2014年12月16日火曜日

日本語感覚と宗教のかかわり

言語の成り立ちを考えるときに、どうしても考慮しなければならないものがいくつかあります。

その一つが自然とのかかわりであり、もう一つが宗教とのかかわりです。

更なる要素として、人とのかかわりを挙げる考え方もあるようですが、人とのかかわり方は、自然や宗教とのかかわり方によって作られたものと言うことができます。

しがって、どの言語においても、その言語の持つ自然とのかかわり方と宗教とのかかわり方を見つけることができれば、その言語の根本的な感覚を知ることができると思われます。

文法や語彙の共通性よりも、自然や宗教とのかかわり方における共通性の方が、本質的な言語感覚の類似性を示していると思われます。


日本語の特殊性は、まさしくこの自然と宗教とのかかわりにおいて、他の先進文化国の言語と大きく異なっていることから来ています。

日本語における自然と宗教とのかかわり方は、先進文化国の言語よりも後進国、それも原住民の言語感覚に近いものだからです。

先進文化国の他の言語から見たら、本来なら先進文化をかつげるはずの無い言語文化と映るのです。

ですから、彼らから見ると一種の野蛮な国とも見えますし、原始と最先端文明の同居した気味の悪い国として怖れられることも起こります。


ところが、自然とのかかわり方で見てきたように、共生の感覚と相対的存在としての自分が言語の感覚の根本にあります。
(参照:日本語と自然との関係

日本人に対しては、付き合い始めると、とても付き合い易い相手であることがわかってくるのです。


日本語の感覚においては、自然に対する感覚と宗教に対する感覚がほとんど同じなのです。

区別がないと言った方がいいのかもしれません。

欧米の言語においては、自然は人間のコントロールすべきものであり主体としての人間の管理対象となります。

神は、究極の人間であり、すべての至上として位置する人間の理想的姿として、また人間の規範として存在していることとなります。


日本語の感覚においては、神は自然と同じであり自然と同化したものとして存在しています。

その意味では、欧米言語の感覚から見ると、神と言いつつもその存在を信じていないし、あらゆるところに神が多すぎる、無神教でもあるし多神教でもあるわけのわからないものと映っています。

ところが、日本語感覚における神は、彼らの神よりもずっと人間の身近にいるのです。

自然と同化し、その自然を共有しているのが人間であるために、常に神と一緒にいるという感覚すらあるのです。


自然との関係で触れてきたように、日本語感覚では、分からないものは分からないものとして、そのまま受け入れることが可能ですし、わかる範囲では極力わかろうとします。

そして、科学的にありえないものは不自然であると感じて信じようとはしません。

日本語感覚では、科学すらも自然の一部であると感じています。

合理的であるということは自然であるということであり、無理がないということでもあります。

日本語感覚では、神が自然と共にあり自然と同化していることが合理的なのです。

究極の美しさは自然であり、自然の美しを持たないものはどこかが不自然であることになります。


徒然草の作者でもある吉田兼好は僧侶でもあります。

その兼好法師が、伊勢神宮を訪れた時の歌があります。

なにごとが おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

よく考えると、お坊さん(仏教)が神宮(神道)で涙するという図になります。

欧米的に言ったら、めちゃくちゃな話しになってしまいます。


しかもここで言っているのは、「なにごと」です。

物とも人とも言っていないのです。

物も人も、あるいは神をも超えたものをイメージしているのではないでしょうか。

まさしく日本語の感覚そのものではないでしょうか。


日本語の感覚では、仏も神も天も越えたところに宗教心があるのかもしれませんし、それらをすべてを包摂したものなのかもしれません。

欧米的言語感覚と異なるのは、神が自分と対する存在として客観的な外側にあるのではなく、自分が神の中にある、あるいは神と同じ側に自分があるという感覚です。

自然に対する感覚と全く同じ感覚であろうと思われます。

そうであれば、自然と神(宗教)を区別する理由がありません。


日本語感覚では日常的に、葬儀は仏式で、初詣や地鎮祭は神道で、結婚式は教会で行われています。

何の不思議も不自然さも感じることはありません。

食事の前の「いただきます」や物事がうまくいった時の「おかげさまで」は、明確な対象があるわけではありません。

感覚としては、人ではないものを対象としているのではないでしょうか。

そこには意識ぜずとも神的なものを感じているのではないでしょうか。


日本語感覚は決して無神論者ではありません。

多神教でもないと思われます。

具体的な神をそれぞれが信じているわけではありません。

強烈な信者は、むしろ不自然であるという感覚になります。

全ての自然に神が宿るという感覚が一番当たっているのではないでしょうか。


日本語感覚では、神=自然なのです。

そして、人は自然の一部であり、自然の中で生かされているモノなのです。

自然や神とは、対するものではなく共にあるものなのです。


自分が主体となって意思を持てば、自然と対峙することが起こります。

すると、生きていくことに合理性が失われることが起こるのです。

共にある自然の意思を感じようとします。

感じた意思に沿って、不自然にならないように生きようとするのが、日本語の感覚です。

自己主張をするのは神に対してだけです(「ことあげ」)、そして神の(自然の)意思を感じ取るのです(「ことだま」)。
(参照:「ことだま」と「ことあげ」

素直に、母語の持っている感覚にしたがって生きたほうが、自然なのではないでしょうか。

少なくとも、不自然さを感じる場合には一旦は拒絶してみることが必要なのかもしれませんね。




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