同じ日本語であっても、一人ひとりが持っている日本語には微妙な違いあることについては、日々の生活の中で感じることがあるのではないでしょうか。
この違いはどこから来ているのでしょうか。
人が持っている言語は大きく三つの言語からできています。
一つは、幼児期に最初の言葉として、主に母親から受け継ぐ伝承語としての母語です。
母親という個人の言語がもとになっていますので、かなり個人的な言語となっています。
この母語をより効率よく聞き取り、使いこなせるようになるために脳を初めとするあらゆる器官が発達していきます。
二つ目が、義務教育で習得してく、知識や社会の基本的なルールを身につけるための学習言語である国語です。
人として一番基礎になる知識やルールですので、みんなが同じ解釈をできなければ困ります。
その理解をするための言語ですので、意味や使い方に個性があってはルールになりません。
全ての人がみんな同じ解釈ができるようにルールによって定められた言語が国語になります。
三番目が、社会生活を営む場面や社会人として活動する環境において、使用されているその環境独特の言語です。
専門用語や業界用語に代表される、限られた環境において使用される環境言語としての生活語です。
それぞれの人の生活環境によって、必要となる生活語が異なってきます。
異なった環境においては全く通用しなかったり、違った解釈がされたりするものとなります。
母語はすべての人にとっての基礎言語ですが、具体的な言語の形としては国語を習得した以降はほとんど日常生活において顔を出すことがありません。
しかし、他の言語習得のための基礎言語なっている言語でもあり、知的活動の機能を作り上げるための基礎でもありますので、あらゆる場面で言語の感覚として存在していることになります。
意味や用法として同じ言語である国語をあれだけ習得しても、言語に対しての個性が存在しているのは母語の影響によるものだと言われています。
個人で持っているこれら三つの言語は、明確に区別されて存在しているわけではありません。
使っている本人ですら、それぞれの言語を意識して使うことはないと思います。
この三つの言語のなかで、誰もが同じ解釈が可能なものは国語だけです。
分類としては同じ日本語であっても、国語以外の母語や生活語については一人ひとり微妙に解釈が異なるものなっています。
社会生活が長くなると、生活語の割合が増えていきます。
ましてや、専門分野や一般社会生活と距離のある研究分野などで活動をしていると、知らない間に一般社会の言語から離れていくことになります。
専門家と言われるような人たちは、専門分野における特殊な言語をたくさん持っていることに他ならないのです。
同じ専門分野で活動していれば、共通言語として同じような解釈ができるものであっても、分野が異なったりすると全く違った解釈がされることが多くなります。
しかも、その分野で活動している以上は、どんどん専門性を高めようとしますので生活語はますます割合を多くしていくことになります。
自分でも気がつかないうちに、いわゆる一般的な場面では理解しにくい言葉や表現を日常的に使うようになっていってしまうのです。
これは、人前で話をしてみるととてもよく分かります。
とくに、世代の離れた人たちに話をしてみると、そのリアクションによっていかに伝わっていないかがよく分かります。
人によっては、受け取る側の能力が低いとか、理解度が悪いとかという評価をすることすらあります。
人に何かを伝えて理解してもらうのは、伝える側の責任です。
伝える側が受け取る側にとって理解できるものにして伝えなければなりません。
同じ日本語のなのに、意味が分からなかったり違った解釈をされたりしているものがいかに多いかは少し調べてみればすぐにわかることです。
フランス語のネイティブ同士の会話を理解しようとすると、2,000語のフランス語を知っていれば90%の理解が可能だそうです。
英語の場合は、同じく3,000語の英語で90%の理解が可能だと言われています。
どちらも、きちんと聞き取ることができることが条件とはなりますが、それだけの言葉が聞き取れればほとんど共通理解ができるようです。
ところが、日本語の場合は同じ条件であっても、10,000語の日本語が分かっていないと90%の理解はできないと言われています。
それだけ語彙も多ければ表現方法も多彩だということだと思います。
つまりは、日本語同士の会話であってもかなり理解できていないことがあるということになります。
日本語で伝えるための、日本語のなかでの共通理解のための言語が必要となっているのです。
ルールに沿ったみんなが同じ理解が可能な日本語は、国語だけです。
一般的に、正しい日本語と言われているものは、国語のルールに沿ったものであるかどうかということではないでしょうか。
日本語そのものには、正しいも正しくないもないのですから。
しかし、実際に使っている言葉や用法が国語のルールにかなっているものなのか、国語に定められた言葉なのかを確認することは大変なことです。
そのために、国語を習得した日本人であれば誰でもが理解できる表現があります。
「ひらがな」が日本語の魔法の共通語なのです。
話し言葉としての音は、すべてがひらがなの音として受け取ることになります。
文字はたくさんありますが、日本語の音はひらがなの音だけです。
ひらがなの基本音である清音(五十音表にある濁ったり撥ねたりしないもの)は五十音表にある四十六音だけです。
それ以外の音もすべて清音からの展開で理解することができますが、すべての音を入れても150音程度ではないでしょうか。
世界の言語の中でも音の数では圧倒的に少ない方です。
「ひらがな」は国語の基本中の基本です。
さすがにこれだけでは恥かしい場面も出てくると思います。
文字を含めて、次に使用するのが漢字を使った場合の訓読みです。
音としてはすべてひらがなの音でありながら、漢字の意味が分かるものです。
漢字が思い浮かばなくとも、同じ解釈ができるものです。
使いたくないものが、漢字の音読みアルファベットです。
音読み漢字は、同音異義語が沢山あり話し言葉としては誤解を生むもととなります。
アルファベットは、日本語に解釈したときに誤解を生むもととなります。
つまりは、話し言葉であろうとも文字を伴ったとしても、ひらがなと訓読み漢字で伝えるという技術を身につける必要があることになります。
この表現は、日本語を母語として持つ人に対してはほとんど同じ解釈を可能にする表現方法なのです。
ましてや、自分の専門外の人やどんな環境で生活しているのかが事前に把握できていない場面などで理解を求める時には、絶対的な力を発揮する表現です。
それでも、思わず音読み漢字の熟語などを使ってしまうことがあると思います。
その時は、もう一度、ひらがなと訓読み漢字で置きなおしてみることをすればいいのです。
この置き直しは、思わぬ効果があります。
元の言葉を自分が本当に理解しているのかどうかが、一発で分かるからです。
ひらがなと訓読み漢字で置き換えができない言葉は、自分自身で理解ができていない言葉なのです。
だから人に説明するときに、ひらがなと訓読み漢字で表現できないのです。
この、「ひらがな+訓読み漢字」での表現のことを「現代やまとことば」と読んでいます。
昔から言われていることがありますね。
難しいことを難しく伝えるのは誰でもできる、難しいことをわかり易く伝えることが本当に理解している人のすることだ。
優しいことを難しく伝えるのは、専門家のふりをした馬鹿でしかない。
後半は、うちの親が作ったものかもしれませんが、まさしくそのものだと思います。
いろいろな場面で役に立ちますよ、「現代やまとことば」。
少し意識して使ってみませんか。
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