(参照:紀貫之という天才を見る)
女文字として定着しつつあったひらがなを、女のふりをして「土佐日記」として文学の域として高め、のちの日記文学に結び付けたのも紀貫之でした。
ひらがな文学の最初の作品と言われながらも作者不詳のまま扱われている「竹取物語」(900年頃と言われている)についても、紀貫之の手による本があったことが確認されており原作者ではないかとの説もあります。
その後の女流ひらがな物語文学の隆盛は「源氏物語」をピークとして、ひらがなの使い方そのものを定着させていくこととなりました。
漢字の音を使いそれまでの「やまとことば」を書き表した万葉仮名が、ひらがなに変化していく過程と言っていいのではないでしょうか。
その後、漢字かな混用文が現れ始めるのが「今昔物語」(1100年以降成立と言われている)だと言われていますが、文章の主流としての漢字かな混用文が定着するのは鎌倉時代(1200年以降)であったようです。
ひらがなの成立から漢字かな混用文が定着するまでの間は、ひらがなを使いこなすことによって「やまとことば」の表現力を徹底的に発展させた期間であったということができるのではないでしょうか。
この間の表現力の発展のために大きく貢献したのが和歌であったことは想像に難くありません。
三十一文字の短い表現のなかで限界の表現を磨きあげていった技の中には、日本語の特徴である同音異義語の活躍の場であったと思われます。
当時の地名や言葉を見ても、その読みにおいては濁音が含まれていたことは間違いがないようです。
しかし、表記としての仮名においては濁音は一切表記がされません。
すでに「いろは」が定着している環境であり、日常語においては濁音が存在しているにもかかわらず、表記に濁音がないのはどうしてでしょうか。
万葉仮名を設定し、ひらがなを生み出した技術をもってすれば濁音を表記することは大した労力ではなかったはずです。
今の私たちにとっては濁点は当たり前のものとして表記上も存在していますが、濁点の使用は意外に歴史の浅いものとなっています。
初めて濁点が見られるのが江戸時代に入ってからであり、一般的に使用されるようになったのはなんと明治以降のこととなっています。
たかが「点」なのですが、音としては文字の始まりのころより存在していたにもかかわらず表記されてこなかったのはなぜなのでしょうか。
どう考えても、わざと表記してこなかったとしか思えません。
特にひらがなが大きく発展した時期においても濁点が存在していないことは、日本語の特徴である同音異義語に新たなジャンルとしての同字異義語を持っていたことが考えられます。
現代では濁点が表記されていますので、濁点のあるなしによって文字そのものが異なることになります。
したがって、同字であるが同音ではない文字は存在していません。
濁点を表記しなかったことによって、同じ文字であっても音が異なるもの(清音と濁音)が存在することがおきていたわけです。
たかが「点」なのですが、これによってひらがなの表現の広がりが一層大きくなっていたことが考えられます。
わざと濁点を使用しないことによって、ひとつの言葉に持たせる意味合いをより多くすることができたと考えられます。
当時の和歌の一般的な技術としては、「本歌取り」と「掛詞(かけことば)」があります。
「本歌取り」はもとになる有名な歌の一部を借用することにより、短い言葉のなかでもととなる歌の解釈をも借用するという技術です。
「掛詞(かけことば)」は、いわゆる語呂合わせ・駄洒落のことで、一つの言葉に複数の意味を持たせるものです。
古今集より一例を挙げてみましょう。
あふことの なきさにしよる なみなれは うらみてのみそ たちかえりける
(逢うことの なぎさにしよる 浪なれば うらみてのみぞ 立ち帰りける)在原元方
掛詞としては「よる」→「夜」と「寄る」、「なみ」→「浪」と「涙」、「うらみて」→「浦見て」と「恨みて」などが同音異義語で使われています。
同字異義語として、「なきさ」→「なぎさ」と「無き」と「泣き」がかかっています。
連想が広がっていきますね。
もともと同じ言葉であったと考えられる「萎る(しほる)」と「絞る(しぼる)」は、意味がしっかりと別れたことによって「萎る」が「しをる」と表記されるようになっていました。
それでも歌の中では相変わらず「しほる」としばしば使われているのは「絞る」を連想させるためではないかと思われます。
これだけの文字を生み出した者たちが、音としては文字よりも先あったと思われる濁音を表記する術を持っていなかったわけはないと思われます。
あえて、濁音を表記することよりも言葉としての表現力を求めた感性は、日本語の表現力の豊かさの原点ともいえる姿勢ではないでしょうか。
現代ひらがなでは、濁音を入れても音数としては66音しかありません。
三十一文字のなかで自然を詠いながらも、その中に心情を盛り込む技は、美しい音とともに完成された芸術ということができるのではないでしょうか。
四拍子にピッタリと合う七五調の音調は、素直に心に響いてくるリズムをも含んでいます。
日本語は本当に素晴らしい言語ですね。
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