小学校に入って「国語」を学ぶ前の子どもたちの言語は、母語と呼ばれる主に母親から継承された固有のもので、一人ひとりの違いの大きな日本語となっています。
地域による方言や独特の言葉を含む個性的な言語となっています。
広い意味では日本語ですが、万人が同じ理解ができる言語とはなっていません。
義務教育において地域差のない平等な教育を受けるためにも、共通理解のために共通語が必要になってきます。
学校教育において共通の知識を身につけるための共通言語として定められているものが「国語」です。
「国語」の習得過程に合わせた表現で、他の教科の教科書が書かれています。
独立した教科として、小学校一年生から時間が割り当てられているものが「国語」と「算数」です。
「国語」はすべての知識の習得の一番基礎になる共通語を習得するために必要な一番大切な教科となります。
「算数」は専門用語や記号を含めて一般の生活言語から一番遠いところにある表現がなされている教科です。
そのために早くからその表現に慣れておく必要があるために、その重要性もあり小学校一年生から取り組みます。
しかし、「算数」の教科書の「国語」による表現は、「国語」の習得過程を後追いしたものとなっているために、「国語」の習得がある程度できてこないとかえって理解しにくい表現となっている場合もあります。
通常であれば小学校の3年生から理科や社会科が教科として加わってきます。
これらもまた、「国語」や「算数」とは異なった教科独特の表現を伴った分野です。
「国語」では教科別の表現の特徴などを教えてはくれません。
縦書き横書きの違いや専門記号の使い方などをきわめて短い期間で習得していかなけばならないのです。
「国語」の最初の授業は「ひらがな」の読み書きです。
毎日40分程度の授業で2ヶ月足らずで終わってしまいます。
先生用の指導書には、合計で24時間以内で「ひらがな」を完了するように書かれています。
教育指導要領には「聞くこと、話すこと」「書くこと」「読むこと」について学年ごとに細かく記載されています。
しかし、あまりに大きな言語として様々な表現方法を持つ日本語は、共通語として定められた「国語」の範囲に限定しても膨大なものとなります。
基本的なことの習得だけでも4年生、10歳頃までを必要としてしまいます。
結果としての「国語」の習得状況を確認する試験の内容も、漢字の書き取りと文章の読解、言葉の意味を問うものが中心とならざるを得ません。
基本的な到達点は「国語」という共通語を用いて様々な文章表現の読解力を身につけることになっています。
「国語」の教科書には横書きの文章はほとんど出てきません。
教科別の表現の特徴も教わらないままに、それぞれの教科の独特の表現に向かっていかなければいけないのです。
小学校の低学年で「国語」についていけなくなると、すべての教科で遅れが生じてしまいます。
反対に、どの教科にしても教科書を読ませてみると「国語」の能力がすぐに見えてきます。
しっかりと意味が分かった読み方ができている子どもは、「国語」をはじめとしたすべての教科を苦も無くこなしていきますが、文字を追いかけて読むことに必死な子供は苦手が増えていきます。
これは昔も今も変わらないことのようです。
母親を中心に伝承され身につけた日常使用言語である母語を幼児期にしっかりと身につけていないと、小学校に入ってからすごいスピードで進む学習言語の「国語」の習得が難しくなってしまうのです。
「国語」で遅れが出ると、「国語」で書かれて理解していかなければならないすべての教科のどこかに苦手が出てくることになります。
基本的な学習言語の基礎が完了した後の小学校の高学年になると、教科別の専門的な表現に拍車がかかってきます。
それまでは何とか理解できていたとしても、この段階で苦手になってくる子どもが多くなってきます。
これを防ぐためには、学校の授業だけでは無理です。
小学校の中学年くらいになると、学校でも図書館の利用を勧めて読書をすることを指導します。
読書感想文などを書かせ始めるのがこのころからです。
読書量を競争させたりする場面もあるようです。
学校での授業を補う方法は読書が一番ですが、読書の内容についての指導ができていないことが多いようです。
この時期は、内容の理解よりも数多くの表現や語感(漢字・かなのバランス)に触れることの方が大切になります。
無理に読書量を競争させたり、感想文を書かせたりすると、読書そのものを嫌いになる子供が出てきたりすることもあります。
指導する側の技量が問われるところですね。
好きな分野や好きな作家の本をむさぼるように読みだすのもこの時期からですね。
数多くの表現や語感に触れることとのバランスを上手に取ってあげたいところです。
学習言語である「国語」の習得がすんなりと進むためには、幼児期の母語の習得が大切であることは論を待ちません。
「国語」の授業の進め方そのものが、母語がある程度のレベルで身についていることが前提となっているのでなおさらです。
一般的に考えれば、日本人として生まれて「国語」を学ぶこと自体が本当に必要なことなのかと考えられることですが、知識を習得し学習するための共通語として「国語」を身につけることはとても大切なこととなります。
その後のあらゆる知識の習得が「国語」によってなされるからです。
個性は母語で形成されています。
知的活動としての個人的な特徴は母語によって作られてきていますが、他者との理解の共通性は「国語」によって作られていきます。
知的活動のうちの思考については、きわめて個人的な活動ですので母語が中心になります。
認知や表現においては、他者との共通性が求められるほど「国語」のウエイトが増えざるを得ません。
その「国語」の理解においても基本駅的な言語感覚は母語によって形成されてきていますので、微妙な感覚では一人ひとり異なっている可能性があります。
同じ国語の同じ言葉の意味であっても、一人ずつ感覚が微妙に異なっていることになります。
母語という極めて個性的な言語を持っていた子供たちが、「国語」という学習言語としての共通語を持つことによって、ルールや法則を理解していくことになるのです。
社会性としての「国語」、個性としての「母語」ということができるのではないでしょうか。
共通語としての「国語」について全国的にほぼ統一された教育を受けながらも、一人ひとりの日本語がこれほどの違いを持っているのは母語という基礎言語の違いによるところであると思われます。
共通語としての「国語」についても、大きな日本語における一部を切り取ったものということができると思います。
「国語」をして正しい日本語という場合もあるようですが、言語は日々変化しているものであり「正しい」という表現そのものがふさわしいものではないと思われます。
どうしても正解探しをしたい人にとっては「正しい」という拠り所が必要なのかもしれませんが・・・
母語→国語へのつなぎがうまくいかないと、いろいろな分野で不都合や苦手が起こってきそうです。
教科書を声を出して読むという行為は、国語だけでなく他の教科でも大切なことですね。
子どもが家で声を出して教科書を読んでいる姿は、最近ではあまり見かけられなくなりました。
「国語」の習得状況については注意して見ていきたいですね。
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