2014年5月10日土曜日

「あいまいさ」の美しさ・・・和歌

何回かにわたって、いろいろな観点から日本語の「あいまいさ」について触れてきています。

この「あいまいさ」は日本語の特徴であり、決して欠点としてだけ存在するとだけではないことです。

あまりにも多様な表現力を持つ言語であるために、使っている私たちが場面に応じた的確な使い方ができなくなっていることによって、「あいまいさ」の悪い面が強調されてしまっていることを知ることが大切ではないでしょうか。

表現の仕方によっては、場面に応じてこれ以上ない正確な表現による伝え方が可能であることを、私たち自身が気が付いていないことがあると思います。

何十年の間、日本語を使ってきながらもこんなことが言えること自体、日本語の大きさ・広さを物語っているのではないかと思います。


ひとつの言葉で正反対の意味にあたることを同時に表現することができる言語であることを見てきました。
(参照:「あいまいさ」に込められたもの

精神文化的な感覚としての彼我の関係が言語表現に現れることについても見ていきました。
(参照:「あいまいさ」の素晴らしさ

自然描写の中に同時に心情をも映しながら表現できる言語であることも見てきました。
(参照:自然の中に心を映す技術

YES/N0の両極端の間にある中間領域を表現できる言語であることを見てきました。
(参照:YESとNOの間にあるもの

そして、これらのすべてが和歌という表現方法によって千年を超えて継承されていることを確認してきました。
(参照:和歌を伝えるもの


その和歌の存在が、一般生活の中ではどんどん薄れてきてしまいました。

全く和歌に触れることがない時間がほとんどとなってきています。


日本語の継承してきた「あいまいさ」が一番美しく表現できる手段が、和歌であったと思われます。

和歌の中での言語技術が磨かれてきたことが、日本語の表現の豊かさを作ってきたことであろうと思います。

意味はよくわからなくとも、和歌を聞いた時にうける感覚はとても気持ちのいいものです。


日本語の持つ「あいまいさ」を、「いい加減さ」としてではなく言語技術としての美しさとして表現している一番の手本が和歌だと言うことができると思います。

日本語の持つ言語としての様々な制約や環境を考えた時に、特徴としての「あいまいさ」は世界の他の言語と比べても際立ってるいるものです。

これを「いい加減」として存在させてしまうのか、本来持っている正確さと美しさとして存在させるのかは、使用者としての私たちにかかっていることです。


学習言語としての国語の学校教育のなかで、他の国の言語教育と比べて決定的に劣っている分野があります。

それが言語技術についての分野です。


原因はいくつかあります。

日本語そのものがとても大きな言語でもあるので、学習言語としての基本の習得だけでも10歳頃までかかってしまうこともそのひとつです。

他の国の言語においては、ほとんどの言語が6歳頃には基本的な習得ができています。

その分、基礎の初等教育で言語技術について習得する時間とカリキュラムがないのです。


さらに10歳以降も語彙の増強と、豊富すぎる表現方法によって書かれた文章を理解することにほとんどの精力が使用されることになります。

習得程度を確認するための試験においても、書き取りと読解が中心となっています。

これが、大学までの学校教育において継続して行われていることです。


他の国の言語教育(国語教育)においては、文化的な背景もあり、小学校の低学年より「話すこと・聞くこと」「表現すること」が重視されています。

自分の意見を表現すること、人との違いを訴えることに対する言語技術を習得することが学校教育での目標となっています。

人との差が見つけられないことや自分の意見を表現しないことは、自ら能力がないことを認めることであり評価の対象とすらならないことを植え付けられるのです。


日本が学校教育においてひたすら、インプットとしての書き取りと読解を身につけている間に、彼らは持っている言語を利用してのアウトプットのための技術を身につけていくのです。

その差は交渉の場面において、コミュニケーションの場面において、きわめて大きなものとなって現れてくることは容易に想像ができることです。

日本人がアウトプットが苦手なのは、決して性格的なことだけが原因ではないのです。


日本語としての独特の言語技術のための美しい手本が、昔から存在しているのです。

それが和歌です。

世界の言語の中でもきわめて特殊な言語である日本語は、日本語にしかない特徴を沢山持っています。

他の言語の参考になることは部分的にあったとしても、言語技術においては真似できる言語は存在しません。


日本語によるコミュニケーションにはまだまだ無限の可能性があると思います。

その中で一番大きなものは、ほとんどの人が話すこと・表現することにおいての言語技術を身につけていないことです。
そこに、反対に大きな可能性があるのではないでしょうか。

実際の言語技術の習得は、社会に出てからそこの環境に必要な言語技術だけを身につけているのがほとんどではないでしょうか。


表現するための、思考をするための言語技術については身につける場がほとんどないのです。

技術的にも芸術的にも日本語の言語技術の最高のお手本が和歌ではないでしょうか。

歴史の浅い言語のためにお手本がないのであれば話は別です。

千年を超える継承された言語を用いて、千年を超える言語技術を磨きあげた表現方法が目の前にあるのです。


日本語の持っている「あいまいさ」が美しさとして表現された実物が目の前にあるのです。

こんなに大きくて表現力豊かな言語を持て余している日本人が、和歌で実現されている言語技術を持って社会に、世界に出ていくことを想像することは、世界を大きく変える可能性すらあるのではないでしょうか。

和歌は文章の前にあったものだと思われます。

文字ができる前の話し言葉しかなかった時代にも、すでに和歌の原型はあったと思われます。


文章も、詞も、すべての原点は和歌にあったと思われます。

「和歌に学ぼう、日本語の言語技術」は日本語の可能性にさらに大きなチカラを与えてくれるものではないでしょうか。

母語として継承されていく日本語のなかで「やまとことば」のウエイトは日々減っていっています。

その感覚がなくなることはないと思いますが、和歌を理解できる感覚が少なってきていることは間違いないことだと思います。


学校では教えることがほとんどできない言語技術の習得を、究極の日本語表現である和歌を通じて行うことは極めて理にかなったことではないでしょうか。

せっかく持っている日本語という道具を、より磨いて使いこなせる具体的な方法として取り組んでいきたいですね。



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