2014年4月24日木曜日

人の知的活動と言語の関係について(2)

「人の知的活動」と「言語」という、何とも抽象的な言葉が並んでしまいました。

私がここでお伝えしたい内容について、説明しておきましょう。


「人の知的活動」は人としての物理的な肉体的な活動に対して用いている、思考を中心とした知的な活動のこと全般を指しています。

人には三つの活動があるのではないかと思っています。

肉体的活動、精神的活動、知的活動の三つです。



そして、知的活動はまたさらに三つの活動で成り立っていると考えています。

それは、対象を認知すること、思考すること、表現することの三つです。

認識という言葉は比較対象としての認知よりもさらに深い理解をすることを表していますので、ここでは対象をまず確認し知ることという意味を込めて認知という言葉を選んでいます。

この三つの知的活動はそれぞれが単独で行われることもありますし、連携して行われることもあります。

また、認知→思考→表現の活動が連続して何度も繰り返されていくこともあります。



この知的活動をするための唯一のツールが言語であると考えています。

つまり、人の知的活動のすべてが言語によってなされているということになります。


よく考えてみると確かにそうなのですが、こんな観点から考えたことはありませんでした。

この考え方に立ってからというものは、物事をとてもシンプルに捉えることができるようになったと共に、言語に対しての考え方が変わってきました。

特に言語の違いによって導かれる思考の違いが存在し、他の言語との比較による日本語の特徴がそのまま私たちの知的活動の特徴になっていることに気がつきました。


ここまで見てきただけでも疑問があるのではないかと思います。

ここまでの話では表現することも言語で行われていることになります。

しかし、芸術的表現も立派な知的活動です。

絵画や音楽を代表とする芸術活動は言語で行なわれているわけではないのではないかというものです。


まず、音楽についてはわかりやすいと思います。

音楽は口頭言語ではなく楽器を使った音による言語だと考えることができます。

詞がついていればまさしく口頭言語ですが、詞がなくとも言語ということができます。

そこには数多く存在する口頭言語よりもはるかに規則正しいスコア(楽譜)という表記言語まで持っています。


ただし音の組み合わせによる表現に対しての意味付けは作者の意図によるものであり、その意図がそのまま聞き手に伝わるものとは限りません。

そこが口頭言語との違いであり、正確に発信者の意図を伝える手段としては不向きである言語ということができるでしょう。


絵画は記号と同様に言語をイメージ化したものということができます。

記号は言語表記の一つとして明確な意味を持たされていますが、絵画の場合は作者の意図したことを正確に理解することが難しくなると思われます。

記号がイメージ化される前の言語を明確に定義しているのに対して、絵画の場合は作者が勝手に定義してるだけであり見ている者にはその定義が伝わりにくくなっています。


静物画や具象画ではそこに描いてあるものを理解することができます。

これは言語によって、描かれているものを認知している行為そのものです。

しかし、それだけでは作者が表現したいものは理解できませんし、正確には伝わりません。

抽象画においては、描いてあるもの自体がなんであるのかの認知が難しくなりますので、さらに作者の意図が伝わりにくくなります。

音楽と同様に、口頭言語よりはかなり不正確さはありますが絵画も一種の言語であると言えるのではないでしょうか。


それでも話を広げてしまっては収拾がつきませんので、ここで扱う言語は基本的には日本語、英語、中国語といった日常的な口頭言語を念頭に置いておきたいと思います。

口頭言語についても話し言葉や書き言葉、文字などによってもそれぞれの言語の特徴が違ってきます。

一般的に言語というと、その対象は言語として持っている語彙と文法が比較されて特徴つけられます。

ここでは三つの要素として、言葉(語彙)、文法、文字を考えていきたいと思っています。

言葉は主に話し言葉のことです。

一般的には品詞で整理されることが多いと思われますので(語彙)としておきました。

文法はよくわかるのではないかと思います、その中でも特に構文や文字の並び方の規制についてが言語についての特徴を表しているのではないでしょうか。

文字は文字通りその言語において使われている文字のことです。

世界の言語のなかで一番多く使われている文字はアルファベットですが、26文字すべてを使っている言語は決して多くありません。

また、世界中で二番目に多くの人が使っている文字が漢字であることもなかなか気が付つきにくいことではないでしょうか。


人間の知的活動を目で見ることはできません。

ところが言語は話し言葉や文字として表現されることによって直接認知することができます。

知的活動が言語によってなされているのですから、その結果として表現された言語を認知することによって知的活動の内容を知ることができます。

一人ひとりが持っている言語はすべての人が異なります。

広い意味では同じ日本語であっても、言葉や使い方は一人ずつ異なっています。

だから、同じものを見て同じ本を読んで同じ話を聞いても理解が異なるのは当たり前のことなのです。

一人ずつ異なる理由についてもわかってきていますので、おいおい触れていきたいと思います。


人の知的活動が言語によって行われていることを知ることによって、もう一つのメリットが生まれます。

それは言語を磨くことによって知的活動が磨かれていくことです。

言語の使い方によって知的活動を刺激することが可能になるのです。


人は言語がなければ何もできません。

言語は話し言葉だけではなく、いろいろな伝え方があります。

しかも、持っている言語が一人ひとり異なるという厄介なものでもあります。

こんな観点から改めて言語について、日本語についてみていってみようと思います。



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