2014年12月30日火曜日

2014年に思う(3)・・・言語の本質について

言語の本質という表現が適切であるかどうかは、疑問があると思っています。

そもそも、言語について本質という対象が存在するのかということになってくると思いますが、何ともうまい表現が見つかっていないのが現状です。

根っことも基盤ともいうことができるかもしませんし、なんとなく少し違うような気もしています。


そこで比べてみたかったことは、それぞれの言語が持っている基本的かつ不変的な感覚と言えるものです。

実際の言葉や文字や文法と言った言語とは異なった、言語そのものの根底にありその言語が使われる背景にあるような感覚のことです。

日本語についてこの感覚を見てきたときには、「ことだま」や「ことあげ」と言った概念が想定されてきました。

実際の言語をきっかけに、その感覚への移行が行なわれているのではないかとも考えてきました。


そんな模索の中で、参考になったのが竹村公太郎氏の著した「日本史の謎は地形で解ける」でした。

東北大学の土木工学科を卒業し、建設省に入省後はダム・河川事業を一貫して担当し活躍してこられた方です。

歴史の疑問は、地形でほとんどのことが解明できるとするとして展開される各種テーマは、面白いように今までの伝聞をぶった切っていきます。

伝聞には史実でないことがたくさん含まれており、時間が経つとどれが真実であったかわからなくなります。

絶対的な事実はなんであったを、事実のあったころの地形や天候を確認することによって、検証できるとする考え方はまさに実証そのものです。


そこから得たヒントで言語を見てみた時に、大きな切り口が見つかりました。

言語は、その言語を使用する民族が積み重ねてきた文化の歴史そのものですし、文化を継承するために言語の変化が起きたものです。

その言語が、自然とのかかわりをどの様に捉えているかを見てみることができないと考えました。


この手の文化論的なことに触れている史料は比較的たくさん見つかりました。

自然と人とのかかわり方が、神とのかかわり方に影響を及ぼします。

それが、言語としての基本的な論理となってきていると思われるのです。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化日本語は究極の環境言語 など)

欧米型言語については、その源とするところはほとんど一緒です。

特にアルファベットを使用している言語については、共通性が非常に高いものと思われます。

その欧米型言語の持っている、感覚としての自然と人とのかかわりは、日本語の持っているものとは大きく異なっていることがわかりました。


このことは自分と環境とのかかわり方についてそのまま現れてくることになります。

欧米型言語の感覚で言えば、自分が発信して環境に影響与えて変化させようとします。

これが自然な発想になっています。

そのために、より強い影響力を与えてより広い環境に影響を与えるために、個のチカラを磨く努力をすることになります。

それは自分の外に対して与える影響力をより強くし、コントロールするための努力です。


日本語の感覚では、環境は常に変化しており、その変化し続けている環境に対して自分自身を適応させようとします。

これが自然な発想となります。

変化し続ける環境に適応させるためには、自分の適応力を挙げていかなければなりません。

どんな環境に思適応できる能力を身につけるためには、ひたすら自分の適応能力を磨き続けていかなければならないのです。

これは、変化し続ける外側に対して、内側である自分を適応させて変化させていくことになります。

ひたすらに自己研鑽としての努力を続けることになります。


日本語と英語のバイリンガルで、日本語が母語である友人がいます。

母語が日本語ですので、基本的な感覚は日本語感覚です。

それでも、英語で話したり表現したりするときには、日本語で行う場合よりも抑揚が激しくなり、動作が激しくなり、伝えよう説明しようという自然な態度が現れるようです。

同じことを日本語で表現する場合とは明らかに違った態度として映るようです。


どちらも自己の能力を高めようと努力することにおいては全く変わりはありません。

周りを変化さる力を得るために努力をするのか、周りの変化に適応するための力を得るために努力するをするのかということになります。

身につけたい能力は全く同じものである可能性が高いと思います。

ところがその能力の使い道が違いますので、最後でギャップが発生することになります。


こんなことが見えてくると、言語そのものが持っている性格によって、得意な発想がわかってくるようになります。

環境と自分のバランスを取ろうとするのが日本語感覚です。

その結果、日本語はハイブリッド発想において極めて自然な形で、思考をしていくことがわかりました。

日本語の得意な発想がハイブリッド思考であるということは、これからも何度となく登場してくるテーマになるのではないでしょうか。
(参照:日本語を自然に使った思考とは自然に使いこなせハイブリッド思考 など)


欧米型言語による論理や技術をそのまま持ってきても、元来が説明説得型言語ですのでとてもわかり易いです。

論理型の言語ですので、日本語に直されても理解しやすいものとなっています。

ところが、マニジメント論やコーチング論などの最後の不自然さと強引な類型化を感じてしまうのは、減の持っている感覚の違いなのです。

言語の感覚の違いは、行動原理にもつながるものです。

欧米型の論理で出来上がってきたものは、日本語話者の感覚としての最後の行動に結びつかないことが多く現れて来ます。

自然なことだったのです。


海外の論理やテクニック論に対して抱いていた、原因のわからない不自然さや違和感の正体がわかってきたところでした。

このテーマもこれから扱っていく回数が増えると思います。




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