うまく話すことは、相手に分かってもらいことを目的としていると思われますが、今日では話すことがパフォーマンスとして伝わっているかどうかと関係なく扱われることもあります。
見せるための話し方テクニックなどに人気が集まっているようです。
理路整然とした適切な表現による話は、聞いていて理解しやすいものとなっています。
それだけに聞くことに集中してなくとも、聞きやすく理解しやすいものでもあります。
しかし、そのように整理されてうまく話された内容は、わかりやすいのですがなぜかすぐ忘れてしまいます。
面白おかしく話す場面もありますが、話そのものが小さな劇のように感じられてしまい、話し手が演者に見えてしまいます。
上手に話をされればされるほど、遠くに感じてしまうのはなぜでしょうか。
反対に滑舌が悪かったり、方言であったりして受け取る側が聞き逃してしまうとわかりにくくなってしなうような話は、集中して聞いていないと理解しにくいものです。
とてもではないですがうまく話しているとは言えませんので、話の流れについても使われる言葉についても注意が必要です。
しかし、借りてきた言葉や飾った言葉ではないために、よく伝わってきます。
さらに、話して本人が自分で話がうまくないことを知っていますので、一生懸命に伝えようとして話してくれます。
すると、多少の聞き取りにくさや言葉の選び方の悪さとは関係なく、思いとして伝わってくるものがあります。
この伝わり方は、上手に話している人の伝わり方とは全く異質の伝わり方です。
もちろん話している内容も大切です。
自分の今興味のある内容であれば、話し手のうまい下手にかかわらず聞く姿勢が初めからありますのでそれなりに伝わってきます。
自分の今興味から離れた内容については、話のうまい人の場合はほとんど伝わってこなくなります。
反対に、話の苦手な人が訥々と一生懸命に語っている内容はどうしても聞きにいってしまいます。
話しは適度に下手なほうが聞いてもらえるようです。
わかりにくくない程度に下手なほうが、一生懸命に聞こうとする姿勢を呼びこんでくるように思います。
話し上手は、確かに理解しやすいですが、話の内容があまり残りません。
聞き手の方が理解しようとする努力をすることなしに、そのまま受け止められますので緊張感を持たずにさらさらと流れていってしまいます。
話し下手は、一生懸命に伝えようとする思いがある限り聞き手の方が理解しようと努めてくれます。
話し上手は、話のうまさが印象に残ってしまい、内容があまり残りません。
落語を聞いているととてもよくわかります。
録音された話し方のうまい人の落語は、淡々と流れていき物語を聞いているようですが印象に残りません。
決して話し方のうまくない落語家が話しを間違えたりして、汗を流しながら一生懸命やっていた高座はとても印象に残っています。
文章として表現するときには、理路整然としたわかりやすい文章がとても大事になりますが、話して伝える時には決してうまい話し方の方いいとは限らないようですね。
話し慣れていないときに聞いた話はとても印象的だったのに、テレビで頻繁に話を聞くようになったら何とも感じなくなった人がたくさんいます。
伝えようとする一生懸命さも変わってきたのかもしれませんが、話し慣れてきた人に共通のことのように思います。
テクニックよりも思いの方が間違いなく伝わることを体で感じる機会が多かったのがこんなことを思いつかせてくれたのでしょう。
見せ方は大切ですが、話し方については気にしないで思いを伝えることに専念した方がよさそうですね。
どこまで本気で伝えたいと思っているかということになりますね。