2016年2月2日火曜日

〇〇らしさって何?

「〇〇らしさ」と言う表現は思った以上に便利で頻繁に使われているのではないでしょうか。

「男らしさ」「あなたらしさ」「選手らしさ」「先生らしさ」などいろいろならしさがあるようです。

対象は人だけではなく「レースカーらしさ」や「ホテルらしさ」などという使われ方もあります。


これを辞書的に解釈してみると、「いかにも〇〇にふさわしい様」とでもなるのではないでしょうか。

〇〇としての特徴を明らかに備えていることが分かることだと思われます。


日本語らしさと言った時には、日本語の特徴がよく現れている様を指すことになります。

この時の日本語の特徴は日本語だけの世界にいたのでは特徴として感じることができないものとなっています。

特徴が特徴であるためには比較できる対象が必要になります。


つまりは、日本語らしさと言う場合には暗黙の了解のうちに「何に比べて」という比較の対象が存在していることになります。

具体的な比較の対象が目の前になくとも、「これは日本語らしいね」と言った場合には一般的に使われている日本語と比較して特に日本語としての特徴が際立っていることを示していると思われます。


この時に、明確な具体的比較の対象を示していない場合においては一人ひとりが思い描く比較の対象が異なってくることになります。

二つの表現を並べて「どちらがより日本語らしさがあると思いますか?」ということになれば具体的な比較の対象が明確になります。

その場合であっても、より日本語らしさを感じる方が人によって異なっていることもあるのではないでしょうか。


「〇〇らしさ」は完全な個人的な感覚・感想であり、客観的な基準にはなり得ないことになります。

それは、もともとの〇〇に対して持っている特徴としての感覚が一人ひとり異なっていることによります。

特徴というよりも〇〇に対してのイメージということの方が合っているかもしれません。


〇〇に対して感じている特徴やイメージは〇〇だけを対象にしている場合には持つことができないものです。

何かの特性や特徴をとらえようとするときには必ず比較するための対象が必要になります。

特徴を見つけることは違いを見つけることです。

比較対象とするものとの違いが〇〇の特徴として扱われるものとなります。


一般的に「日本語らしさ」と言った場合には、同じ日本語表現の中でもより日本語としての特徴を表しているものという感覚であり、比較対象は日本語同士である場合が多いと思われます。

つまりは、多くの日本語表現の中から微妙に異なる点を見つけることができて、自分の感じている日本語としての特徴をよりよく表していると判断できる場合に使われることになります。


具体的な比較の対象とそこにおける相違点が共有できない限りは、どこまで行っても「らしさ」については個人的な感覚を越えることはないことになります。

「〇〇らしい」が共有できる場合には、〇〇に対しての特徴のイメージが共有できている場合に限られることになります。

さらに、このイメージも細かな点にまで焦点を当てていくと一人ひとりズレていくことになります。

結果として、明確な比較の対象がそこに存在していない限りは「〇〇らしさ」とは漠然とした内容とならざるを得ないことになります。


さらに、この「らしさ」は自分が感じているイメージであることがほとんどですので、自分自身ですら明確に表現して伝えることができないものでもあります。

多くの人が共通して持っているイメージを指してステレオタイプということがありますが、比較対象が明確になっていないために伝わりにくいものでもあります。


例えば、アメリカ人が抱く日本人像というものがあります。

これは、アメリカ人が抱いているアメリカ人像や人間像と比較した場合に初めて存在できるものであり、単独の日本人像として存在しているわけではありません。

更には、一人ひとりのアメリカ人が同じ像を描いているわけでもありません。

一般的なアメリカ人と言われる人たちが描いている日本人像の共通性によったものとなっていることになります。


「日本語らしさ」に触れるためには「日本語」についての特徴をイメージできていなければなりません。

それも一人ひとり大きく異なっているものとなっています。


英語と沖縄の琉球語を比べた時に琉球語の方に「日本語らしさ」を感じることがあっても、一般的に口にする「日本語らしさ」とはなっていないのではないでしょうか。

会社の企画書と源氏物語を比べた時にどちらに「日本語らしさ」を感じるのでしょうか。

日本語が持っている特徴は比較対象によって大きく変わってきます。

そして比較対象はあらゆるものを持ってくることが可能です。


他の言語では日本語の「らしさ」に当たるのはどんな表現があるのでしょうね。

わたしの英語力ではすぐには思い浮かびません。

もしかしたら、それこそ日本語らしい独特の感覚による表現なのかもしれないですね。