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2015年12月25日金曜日

伝わる話し方、伝える話し方


「伝わる話し方」「伝える話し方」

この二つの違いは分かりにくいですよね。

違いはたった一つのひらがな「わ」と「え」なのですが、ここで言っている内容は全く違うことを言っているのです。


こんな表現も日本語の特徴の一つです。

同じような表現で微妙に違うものを二つ並べることによって、その違いに注意を向けさせてささやかな違いであっても際立たせようとする表現技術です。

何かを対比させるときにとても有効な技術なのですが、表現が似ているだけにその違いを正確に理解していないと誤解されることも多い表現でもあります。


一般的には、良く使われている表現とそれを少し変えてひねった表現とを組み合わせることがあります。

これも日本語の独特の使い方の部類に入ると思われます。


他の言語であれば、対比する言葉自体が全く違うものであったり、明確に否定語が含まれていたりすることによって音声的にも文字的にも区別がつきやすいものとなっています。

ところが、日本語においては敢えて似たような音や文字を使うことによってほんの一部のひらがなの違いなどで表現する技巧をより高く評価する傾向になります。

このあたりの技巧を言語遊びとして競ったものが落ち話(落語)や掛詞、謎かけなどとして伝承されていると思われます。

諺にもこの手のものが多く含まれていることは分かるのではないでしょうか。


さて、「伝わる」と「伝える」の違いはどこにあるでしょうか。

それは話し手の意思の込め方の違いとして表現されていることだと思われます。

たった一つのひらがなの使い方によって話し方の本質にかかわる違いを表現していることになると思われます。


「伝わる」は、「伝える」に比べると話し手の意志が込められている状況があまり感じられない表現として受け取れるのではないでしょうか。

これは同じような二つの言葉が並んでいることによってその違いに注意が向けられて行くことでささやかな違いであっても強調されることによって起きていることです。

試しに、それぞれの言葉を一つずつ独立して使用している場面においては話し手の意思の込め方について注意が向くようなことはほとんどないと思われます。


二つの言葉が並ぶことによってその違いが強調されて、あらためて一つずつの言葉や使い方に目が行くことになります。

それをたったひらがな一文字で行なうことができる言語は、日本語しかないと思われます。


「伝わる」は「伝える」と対比することによって、話し手の意思とは無関係に伝わってしまうことを強調して表現していることになります。

「伝わる」という言葉も使われる場面においてはたくさんのニュアンスを持っています。

しかし「伝える」と対比させることによってグッと狭められた範囲における違いを強調するように意識が向けられているのです。


この表現をわかり易く説明する必要があります。

つまりは表現した者による技法の説明が必要になるのです。

「伝わる」と「伝える」を並べることによって何に焦点を当てたかったのかと言うことです。


「伝わる話し方、伝える話し方」は話し手が意識をしなくとも伝わってしまう話し方と伝えたい大切なものをきちんと伝えるための話し方について区別をする意図で使用されていることになります。

単に大切なものをきちんと正確に伝えるための話し方について表現するよりも、対比としての勝手に伝わってしまう話し方との比較によってその特徴を際立たせようとする極めて高度な表現技法ということができます。


日常的にはこのような高度な表現技法をいとも簡単に意識せずに使っているかと思えば、助詞や語尾変化のひらがなの使い方で意味が分からなくなってしまう言葉もたくさん使われています。

しかも、それが同じ人のなかで行なわれていることが聞いている方にとっては理解をすることが難しくなる大きな要因となっているのです。


話し手の意図とは異なって勝手に伝わって理解されている内容については、話し手側で確認することはとても難しいことになります。

勝手に理解されても構わない内容であればよいということではなく、どれが勝手に伝わってどれが精度を持って伝わっているのかが分からないことが問題となります。

一人ひとりが同じ言葉に対して持っている理解が異なっていることが当たり前な上に、そこで解釈されることまでもが勝手になってしまうと、話し手の意図はほとんど伝わっていないことになってしまいます。


実際に意図はほとんど伝わっていないのです。

とくにある程度の年齢になってくると同じ言葉に対しても一人ひとりの持ってい理解の幅が大きくなっているうえに、その中でも使用されている解釈が自分のなかで勝手に絞られていることが多くなっています。

試しに、少し長い話を聞いてもらってから話し手の意図を確認してみるとほとんどの人が違った理解をしていることがよく分かると思います。

もちろん、話している内容を誤解することもありますが、ほとんどの場合は話の内容は同じように理解されているのに話し手の意図を取り間違えている場合がほとんどです。


これは、聞き手の問題ではなく完全に話し手側の問題となります。

「伝える話し方」は言語の表現技術の最高峰になるのではないでしょうか。

言語以外に様々な手法で補う方法も流行ってはいますが、基本は言語による表現技術になります。


自分では「伝える話し方」をしているつもりが、実際には「伝わる話し方」になっていることがほとんどではないでしょうか。

話し手の意図を100%伝えることは不可能です。

それは言語に限らずどんな方法を採っても不可能です。


そのなかで、本当に伝えたことをいかに正確に伝えることができるのかが言語技術になります。

既に気づいていると思います。

どんなに頑張って「伝える話し方」をしてもその理解は一人ひとり異なるということです。

聞いている人みんなに同じ伝わり方は絶対にしないということです。


たった一人にできるだけ意図を伝えようと思ったら自分の伝えたいことを相手の言葉に置き換えていかなければいけません。

一人ひとり言葉の理解が違うのに同じ理解などできることなどありえないのです。

伝えるためには自分の言葉を捨てることが大事になります。

相手の持っている言葉とその理解を利用するしかないのです。


絶対的な「伝える話し方」は存在しないことになります。

私たちは「伝わる話し方」しかできないことになります。

その中で、何とか意図を理解してもらうための言語技術を磨いているのですね。



2014年4月12日土曜日

うまく話すことの弊害

うまく話したくてプレゼンテーションやテクニックを学ぶ人がいます。

うまく話すことは、相手に分かってもらいことを目的としていると思われますが、今日では話すことがパフォーマンスとして伝わっているかどうかと関係なく扱われることもあります。

見せるための話し方テクニックなどに人気が集まっているようです。



理路整然とした適切な表現による話は、聞いていて理解しやすいものとなっています。

それだけに聞くことに集中してなくとも、聞きやすく理解しやすいものでもあります。

しかし、そのように整理されてうまく話された内容は、わかりやすいのですがなぜかすぐ忘れてしまいます。

面白おかしく話す場面もありますが、話そのものが小さな劇のように感じられてしまい、話し手が演者に見えてしまいます。

上手に話をされればされるほど、遠くに感じてしまうのはなぜでしょうか。


反対に滑舌が悪かったり、方言であったりして受け取る側が聞き逃してしまうとわかりにくくなってしなうような話は、集中して聞いていないと理解しにくいものです。

とてもではないですがうまく話しているとは言えませんので、話の流れについても使われる言葉についても注意が必要です。

しかし、借りてきた言葉や飾った言葉ではないために、よく伝わってきます。


さらに、話して本人が自分で話がうまくないことを知っていますので、一生懸命に伝えようとして話してくれます。

すると、多少の聞き取りにくさや言葉の選び方の悪さとは関係なく、思いとして伝わってくるものがあります。

この伝わり方は、上手に話している人の伝わり方とは全く異質の伝わり方です。



もちろん話している内容も大切です。

自分の今興味のある内容であれば、話し手のうまい下手にかかわらず聞く姿勢が初めからありますのでそれなりに伝わってきます。

自分の今興味から離れた内容については、話のうまい人の場合はほとんど伝わってこなくなります。

反対に、話の苦手な人が訥々と一生懸命に語っている内容はどうしても聞きにいってしまいます。


話しは適度に下手なほうが聞いてもらえるようです。

わかりにくくない程度に下手なほうが、一生懸命に聞こうとする姿勢を呼びこんでくるように思います。


話し上手は、確かに理解しやすいですが、話の内容があまり残りません。

聞き手の方が理解しようとする努力をすることなしに、そのまま受け止められますので緊張感を持たずにさらさらと流れていってしまいます。

話し下手は、一生懸命に伝えようとする思いがある限り聞き手の方が理解しようと努めてくれます。


話し上手は、話のうまさが印象に残ってしまい、内容があまり残りません。

落語を聞いているととてもよくわかります。

録音された話し方のうまい人の落語は、淡々と流れていき物語を聞いているようですが印象に残りません。

決して話し方のうまくない落語家が話しを間違えたりして、汗を流しながら一生懸命やっていた高座はとても印象に残っています。



文章として表現するときには、理路整然としたわかりやすい文章がとても大事になりますが、話して伝える時には決してうまい話し方の方いいとは限らないようですね。

話し慣れていないときに聞いた話はとても印象的だったのに、テレビで頻繁に話を聞くようになったら何とも感じなくなった人がたくさんいます。

伝えようとする一生懸命さも変わってきたのかもしれませんが、話し慣れてきた人に共通のことのように思います。


テクニックよりも思いの方が間違いなく伝わることを体で感じる機会が多かったのがこんなことを思いつかせてくれたのでしょう。

見せ方は大切ですが、話し方については気にしないで思いを伝えることに専念した方がよさそうですね。

どこまで本気で伝えたいと思っているかということになりますね。