても、欧米型言語の感覚でOKとなれば、無条件で受け入れてきたのです。
日本語感覚には、前にも述べましたが、分からないものを分からないままに受け入れる感覚があります。
分かるものに対しては徹底的に深めようとする感覚を持ちながらも、分からないものを否定することになくそのまま受け入れることができる感覚があるのです。
2004年に、ケニア人のワンガリ・マータイさんがノーベル平和賞を受賞しました。
記憶していらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
あの「もったいない」を広げた方です。
日本語とその感覚が世界を駆け抜けたのです。
ケニアは、決して文明の最先端を走っている国ではありません。
むしろ自然との共生を図っている国であり、自然との関係は、欧米型言語よりも日本語の感覚に近いものがあります。
恐らくは、欧米型言語を使っている人達よりも、日本語の感覚については受け入れやすかったものと考えることができます。
日本が発信して、日本人が行なったことでないことが重要なのです。
日本人がいくら日本語の感覚で「もったいない」を連呼したところで、このようには絶対にならないのです。
それ以前に自ら、引っ込めてしまうことになるでしょう。
2004年の段階で、既に日本語の感覚が必要とされていたのです。
その感覚を世界が認めて評価をしたのです。
現代の最先端の文明を担っている国の言語は、すべてが欧米型の言語であると言っても過言ではないと思います。
そこに対して、日本語の感覚を発信しても何の変化も起らないと思われます。
それでも、ポップカルチャーと言われるような分野では、日本語の活躍は目を見張るものがあります。
そこにも本来の日本語が持っている感覚は、少なからず含まれているのです。
まずは、自然に対しての感覚が日本語の感覚に近い言語を持つ人たちとの協力が必要ではないでしょうか。
欧米型言語の感覚では、最上位に位置し知を持った人間による自然コントロールができなくなることはありえないのです。
無理な状況であってもコントロールをしようとすることによって、さらなる悪化を引き起こしていることに対処できないのです。
彼らの感覚では、自然は人間がコントロールするものであり、コントロールできるものだからです。
共生するものではなく組み伏して従わせるものとなっているのです。
日本語の出番はとっくに来ているのです。
しかし、日本語話者自身がうまく発信できないのです。
欧米言語話者がうまく受入れができないのです。
先進文化圏ではなく、自然共生圏との協力こそ急ぐべきことではないでしょうか。
欧米型言語話者も限界には気がついているのですが、どうしていいのかが感覚としてわからないのです。
彼らの論理での自然との共生は、日本語の感覚での自然との共生とは異なっているのです。
日本語での発信でいいのです。
欧米型言語に翻訳したとたんに、彼らの感覚となってしまうのです。
「もったいない」の感覚を、彼らの感覚で理解できればいいのです。
彼らの理解は、彼らの母語でしかできないからです。
彼らの母語で、日本語の感覚を理解してもらうしかないのです。
日本語話者が、他の言語話者の感覚を理解するよりもはるかに難しいことなのです。
日本語の感覚は、分からないままでも他者を受け入れることができますが、彼らは論理的に説明的に理解することが必要になるからです。
日本語の感覚を少しでも理解している人たちから見ると、日本の出番であることがわかっているのです。
しかし・・・、なのです。
みんなで、考えてアウトプットしていくべきことでしょうね。
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