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2014年4月25日金曜日

人の知的活動と言語の関係について(3)

人の知的活動のための唯一の道具が言語であることを見てきました。

言語の習得の状況や言語の特徴を見ていくことは、そのままその言語を使用する人の知的活動の特徴を見ていくことになります。

一人ひとりの言語は異なっています。

それでも日本語という特徴の中では同じ種類のものということができます。

ひとつずつの言葉に対する解釈や使い方が一人ずつ異なる部分であり、日本語としての他の言から見た特徴については、日本語話者としての共通の特徴を備えているということができると思います。



一人ずつの日本語は微妙に異なりながら、日本語という共通する特徴を持った言語で知的活動を行っていることになります。

同じ言葉であっても一人ずつの解釈が微妙に違っていますので、共通言語が必要になるわけです。

正確さが必要になればなるほど、そのものを限定的に表す言葉や表現が必要になってきます。

品番という表現方法は、そのものを限定的に特定するのにおいて取られる表現方法です。

誰がどんな表現をしようとも、品番ひとつでそのものが正確に限定されてしまうのです。


一般的に日常会話で使用されている言葉では、そこまでの限定をする必要がありません。

しかも同じ言葉を使っていても、その言葉に対する解釈は一人ずつ異なっています。

発信者が意図したことが、発せられた言葉を通じて完全に伝えられることはないと思っていた方が間違いないのではないでしょうか。

勘違い、思い込みなどということは日常的に起きていることなのだと思います。


反対に言語の使い方を上手に行なえば、自分の意図することを正確に伝えることや相手の感情を動かすこともできるのではないでしょうか。

ここからは世界の他の言語、特に英語と比較したときの日本語の特徴を見ていきたいと思います。

言語の特徴から起きている日本独特の言語習得の段階や言語教育についてです。

言語の特徴から来る日本語独特の言語技術などを見ていきながら、日本語の特徴を生かした知的活動へ結び付けていきたいと思っています。


日本語は世界の言語の中でも特に際立った特徴を持った言語であるので、他の言語の系統とはほとんど交わることがありません。

唯一、漢語として導入されったことによって中国語との接点はありますが、その後の言語としての発展は全く独自のものとなっています。

世界でも完全に孤立したとても珍しい言語となっています。


世界の共通語として英語がその地位をほとんど不動のものとしてきました。

英語とのかかわりもどのようにしていったらいいのか、現在小学校5年生から行われている英語教育が3年生にまで引き下げられようとしています。

本当に必要なのでしょうか、そんなことで何を目的としているのでしょうか。


ネイティブ同士の会話の約90%を理解しようとしたときに必要な単語数が調べられたことがあります。

フランス人同士がフランス語で会話している内容を90%以上理解しようとするには、2,000語のフランス語を知っている必要があるとの結果が出ています。

同じようにアメリカ人同士が英語で会話している内容を90%以上理解しようとするには、3,000語の英語を知っていればできるそうです。


さて、日本語ではどうでしょうか。

実験によれば、日本人同士が日本語で会話している内容の90%以上を理解しようとすると、10,000語の日本語を知っていなければできないそうです。


日本語はおそらく現存する言語のなかで、一番複雑で大きな言語だと思われます。

言葉(語彙)がたくさんあります。

文法(構文)は極めてゆるやかで省略や置き換えは当たり前のようにあります。

文字は「ひらがな」「カタナカ」「漢字」「アルファベット」の4種類もの文字を日常的に使いこなしています。

使えるように習得するだけでも、他の言語よりもはるかに長い期間を必要とします。


それだけに反対にこんな言い方もされています。

日本語を習得している者は、他のどんな言語でも比較的簡単に使いこなすことができるようになる。

英語は必要になった時に取り組めばいいだけのものです。

言語は日々新しくなっています。

10年も前の英語を使っても、笑われるだけです。

コミュニケーションのための言語は最新のものを身につけなければ意味がありません。

日本語であっても外人が「拙者、〇〇でそうろう」などと言っていたら「?」となりませんか。

同じことを私たちは英語で平気でやっているわけですね。


日本語は母語としての日本語を持っている日本人である私たちでしか使いこなせないのです。

その私たちたちが英語に傾いてしまったら、せっかくの日本語がすたれていってしまいます。

こんなに素晴らしい言語を劣化させることはあってはならないことだと思います。

少しでも興味を持ってもらえるように発信していきたいと思います。




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2014年4月24日木曜日

人の知的活動と言語の関係について(2)

「人の知的活動」と「言語」という、何とも抽象的な言葉が並んでしまいました。

私がここでお伝えしたい内容について、説明しておきましょう。


「人の知的活動」は人としての物理的な肉体的な活動に対して用いている、思考を中心とした知的な活動のこと全般を指しています。

人には三つの活動があるのではないかと思っています。

肉体的活動、精神的活動、知的活動の三つです。



そして、知的活動はまたさらに三つの活動で成り立っていると考えています。

それは、対象を認知すること、思考すること、表現することの三つです。

認識という言葉は比較対象としての認知よりもさらに深い理解をすることを表していますので、ここでは対象をまず確認し知ることという意味を込めて認知という言葉を選んでいます。

この三つの知的活動はそれぞれが単独で行われることもありますし、連携して行われることもあります。

また、認知→思考→表現の活動が連続して何度も繰り返されていくこともあります。



この知的活動をするための唯一のツールが言語であると考えています。

つまり、人の知的活動のすべてが言語によってなされているということになります。


よく考えてみると確かにそうなのですが、こんな観点から考えたことはありませんでした。

この考え方に立ってからというものは、物事をとてもシンプルに捉えることができるようになったと共に、言語に対しての考え方が変わってきました。

特に言語の違いによって導かれる思考の違いが存在し、他の言語との比較による日本語の特徴がそのまま私たちの知的活動の特徴になっていることに気がつきました。


ここまで見てきただけでも疑問があるのではないかと思います。

ここまでの話では表現することも言語で行われていることになります。

しかし、芸術的表現も立派な知的活動です。

絵画や音楽を代表とする芸術活動は言語で行なわれているわけではないのではないかというものです。


まず、音楽についてはわかりやすいと思います。

音楽は口頭言語ではなく楽器を使った音による言語だと考えることができます。

詞がついていればまさしく口頭言語ですが、詞がなくとも言語ということができます。

そこには数多く存在する口頭言語よりもはるかに規則正しいスコア(楽譜)という表記言語まで持っています。


ただし音の組み合わせによる表現に対しての意味付けは作者の意図によるものであり、その意図がそのまま聞き手に伝わるものとは限りません。

そこが口頭言語との違いであり、正確に発信者の意図を伝える手段としては不向きである言語ということができるでしょう。


絵画は記号と同様に言語をイメージ化したものということができます。

記号は言語表記の一つとして明確な意味を持たされていますが、絵画の場合は作者の意図したことを正確に理解することが難しくなると思われます。

記号がイメージ化される前の言語を明確に定義しているのに対して、絵画の場合は作者が勝手に定義してるだけであり見ている者にはその定義が伝わりにくくなっています。


静物画や具象画ではそこに描いてあるものを理解することができます。

これは言語によって、描かれているものを認知している行為そのものです。

しかし、それだけでは作者が表現したいものは理解できませんし、正確には伝わりません。

抽象画においては、描いてあるもの自体がなんであるのかの認知が難しくなりますので、さらに作者の意図が伝わりにくくなります。

音楽と同様に、口頭言語よりはかなり不正確さはありますが絵画も一種の言語であると言えるのではないでしょうか。


それでも話を広げてしまっては収拾がつきませんので、ここで扱う言語は基本的には日本語、英語、中国語といった日常的な口頭言語を念頭に置いておきたいと思います。

口頭言語についても話し言葉や書き言葉、文字などによってもそれぞれの言語の特徴が違ってきます。

一般的に言語というと、その対象は言語として持っている語彙と文法が比較されて特徴つけられます。

ここでは三つの要素として、言葉(語彙)、文法、文字を考えていきたいと思っています。

言葉は主に話し言葉のことです。

一般的には品詞で整理されることが多いと思われますので(語彙)としておきました。

文法はよくわかるのではないかと思います、その中でも特に構文や文字の並び方の規制についてが言語についての特徴を表しているのではないでしょうか。

文字は文字通りその言語において使われている文字のことです。

世界の言語のなかで一番多く使われている文字はアルファベットですが、26文字すべてを使っている言語は決して多くありません。

また、世界中で二番目に多くの人が使っている文字が漢字であることもなかなか気が付つきにくいことではないでしょうか。


人間の知的活動を目で見ることはできません。

ところが言語は話し言葉や文字として表現されることによって直接認知することができます。

知的活動が言語によってなされているのですから、その結果として表現された言語を認知することによって知的活動の内容を知ることができます。

一人ひとりが持っている言語はすべての人が異なります。

広い意味では同じ日本語であっても、言葉や使い方は一人ずつ異なっています。

だから、同じものを見て同じ本を読んで同じ話を聞いても理解が異なるのは当たり前のことなのです。

一人ずつ異なる理由についてもわかってきていますので、おいおい触れていきたいと思います。


人の知的活動が言語によって行われていることを知ることによって、もう一つのメリットが生まれます。

それは言語を磨くことによって知的活動が磨かれていくことです。

言語の使い方によって知的活動を刺激することが可能になるのです。


人は言語がなければ何もできません。

言語は話し言葉だけではなく、いろいろな伝え方があります。

しかも、持っている言語が一人ひとり異なるという厄介なものでもあります。

こんな観点から改めて言語について、日本語についてみていってみようと思います。



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2014年4月23日水曜日

人の知的活動と言語の関係について(1)

降りてきた「ひらめき」

このブログを毎日更新して366回を数えた昨日、夢の中に出てきたことがありました。

思わず目を覚まして書き留めた後は、興奮して明け方まで寝付けませんでした。


皆さんにも経験があるのではないでしょうか。

突然思いついたことが、何の根拠もないのですが、今まで疑問だったことのすべてを解決に導くことができると確信できる瞬間が来ることが。

しかも、その思いついた内容は、きわめて単純であまりにも当たり前でなおかつ不偏的であることが。



その「ひらめき」が来たんだなと確信できた瞬間でした。

今まで「日本語のチカラ」として毎日このブログを更新してきたのは、このためだったんだと根拠のない確信が湧いてきました。


このブログを書き始めたのは、ソーシャルおじさんズ1号の徳本昌大さんのセミナーに参加し、ブログを書くことを勧められたのがきっかけです。

その頃やっていた曲つくりのなかで感じていた、作詞における「やまとことば」の効果を表現してみようと思ったからです。

書きすすめるうちに、約6年ほど前に出会って気になっていた言葉である「母語(ぼご)」についてのわかってきたことを書くようにもなってきました。


やがて、思考が言語でしかできないことを知るに至っては、言語技術を磨くことによって思考がより深く鋭く行なえることを書いてきました。

「日本語」の特徴について、「母語」の啓蒙について、「思考と言語」の結びつきについて、の3点が大きなテーマとなっていきました。



「日本語」については、日常言語として日本語を使っている私たちでは気がつきにくい、世界の他の言語と比べた時の日本語の特徴を中心に発信してきました。

手探りで、様々な資料との格闘を繰り返しながらの発信です。

その結果として、世界の他の言語と比べた時に日本語がいかに独特の特徴をもった素晴らしい言語であるかを再確認することができました。


「母語」については、出会った時の驚きをそのまま伝えてきたつもりですが、まだまだ表現しきれていない部分がたくさんあります。

人の生涯を左右してしまう幼児期専用の言語としての啓蒙を、続けていかなければならないと思っています。


「思考と言語」については、その人が持っている言語の限界が思考の限界であるという説に出会ってからの取り組みになりました。

何とか反論をしたいと思って取り上げてきましたが、結果はこの説をさらに確証つけることになっていきました。


そして、今回降りてきた「ひらめきが」が、タイトルの「人の知的活動と言語の関係」です。

いままで扱ってきたテーマのすべてはこれを書くための習作であったことが一瞬で確信されました。

学校教育における言語学習に触れてきたことや世界の各国の言語教育を見てきたこと、人が思考するとはどういうことなのかに触れてきたことや思考を柔軟にするための言語技術に触れてきたことなどのすべてがこのためだったのです。


どのように展開していくのかは、全くの白紙状態です。

日々の感性に委ねるしかないと思っていますが、今まで触れてきたことがすべてのベースになることは間違いないと思います。

そこからどんな発展をするのかは自分でも楽しみにしているところです。

新たな自分と向き合いながら、さらに日々新たな自分を発信していけたらいいなと思っています。


表現力は一朝一夕にはうまくなりませんが、それでもブログを書き始めたころに比べたら言いたいことがわかりやすくなっていると思います。

伝えたい相手を具体的に思い浮かべて、その人に向けて理解してもらえるように表現していくことが大切だとわかってきました。

わかっていることとできることは全く違うことであることもわかってきました。

結果として理解してもらえなければ、そこまでの過程が意味のないことになってしまうこともわかってきました。

だから、必死に表現するのですね。


必死の表現は、技術的な表現力よりもはるかに伝わることもわかってきました。

本気で伝えたいことを必死で伝えることが、表現力を磨く一番の方法だったのですね。


作業に没頭しているとどうしてもその作業を仕上げることが目的になってしまい、本来の目的を見失いがちになってしまいます。

初めはブログを書くことが目的でした。

やがて、ブログを継続することが目的になりました。

伝えたいことができてくると、発信して理解してもらうことが目的になってきました。

今は、新たなテーマについて伝え広げていくことが目的になっています。

この先も、目的は変化していくでしょう。


何かの目的が達せられると、そのことは次の目的の達成のために使える手段となっていくのではないでしょうか。

これが実感できる進化・成長ではないでしょうか。

当初の目的が達成できそうになると、自然に次の目的が湧いてくるようですね。

本当にうまくできているものだと思います。



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