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2014年12月31日水曜日

2014年に思う(4)・・・歴史の見方

今年一番の収穫は、物事を見るための間違えのない視点を見つけたことです。

そのきっかけをくれたのが、竹村公太郎氏の著した「日本史の謎は地形で解ける」でした。

あらゆる歴史を検証するために最適な方法が述べられています。

それは、その事実が起きた場面における自然環境を確認することです。


そこから見えるものは、今までの歴史をひっくり返すものもあれば、完全に否定することになるものもあります。

その手法をして検証されたものの一つに、江戸城の正門があります。

詳細については、是非ともこの関連ブログを見ていただきたいと思います。
(参照:江戸城の門の名前

自然という漠然とした定義をもう少し具体的にしてみたものが、「地形と気候」です。


地上で最初の文明が生まれた場所も、人が生きていくのに適した地形と気候があったからのことです。

この地形と気候をどのようにとらえて、かかわってきたかが人のあらゆることの基盤となっているはずです。

そこから発展してきたものが、「すべてのものは、自然とどのようにかかわるかが基盤になっている」と言うものです。


言語は文化によって形作られ、また文化を作ってきたものでもあります。

歴史の根底にあるものは、間違いなく言語の根底にもあるもあるはずです。

そのようにしてみていった時に、欧米の言語の感覚とは異なった自然に対する感覚を持っている日本語に気がつきました。


そして、それぞれの言語が持っている自然とのかかわり方が、あらゆる物や人とのかかわり方に影響を与えていることがわかってきました。

同じことを同じように扱っていても、言語によって感覚が異なっていることはなんとなく理解していましたが、それがどこから来ているものなのかが分からないままでした。

特に欧米型言語で論理立てられたテクニック論が、日本語に翻訳されたものに触れた時に、理由のない不自然さを感じたものです。

そこにあるものが、自然に対する感覚であり、すべての論理がその上に成り立っているのを感じた時に、一気にひらめくものがありました。


欧米型言語によって考え出された論理には、日本語の感覚とは異なる自然とのかかわり方が根底にあることがわかりました。

そのために、欧米型論理を日本語に翻訳されたものを読んでも、論理は理解できてもどこかに不自然さを感じるのです。


自然に対する感覚は何回か触れてきました。

そこからは、神に対する考え方や人とのかかわり方、環境と自分とのかかわり方などにすべてつながっていくことになります。
(参照:日本語と自然との関係言語とものの考え方 など)


歴史を検証するためには、記録に頼ることになります。

記録は人が記したものである以上、どれだけ客観化しようとしても必ず記録者の意思が入ります。

古い記録になればなるほど、元の史料の存在が不確かになります。

現代のIT語術をもってすれば、どんな時代のどんな場所であっても、かなり正確に地形や気候を確認することができます。

地形や気候は人の力の及ばないことです。

絶対的な環境です。


絶対的な環境を抜きにして、事実を理解することは出来ません。

この絶対的な環境とどのような関わり方をしていくのかが、すべてのものの考え方の基本となっています。

日本語の感覚が、環境との共生を目指すものであり、環境に適応して自分を変えていくという考えが基本になっています。


欧米言語の感覚である、個の力によって自分の目的に沿った方に環境を変える影響力を持って行こうとすることとは正反対の感覚ということができます。

これが不自然さの原因だと思われます。

それぞれが持っている母語で、自然に考えることが一番質の高い思考になることは分かっています。

そのためには、母語が持っている感覚に自然に従って思考することが大切なようです。


これからも、自然とのかかわりについては触れていく機会が増えてくると思います。

これによって、日本語のチカラの新しい面も見つけることができました。

まだしばらくは、日本語のチカラのネタはあるようです。

どんなものが出てくるのか楽しみにしながら、更新していきたいと思います。

2014年12月30日火曜日

2014年に思う(3)・・・言語の本質について

言語の本質という表現が適切であるかどうかは、疑問があると思っています。

そもそも、言語について本質という対象が存在するのかということになってくると思いますが、何ともうまい表現が見つかっていないのが現状です。

根っことも基盤ともいうことができるかもしませんし、なんとなく少し違うような気もしています。


そこで比べてみたかったことは、それぞれの言語が持っている基本的かつ不変的な感覚と言えるものです。

実際の言葉や文字や文法と言った言語とは異なった、言語そのものの根底にありその言語が使われる背景にあるような感覚のことです。

日本語についてこの感覚を見てきたときには、「ことだま」や「ことあげ」と言った概念が想定されてきました。

実際の言語をきっかけに、その感覚への移行が行なわれているのではないかとも考えてきました。


そんな模索の中で、参考になったのが竹村公太郎氏の著した「日本史の謎は地形で解ける」でした。

東北大学の土木工学科を卒業し、建設省に入省後はダム・河川事業を一貫して担当し活躍してこられた方です。

歴史の疑問は、地形でほとんどのことが解明できるとするとして展開される各種テーマは、面白いように今までの伝聞をぶった切っていきます。

伝聞には史実でないことがたくさん含まれており、時間が経つとどれが真実であったかわからなくなります。

絶対的な事実はなんであったを、事実のあったころの地形や天候を確認することによって、検証できるとする考え方はまさに実証そのものです。


そこから得たヒントで言語を見てみた時に、大きな切り口が見つかりました。

言語は、その言語を使用する民族が積み重ねてきた文化の歴史そのものですし、文化を継承するために言語の変化が起きたものです。

その言語が、自然とのかかわりをどの様に捉えているかを見てみることができないと考えました。


この手の文化論的なことに触れている史料は比較的たくさん見つかりました。

自然と人とのかかわり方が、神とのかかわり方に影響を及ぼします。

それが、言語としての基本的な論理となってきていると思われるのです。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化日本語は究極の環境言語 など)

欧米型言語については、その源とするところはほとんど一緒です。

特にアルファベットを使用している言語については、共通性が非常に高いものと思われます。

その欧米型言語の持っている、感覚としての自然と人とのかかわりは、日本語の持っているものとは大きく異なっていることがわかりました。


このことは自分と環境とのかかわり方についてそのまま現れてくることになります。

欧米型言語の感覚で言えば、自分が発信して環境に影響与えて変化させようとします。

これが自然な発想になっています。

そのために、より強い影響力を与えてより広い環境に影響を与えるために、個のチカラを磨く努力をすることになります。

それは自分の外に対して与える影響力をより強くし、コントロールするための努力です。


日本語の感覚では、環境は常に変化しており、その変化し続けている環境に対して自分自身を適応させようとします。

これが自然な発想となります。

変化し続ける環境に適応させるためには、自分の適応力を挙げていかなければなりません。

どんな環境に思適応できる能力を身につけるためには、ひたすら自分の適応能力を磨き続けていかなければならないのです。

これは、変化し続ける外側に対して、内側である自分を適応させて変化させていくことになります。

ひたすらに自己研鑽としての努力を続けることになります。


日本語と英語のバイリンガルで、日本語が母語である友人がいます。

母語が日本語ですので、基本的な感覚は日本語感覚です。

それでも、英語で話したり表現したりするときには、日本語で行う場合よりも抑揚が激しくなり、動作が激しくなり、伝えよう説明しようという自然な態度が現れるようです。

同じことを日本語で表現する場合とは明らかに違った態度として映るようです。


どちらも自己の能力を高めようと努力することにおいては全く変わりはありません。

周りを変化さる力を得るために努力をするのか、周りの変化に適応するための力を得るために努力するをするのかということになります。

身につけたい能力は全く同じものである可能性が高いと思います。

ところがその能力の使い道が違いますので、最後でギャップが発生することになります。


こんなことが見えてくると、言語そのものが持っている性格によって、得意な発想がわかってくるようになります。

環境と自分のバランスを取ろうとするのが日本語感覚です。

その結果、日本語はハイブリッド発想において極めて自然な形で、思考をしていくことがわかりました。

日本語の得意な発想がハイブリッド思考であるということは、これからも何度となく登場してくるテーマになるのではないでしょうか。
(参照:日本語を自然に使った思考とは自然に使いこなせハイブリッド思考 など)


欧米型言語による論理や技術をそのまま持ってきても、元来が説明説得型言語ですのでとてもわかり易いです。

論理型の言語ですので、日本語に直されても理解しやすいものとなっています。

ところが、マニジメント論やコーチング論などの最後の不自然さと強引な類型化を感じてしまうのは、減の持っている感覚の違いなのです。

言語の感覚の違いは、行動原理にもつながるものです。

欧米型の論理で出来上がってきたものは、日本語話者の感覚としての最後の行動に結びつかないことが多く現れて来ます。

自然なことだったのです。


海外の論理やテクニック論に対して抱いていた、原因のわからない不自然さや違和感の正体がわかってきたところでした。

このテーマもこれから扱っていく回数が増えると思います。




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2014年12月29日月曜日

2014年に思う(2)・・・日本語 vs 英語

日本語が、世界の他の言語から見たときに極めて独特の特徴を持ったものであることは、先進各国の国語教育について見てみた時に一段と鮮明になりました。
(参照:外国の言語教育

幼児期の伝承言語である母語習得から、学習言語としての国語習得への移行期は、ちょうど義務教育の始まる時期に当たります。

世界各国の義務教育における言語教育を見ることによって、言語や言語の持つ感覚についての特徴をより鮮明にすることができたと思います。

他の言同士の方が、日本語よりもはるかに多くの共通性を持っていることも見ることができました。

ここでは、先進国の言語のなかでの日本語の孤立性を確認することができたと思います。


日本語話者にとって、日本語の存在は当たり前のものであり、国語としての試験でもなければ言語を意識することはないと思います。

したがって、日本語の特徴をいくら知ったところで、普段の生活においてはそれほど役に立つことにはならないと思います。

しかし、先回触れた知的活動と言語の関係を理解してくると、日本語の特徴を知っていることが知的活動の質の向上につながりそうだということが分かります。


更に、日本語は世界においては全く役に立たない言語です。

日本語話者同士、日本でしか役に立たない言語です。

世界での言語の中心は欧米型言語であり、その中でも英語が世界の公用語としての地位を確固たるものとしています。

英語と日本語との違いを理解しておかないと、世界の公用語との理解が異なってしまうことになり、世界で活動することが難しくなってしまいます。


英語と日本語の違いについて、いくつかの視点から切り込んでみたものが「日本語 vs 英語」の6回にわたる扱いでした。

特に意識したのが、世界の公用語として英語を使うことは避けて通れなくなっている現代において、日本語と英語をどのように位置づけたらいいのかということでした。

ここでも原典の戻るような形で、母語がクローズアップされてきました。

そして、この前後ではバイリンガルについても何度か扱ってきました。
(参照:バイリンガルの知能は低い?

結果としては、すべて母語に帰結することになりました。


バイリンガルにおける第二言語は、第一言語である母語によって理解されて使いこなされていることが分かりました。

母語の性能が、直接バイリンガルとしての性能に影響することがわかりました。

母語として持っている言語には、現実の具体的な言語だけではなくその言語が成り立ってきた文化歴史に基づく感覚的なものが備わっています。

その感覚的なものを理解できないと、その言語の持っている本当の意味を理解することができないのではないと思います。


自分の持っている言語の特徴を理解することは、知的活動の質を高めることにつながります。

しかし、自分の持っている言語だけを見ていたのでは、何が特徴であるかを知ることは困難です。

特徴というのは、比較する対象の存在があって初めて成り立つものです。

ここに、世界の公用語である英語という、格好の対象があります。

この公用語を理解することなく生きていくことは、これからは不可能となるでしょう。

比較対象としてこれ以上のものはないと言えるでしょう。


英語を使いこなせるようになる必要は全くないと思います。

日本語と比較したときの英語の特徴を理解していれば十分なのです。

翻訳などはすべて自動で行われるようになってきています。

翻訳される先の言語について理解していることによって、持っている言語を使いこなして相手の言語感覚に合わすことができればいいだけなのです。

母語として持っている言語は使いこなすこなすことができる上に、日本語は世界の言語のなかで最も豊かな表現力を持った言語です。


日本語の特徴を知ることによって、改めて日本語の魅力の大きさに気がついた次第です。

言語の比較するうちに見えてきた、その言語が生まれてきた歴史文化的な背景は、言語の本質ともいうべきものでした。

ここに触れることは、宗教についても触れなければならなくなります。

ある種の覚悟が必要なことですが、それ以上に興味の方が勝ったと言えると思います。

「日本語 vs 英語」がなければ、ここまで踏み込むこともなかったように思えます。

いいきっかけになったテーマでした。





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2014年12月28日日曜日

2014年に思う(1)・・・言語と知的活動

去年の同時期の自分のブログを読んでみると、12月26日から6回にわたって「2013年に思う」と題して、主なテーマの振り返りを行っていました。

年末年始のこの時期は、ブログのページビューが極端に落ちる時期でもあり、読み手を意識しない内容であってもいいかなと思い、今年も振り返りをしてみることにしてみました。

去年の振り返りがきっかけとなって、1月6日からの「気づかなかった日本語の特徴」という、このブログの核の一つが出来上がっていきました。
(参照:気づかなかった日本語の特徴

このタイトルのページは、このブログにおいては一番リンクが多い先だと思います。


何をやってきたのかということは、過去のことでありますが、そのページに検索でたどり着いて初めて目にする人もいます。

そのページで述べたことが、のちに修正されていることもよくあることです。

過去のブログへのリンクだけではなく、意見が変わったりよりわかり易く書けた場合には、先のブログに対してもリンクを張る必要があることに気がつきました。


当たり前と言えばそうなのですが、常に新しいブログを更新していると、過去のブログに対しての意識が薄くなってしまいます。

せっかくの資料ですので大切にしたいと思って、なるべく過去の関連ブログに対してリンクを貼るようにしていますが、リンクを貼った先に相互にリンクを張ればいいことに気がつきませんでした。

文中でリンクする場合もあるし、最後に関連ブログとしてタイトルでリンクを貼っておくだけでもいいのです。


なるべく一回の投稿で読みきりになっていた方がわかり易いことを学んだのも、2014年でした。

反対に言いたいことが沢山ある場合でも、なるべく一回の投稿では一つのテーマに絞ったほうがいいことも学びました。

これらは、単純に自分であとで見返してみて分かりにくかったことから分かったことです。


さて、今年の振り返りの最初は、言語と知的活動です。

知的活動のためのツールが言語であることに気がついてからは、一気に発想が広がっていったことを思い出します。

5月30日から7回にわたって、「知的活動と言語について」と題して書き続けたことは、その時の思いをよく物語っています。
(参照:知的活動と言語について

言語の三要素である、母語、国語、生活語がそれぞれ、知的活動の三要素の発展のための大切なツールであることが見えてきました。

そのことによって、言語の方から知的活動を刺激することが可能ではないかと考えることができました。


知的活動の質を上げるためには、使用する言語の質を上げることに他ならないことがわかりました。

言語の限界が、その人にとっての知的活動の限界となっているのです。

母語を自然な形で使って思考することが、一番質の高い思考ができることもわかってきました。


このことをきっかけにして、質の高い知的活動のためにどのようの言語を使ったらいいのかを考えるようになってきたのです。

これも日本語についてだけ考えていたのでは、いつまでたってもよく分かりませんでした。

どうやら、具体的な言葉よりもその言語がもともと持っている感覚的なものに関係がありそうだと思うようになっていたころです。


「知的活動と言語について」を書いて以降は、どの様に言語使っていったら、より質の高い知的活動につながるのかが大きなテーとなっていきました。

言語によって知的活動に刺激を与えることで、より知的活動を活発にすることは、とても理にかなっているのではないかと考えていたと思います。


知的活動が開発されていく過程においても、また知的活動に刺激を与えることにしても、母語がいかに大きな存在であるかを改めて感じることになりました。

日本語を母語として持っているということが、「気づかなかった日本語の特徴」ではカバーしきれないほどの言語としての本質的な特徴に迫っていくきっかてとなっていきました。

2014年の大きな収穫は、この「知的活動と言語について」を書けたことによって、それまでの探求的内容から、言語を使用する実践的な内容に近づけていくことができるようになったことです。

ここから思考法の案内や、交渉術的なことまでも展開していくことができました。

また、実践セミナーで交渉力についての検証を行うこともできました。


このことを通じて、あらためて母語の大切さを確認できたことは、母語を説明するうえで新しいアプローチを持ったことにもなります。

母語については、ほとんど意識することなく使っていますので、なかなか考えるきっかけがありません。

当たり前に存在しているので、その大切さになかなか気がつくこともありません。

いろいろな切り口を持って、説明できるようにしておかないといけないと、あらためて考えさせられました。




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