今年一番の収穫は、物事を見るための間違えのない視点を見つけたことです。
そのきっかけをくれたのが、竹村公太郎氏の著した「日本史の謎は地形で解ける」でした。
あらゆる歴史を検証するために最適な方法が述べられています。
それは、その事実が起きた場面における自然環境を確認することです。
そこから見えるものは、今までの歴史をひっくり返すものもあれば、完全に否定することになるものもあります。
その手法をして検証されたものの一つに、江戸城の正門があります。
詳細については、是非ともこの関連ブログを見ていただきたいと思います。
(参照:江戸城の門の名前)
自然という漠然とした定義をもう少し具体的にしてみたものが、「地形と気候」です。
地上で最初の文明が生まれた場所も、人が生きていくのに適した地形と気候があったからのことです。
この地形と気候をどのようにとらえて、かかわってきたかが人のあらゆることの基盤となっているはずです。
そこから発展してきたものが、「すべてのものは、自然とどのようにかかわるかが基盤になっている」と言うものです。
言語は文化によって形作られ、また文化を作ってきたものでもあります。
歴史の根底にあるものは、間違いなく言語の根底にもあるもあるはずです。
そのようにしてみていった時に、欧米の言語の感覚とは異なった自然に対する感覚を持っている日本語に気がつきました。
そして、それぞれの言語が持っている自然とのかかわり方が、あらゆる物や人とのかかわり方に影響を与えていることがわかってきました。
同じことを同じように扱っていても、言語によって感覚が異なっていることはなんとなく理解していましたが、それがどこから来ているものなのかが分からないままでした。
特に欧米型言語で論理立てられたテクニック論が、日本語に翻訳されたものに触れた時に、理由のない不自然さを感じたものです。
そこにあるものが、自然に対する感覚であり、すべての論理がその上に成り立っているのを感じた時に、一気にひらめくものがありました。
欧米型言語によって考え出された論理には、日本語の感覚とは異なる自然とのかかわり方が根底にあることがわかりました。
そのために、欧米型論理を日本語に翻訳されたものを読んでも、論理は理解できてもどこかに不自然さを感じるのです。
自然に対する感覚は何回か触れてきました。
そこからは、神に対する考え方や人とのかかわり方、環境と自分とのかかわり方などにすべてつながっていくことになります。
(参照:日本語と自然との関係、言語とものの考え方 など)
歴史を検証するためには、記録に頼ることになります。
記録は人が記したものである以上、どれだけ客観化しようとしても必ず記録者の意思が入ります。
古い記録になればなるほど、元の史料の存在が不確かになります。
現代のIT語術をもってすれば、どんな時代のどんな場所であっても、かなり正確に地形や気候を確認することができます。
地形や気候は人の力の及ばないことです。
絶対的な環境です。
絶対的な環境を抜きにして、事実を理解することは出来ません。
この絶対的な環境とどのような関わり方をしていくのかが、すべてのものの考え方の基本となっています。
日本語の感覚が、環境との共生を目指すものであり、環境に適応して自分を変えていくという考えが基本になっています。
欧米言語の感覚である、個の力によって自分の目的に沿った方に環境を変える影響力を持って行こうとすることとは正反対の感覚ということができます。
これが不自然さの原因だと思われます。
それぞれが持っている母語で、自然に考えることが一番質の高い思考になることは分かっています。
そのためには、母語が持っている感覚に自然に従って思考することが大切なようです。
これからも、自然とのかかわりについては触れていく機会が増えてくると思います。
これによって、日本語のチカラの新しい面も見つけることができました。
まだしばらくは、日本語のチカラのネタはあるようです。
どんなものが出てくるのか楽しみにしながら、更新していきたいと思います。