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2015年6月26日金曜日

説得するための日本語

昨日は、”説得しない日本語”と題して日本語の本来持っている感覚からすると説得することに向かない言語であることを述べてきました。
(参照:説得しない日本語

タイトルが優しすぎたかなのと思っています、”説得できない日本語”くらいの方が印象が良かったかもしれません。


日本語が本来持っている感覚は相手を理解しようとする感覚であって、自分から説得したり意見を述べるような感覚ではありません。

それは、生活環境がもたらした文化と人や自然との関わり方から来ているものだと思われます。

この言語があったからこの感覚ができあがったというものではなくて、生活環境の方が言語の使い方の感覚を決めていったのだと思われます。


しかし、何もわからない子供たちは初めて触れる言語の感覚に大きく影響を受けることになります。

そして、言語の持っている感覚と現実の生活における感覚が近いほど安心感を持ってその感覚を磨いていくことになります。

ところが、明治以降の日本の社会は欧米型言語文化に追いつけ追い越せで模倣をしてきました。

あらゆることに彼らの文化や技術を取り込んできました。


政治の体制から国の機能や教育、一般社会の構造までもがすべて欧米型言語文化の模倣となっていったのです。

そのためには言語そのものもそうですし言語感覚が異なりますので、同じ言葉であっても理解のされ方が異なっていきます。

日本語として融和したものもあれば、言葉自体が受け入れられないものもありました。


しかし、環境適応力に優れた日本語環境においては、知らないものを知らないまま受け入れて取り込んでいくことができたのです。

論理や主張よりもやってみることによって経験値を上げていったのです。

これは太平洋戦争以後もおなじようなことになります。


結果としての出来上がったもののクウォリティは、オリジナルを上回るほどのものとなっていったのです。

そこまで来て初めて日本語が持っている本来の感覚を生かすことが可能になりました。

世界標準に達しなければ、独自の感覚は受け入れてもらえる状況ではなかったのです。


経済発展によって、世界の一流国の仲間入りをした日本は、現在ではその独自の文化や感覚によって、今までとは違った分野での一流国になるべき状況にあるのではないでしょうか。

一流国とは、独自の文化や感覚によって地球のあるべき姿に向かって世界を技術的にも指導することができる国のことだと思っています。

そういった観点から言えば、日本という国よりもずっと先に一部の日本人が行き着いているということができるのではないのでしょうか。


2000年以降のノーベル賞の自然科学分野における日本人の活躍と評価は、ヨーロッパ全体の受賞者よりも多い受賞を出しているということで明らかなのではないでしょうか。

文学賞、平和賞、+経済学賞では時の世界情勢が大きく反映されており恣意性を感じることしばしばですが、自然科学の三分野(物理学、化学、医学生理学)においては明確な客観的な評価と言えるのではないでしょうか。


その受賞者のほとんどが、手法としては極めて日本人らしいアプローチに依っていることが見て取れます。

評価の対象となるのは論文ですので、それもオリジナル性の高い原著論文が中心となります。
(参照:原著論文と日本語

日本語で書いても役に立ちませんので、当然英語で書くことになります。


彼らの英語が、私たち日本人にとってもわかり易いのは日本語と英語の両方の特徴を備えた英語となっているからです。

日本人の中で一番説得力のあるのが彼らということになります。

主張と論理性という、欧米型言語の感覚の基本をとらえたうえで、日本語感覚の思考を展開しているのです。


最近では、文科系を選ぶ学生よりも理科系を選ぶ学生の方が増えています。

将来を考えた時には、大学における文化系の役割がどんどん減ってきていると思われます。

純粋な文科系は文学を含めて日本語の継承発展のためには大変貢献しますが、商売として成り立つ人はほとんどいないでしょう。


法学系は、法曹関係に進まない限り専門的に学んだところで実社会ではほとんど役に立ちません。

法学系を卒業した人のいったい何パーセントが法曹関係の職についているでしょうか。

ほとんど社会性のない学部となっているのではないでしょうか。


専門学部のない大学が注目を浴びています。

4年間のほとんどを教養課程として過ごして社会ですぐに役に立つ状態にして卒業させるからです。

不必要な余分な専門知識や特殊な分野を切り捨てた、実社会への貢献度の高い大学だと評価されています。


英語を学んで日本語に生かす。

どの様に英語を学ぶのかが問われているのではないでしょうか。

世界の共通語としての英語はもちろん必要ですが、その英語で日本語の独自の感覚を表わす必要があるのです。


ノーベル賞受賞者の英語によるスピーチは、いかに日本語の感覚が満ち溢れていることでしょうか。

それは、とことんまで日本語による思考を繰り返し、日本語による知的活動を高いレベルで繰り返したからこそ使いこなしている英語でもあると思います。

見事に論理性と主張にあふれていながら、日本語感覚にあふれたものでした。


説得するための日本語は、英語に学ぶところがたくさんあります。

そもそも日本語は説得には向かないのですから、説得に強い英語から学ぶに越したことはないのです。

英語の論理性の中心となっている技術はパラグラフです。


日本語にすると段落となりますが、この段落を軽視しすぎるきらいがあります。

日本語で段落だけを意識しても上手くいきません。

英語の文の構造が、パラグラフの技術にうまく合うようにできているのです。

英語の言語としての感覚に、文の構造とパラグラフの技術が組み合わさった時に、最高の論文が出来上がります。


英語の感覚を日本語で表現することは出来ませんが、日本語を論理的に説得性を持って使いこなすことは出来ます。

そのために学ぶ英語はとてもいい教材と言えるでしょう。


論理性よりも感情によって動かされることが日本語の感覚です。

日本語だけで生きていくことはもはや不可能であると思います。

日本語であっても、論理性が必要になっています。

論理による説得や主張をもっと使いこなせる必要がありそうですね。




2015年6月9日火曜日

外国語として書け

私の尊敬する先生に木下是男先生がいます。

「理科系の作文技術」を書かれた方です。

理科系の表現物のなかで、最終的な目的は新しい発見や研究結果を発表する原著論文になります。


原著論文の性格は以前にも触れたことがありますが、正確さと論理性です。
(参照:原著論文と日本語

そこで重視されるのは必要なことを最大漏らさず表現することであり、日常使用の日本語とは異なった技術が必要であるとされています。

読み進めていくと、小説とは対極にある厳格な表現と論理性が求められていることがよく分かります。


先生は、はっきりと外国語で表現するように書くと言っています。

つまり、日本語がもっている基本的な感覚のままに書いてしまっては、求めている効果を達成することができないということになります。


正確さと論理性については、文章全体ではもちろんのことですが、一つひとつの文や使用する言葉・段落にまで及んできます。

正確さについては、漏れのないこと以上に間違った理解をされることに注意を払います。

表現として足りないものについては、正確さに欠けることはあったとしても主旨が誤解されることはそれほどありません。


しかし、論理性については一つ間違えると誤解されてしまうことが起きます。

一つひとつの文や言葉は勿論のこと、段落の構成が大事であると指摘されます。


日本語はもともと段落という感覚のなかった言語です。

話し言葉においては、一息置いたりして区切りをつけることは可能でしたが、文章としての表現においては段落という概念を持っていませんでした。

ひらがな文学が全盛を迎えたころの源氏物語を中心とした長編ものでも、短歌や長歌の和歌のリズムを基本とした七五調が中心であり、「巻」という区分はありましたが、段落というものは見当たりません。


恐らくは、長い文章で何かを伝えることよりも、形式として決まった歌の形で伝えることの方が一般的であったのではないでしょうか。

連歌のように歌をつないで話をつないでいく技術はあったようですが、長い文章で何かを伝えるための技術はあまり発展してかなかったと思われます。

明治以降に外国の書物に触れることが多くなり、句読点や横書きとともにパラグラフ(段落)の技術が広まったものと思われます。


パラグラフによる論理の展開に慣れていないのは仕方のないことかもしれません。

日本語の持っている表現力の特徴は、短い文(型の決まった文)において情景と心情を合わせて表現するものだと思われます。

そのために、短い言葉に中にいろいろな意味を込める技術を磨いてきました。


掛詞や本歌取りなどは、一つの言葉から連想されるもの大きさは読み手の感性にゆだねられているとはいえ、詠み手の感覚に近づかないと理解できないものとなっています。

歌が詠まれたときの環境や心情を推し量ることでしか理解することができないものとなっており、通り一遍の決まりきった解釈はあるもののそれ以外の解釈も存在するものとなっています。


「外国語として書け」を言い換えると、パラグラフによる論理構成をしっかりしろということではないでしょうか。

日本語の特徴として、たくさんの修飾語がだらだらと続けることができるために、修飾と被修飾の関係が分かりにくくなることによる曖昧さがあります。

これが正確さを表現しようとするときには障害になります。


このことは、一つの文においては語順とも大いに関係のあることです。

日本語においては、様々な修飾語が並んだあとに述語が登場してきます。

いくらでも修飾語を並べることもできます。

このことが正確さを阻害いしているのですが、このことが文章全体にも影響しているのではないでしょうか。


段落同士の関係が文章全体における修飾語と被修飾語の関係にあると思われます。

沢山の修飾語(段落)が並んでも平気なのが日本語ですので、文章全体においても段落同士の関係が明確になりにくいと思われます。

登場する順番に段落を理解していけばいいとは限りません。

それによって段落を利用しての論理展開が分かりにくくなってしまうのです。


起承転結、序破急などといった文章の展開術はありますが、いずれも一番重要なことが最後に来るようになっています。

結論に行き着くまでの道を楽しむようにできているのではないかと思われます。

まさしく小説向きの構図と言えないでしょうか。


外国語の、重要な要素から順番に登場してくる文やパラグラフとは正反対ともいうことができます。

言語としては日本語を使っても、文章の構図としては外国語のように書けというのが木下先生の言いたいことだと思います。

コミュニケーションのツールとして英語を学ぶことも必要だと思いますが、そこで展開されている論理や正確性を学ぶことの方がさらに役にたちそうです。


言語によって、持っている特徴があります。

日本語は世界でも日本でしか通用しない言語です。

それだけに、他の言語と比べた時にどの様に映るのかということは気にしておく必要があると思います。


世界の共通語としての英語との違いは、しっかりと理解しておく必要があると思います。

日本語の感覚を持って通訳をする人がいると、どうしても優しくて意志の弱い英語になってしまいます。

日本語での表現そのもので、外国語(英語)の感覚の表現をする必要があるのです。


そんなこともできてしまうのですから、日本語はとんでもなく大きな言語ということもできするのでしょうね。



2015年5月29日金曜日

パラグラフという感覚

パラグラフ(paragraph)という言葉は聞いたことがあると思います。

日本語としては「段落」として訳されているものになります。


もともとの日本語にはなかった概念であり技術です。

明治になって取り込んだ、外国語の技術です。

句読点の使い方においても、明治期の後半に文部省で基準が作られたものであり、江戸後期にはほとんど見ることができません。

やはり、明治期より数多く入ってきた外国語の表現技術に倣ったものと言えるのではないでしょうか。


それ以前に日本にあった文章の書き分けの技術は、分かち書きと言われる空間を利用した表現方法ではないでしょうか。

ひと筆書きとして文字を続けることができる縦書きの日本語は、続き文字の切れ目で文節や意味の切れ目を表現する技術を持っていました。

一つの意味として読ませたいものについては、空間を開けることなくひと筆で書くことによって読むための助けとしてきました。


英語の義務教育においては、日本と比較してはるかに多くの時間を表現技術のために割かれています。

日本語は、あまりも多い言葉と豊かすぎる表現のために理解すること自体がとても難しいものとなっています。

そのために、義務教育においては言語を理解するための読解の時間が中心となり表現技術・言語技術を習得するための時間がほとんどありません。

国語の試験として行なわれるものも読解と書き取りが中心となっているのはそのためです。


明治期に入ってきた外国語のパラグラフの技術を表面的には取り込むことができましたが、本来持っている効果として生かすことができていないのが現実です。

段落として、行を改め一文字下げることは誰でもが使うことができる技術なっています。

句読点の技術と一緒になることによって、文章としての日本語は見違えるほど読みやすいものとなりました。

しかし、そこで行われている行為はなんとなく行なわれていることが多く、明確な意図を持って句読点(特に読点)や段落が使用されているものを見ることはあまりありません。

書くことを本職としている人たちの文章においても、なかなか見ることができないのが現実ではないでしょうか。


内容にかかわらず、多くの文章が物語的なあるいは随筆的なものとなっているのは、まさしく日本語の持っている性格によるものではないでしょうか。

日本語の文章は長編ものには向かいないと言われることが多いのも、このあたりの技術によるものだとおもわれます。


英語の義務教育で行われるパラグラフの基本技術は、一パラグラフに一トピックを原則とします。

パラグラフの最初にそのパラグラフの要約(主題)を置くことも指導されます。

さらには、パラグラフ同士の関係によって論理を構成していくことを学びます。

結果として、一度述べたトピックは他のパラグラフでは扱わないことなどが、論理を明確にし説得するための技術として指導されます。


特に重視されているのが、事実と意見の書き分けです。

同じパラグラフには、事実の表記と意見表記が同居しないことが徹底指導されます。

パラグラフの先頭を見ただけで、事実を述べているのか意見を述べているのかが分からなければなりません。

各パラグラフの先頭だけを読みとばしても、全他の要約となっていて内容や論旨が分からなければならないのです。


一つの文だけでなくパラグラフや文章全体においてさえも、重要な要素が先頭から順番に直列的に展開されていくのが英語の表現技術となっているのです。

明確な論理の展開には、明確な意見の主張と明確な事実のエビデンス(検証)が必要です。

その一つずつの要素がパラグラフとしての塊になっているのです。


説得する対象によって調整するのは、相手に合わせた文としての表現とパラグラフのわかり易さです。

相手を説得するのには、どのパラグラフを先に持ってきたらより説得力を発揮できるのかということになります。

基本的な論理を変えることはありません。


日本語は英語に比べると、文学的な表現を楽しむことに向いている言語です。

一つの言葉に様々な意味を持たせたり、同じことを表すのに作者にの個性がにじみ出るような表現をしたりすることができる言語です。

言い換えれば、言葉を楽しむために適した言語と言えるのではないでしょうか。


直接的な明確な表現を敢えて避けることによって、読者の持っている理解力によって独自の解釈をされることを許す言語となっています。

作者の手を離れて読者の解釈に出会った時にはじめて作品として成り立つ、言語を介しての想像力の共作ということもできるのではないでしょうか。


その日本語の性格を知ったうえで、正確さや論理性あるいは説得力を必要とする場面においては、英語の技術をうまく使いこなしたいものです。

そのために一番役立つのがパラグラフの使い方ではないでしょうか。


英語は世界の共通語としての役割をますます強めています。

日本人であっても英語抜きの生活は考えられない環境となっています。

英語の技術を生かした日本語表現は、英語として表現するときにも大いに役に立つものです。


今の時代においては、伝わらないことよりも間違って伝わることの方が弊害が多くなっています。

パラグラフを意識してパラグラフで論理を組み立てることで、かなりのことが解消されるのではないでしょうか。

形式的に使っていた段落からパラグラフを使いこなすことへシフトしてみませんか。