私の尊敬する先生に木下是男先生がいます。
「理科系の作文技術」を書かれた方です。
理科系の表現物のなかで、最終的な目的は新しい発見や研究結果を発表する原著論文になります。
原著論文の性格は以前にも触れたことがありますが、正確さと論理性です。
(参照:原著論文と日本語)
そこで重視されるのは必要なことを最大漏らさず表現することであり、日常使用の日本語とは異なった技術が必要であるとされています。
読み進めていくと、小説とは対極にある厳格な表現と論理性が求められていることがよく分かります。
先生は、はっきりと外国語で表現するように書くと言っています。
つまり、日本語がもっている基本的な感覚のままに書いてしまっては、求めている効果を達成することができないということになります。
正確さと論理性については、文章全体ではもちろんのことですが、一つひとつの文や使用する言葉・段落にまで及んできます。
正確さについては、漏れのないこと以上に間違った理解をされることに注意を払います。
表現として足りないものについては、正確さに欠けることはあったとしても主旨が誤解されることはそれほどありません。
しかし、論理性については一つ間違えると誤解されてしまうことが起きます。
一つひとつの文や言葉は勿論のこと、段落の構成が大事であると指摘されます。
日本語はもともと段落という感覚のなかった言語です。
話し言葉においては、一息置いたりして区切りをつけることは可能でしたが、文章としての表現においては段落という概念を持っていませんでした。
ひらがな文学が全盛を迎えたころの源氏物語を中心とした長編ものでも、短歌や長歌の和歌のリズムを基本とした七五調が中心であり、「巻」という区分はありましたが、段落というものは見当たりません。
恐らくは、長い文章で何かを伝えることよりも、形式として決まった歌の形で伝えることの方が一般的であったのではないでしょうか。
連歌のように歌をつないで話をつないでいく技術はあったようですが、長い文章で何かを伝えるための技術はあまり発展してかなかったと思われます。
明治以降に外国の書物に触れることが多くなり、句読点や横書きとともにパラグラフ(段落)の技術が広まったものと思われます。
パラグラフによる論理の展開に慣れていないのは仕方のないことかもしれません。
日本語の持っている表現力の特徴は、短い文(型の決まった文)において情景と心情を合わせて表現するものだと思われます。
そのために、短い言葉に中にいろいろな意味を込める技術を磨いてきました。
掛詞や本歌取りなどは、一つの言葉から連想されるもの大きさは読み手の感性にゆだねられているとはいえ、詠み手の感覚に近づかないと理解できないものとなっています。
歌が詠まれたときの環境や心情を推し量ることでしか理解することができないものとなっており、通り一遍の決まりきった解釈はあるもののそれ以外の解釈も存在するものとなっています。
「外国語として書け」を言い換えると、パラグラフによる論理構成をしっかりしろということではないでしょうか。
日本語の特徴として、たくさんの修飾語がだらだらと続けることができるために、修飾と被修飾の関係が分かりにくくなることによる曖昧さがあります。
これが正確さを表現しようとするときには障害になります。
このことは、一つの文においては語順とも大いに関係のあることです。
日本語においては、様々な修飾語が並んだあとに述語が登場してきます。
いくらでも修飾語を並べることもできます。
このことが正確さを阻害いしているのですが、このことが文章全体にも影響しているのではないでしょうか。
段落同士の関係が文章全体における修飾語と被修飾語の関係にあると思われます。
沢山の修飾語(段落)が並んでも平気なのが日本語ですので、文章全体においても段落同士の関係が明確になりにくいと思われます。
登場する順番に段落を理解していけばいいとは限りません。
それによって段落を利用しての論理展開が分かりにくくなってしまうのです。
起承転結、序破急などといった文章の展開術はありますが、いずれも一番重要なことが最後に来るようになっています。
結論に行き着くまでの道を楽しむようにできているのではないかと思われます。
まさしく小説向きの構図と言えないでしょうか。
外国語の、重要な要素から順番に登場してくる文やパラグラフとは正反対ともいうことができます。
言語としては日本語を使っても、文章の構図としては外国語のように書けというのが木下先生の言いたいことだと思います。
コミュニケーションのツールとして英語を学ぶことも必要だと思いますが、そこで展開されている論理や正確性を学ぶことの方がさらに役にたちそうです。
言語によって、持っている特徴があります。
日本語は世界でも日本でしか通用しない言語です。
それだけに、他の言語と比べた時にどの様に映るのかということは気にしておく必要があると思います。
世界の共通語としての英語との違いは、しっかりと理解しておく必要があると思います。
日本語の感覚を持って通訳をする人がいると、どうしても優しくて意志の弱い英語になってしまいます。
日本語での表現そのもので、外国語(英語)の感覚の表現をする必要があるのです。
そんなこともできてしまうのですから、日本語はとんでもなく大きな言語ということもできするのでしょうね。