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2015年3月1日日曜日

知らないことが恥かしい感覚

欧米型言語の感覚においても、日本語の感覚においても、環境との対比としての自分の感覚について意識をすることになります。

その意識の仕方が、何を起点に見ているかが異なりますが、そこにおける現実の対応は近いものがあるために混同することが多くなります。


日本語の感覚による環境との対比は、自分が属しているあるいは属したいと思っている環境において、当たり前だとその構成員の多くが思っていることを自分が知らないことにに対して、恥かしさを感じることになります。

その恥かしさは、その環境に対応する者として、環境そのものを理解できていいないことに対して感じていることだと思われます。

結果として、環境やそこに含まれる相手を理解できていないことに対する恥かしさ、自身の理解力の欠如や理解するための姿勢に対する恥かしさとして感じることとなります。


欧米型言語の感覚においては、環境は自己の影響を及ぼすための対象として存在していますので、そこでの当たり前のことに対する欠如は、影響力の欠如としての恥かしさとして感じることになります。

いわゆる、力不足としての恥かしさとなります。


ぞれの言語の感覚を、理解力と影響力ということができるのではないでしょうか

理解力は理解しようとする対象の中に自己も含まれている感覚であり、影響力は影響を与えようとしている対象に距離を置いている感覚となります。


どちらであっても、恥かしさは学習のための大きなモチベーションの一つです。

恥かしさは悔しさにつながり、二度と味わいたくないものとして、どのようにしたら回避できるのかという活動を促すことになります。

日本語の感覚としては、より相手や環境を理解できるようになるために、欧米型言語の感覚で言えば、より大きな環境に対して影響力を持てるようになるために、自己を磨くことにつながります。

自己の能力技術を磨く具体的内容はほとんど同じようなものになるかもしれませんが、最終的な目的が感覚として異なっていることになります。


どちらも、より大きな環境との対比において存在しようとすることに変わりはないのですが、その環境とのかかわり方(関係)とアプローチに大きな差が出てきます。

したがって、共同作業のレベルでは同じ活動をすることができたとしても、その目的とアプローチが異なっていますので、いずれどこかでは感覚的に受け入れられないことが起こってくることになります。


日本語の感覚を素直に受け止めると、自分で環境を選んで飛び込んでいくことはそれほどありません。

生活をしている限り、必ず何らかの環境のなかで存在していることになります。

変化をし続けている環境のなかで、自らの適応力を向上させていかなければ、適応できる環境がどんどん限られたものとなっていってしまいます。

適応できる環境の境界線は明確にあるわけではありません、環境も変化を続けていますので出たり入ったりしながら常に変化していることになると思われます。


しかし、共生したい環境を選んでそこに存在しようとすることは出来ます。

その時に、日本語の感覚では、まず撰んだ環境を理解しようとすることから始まります。

環境としての変化をし続けていますので、絶対的な理解をすることは出来ませんが、まったく何も理解せずに適応することは不可能だからです。

理解するための能力を磨こうとすることが、日本語の感覚と言えるでしょう。


新しい環境に対するアプローチが異なるのが、欧米型言語の感覚です。

彼らは、自己主張と説得によって、影響を及ぼす環境を広げていこうとします。

撰んだ環境に対して、自己の持っているものを主張してその環境における影響力を獲得しようとします。

共に環境を理解しようとすることはあるのですが、日本語の感覚は適応して共生するための理解であり、欧米型言語の感覚は影響力が発揮できない場合の分析となっているのです。


日本語の感覚では、理解した環境に対して自らを適応させて共生できる方法を探そうとします。

欧米型言語の感覚は、持っている影響力を駆使して環境での存在を大きくしようとする方法です。

自らを変化させることに変わりはありませんが、日本語感覚の方が相手に合わせるというニュアンスがずっと強くなっていることは、理解しやすいことではないでしょうか。


したがって、その環境の知らないことに対して感じる恥ずかしさも、日本語の感覚の方がずっと強いものとなっていると思われます。

恥かしさは、できれば感じたくない感覚です。

自分で恥かしさを感じている感覚は、とても不快なものとなっています。


しかし、環境について知らなければ適応することもできません。

自己主張をして、そのリアクションに対して理解を深めようとしたり説得するための対応を考えようとしたりすることが苦手なのです。

そのために手探りの中でもいろいろな感覚を使いながら理解しようとすることに、ほとんどのチカラを集約するのです。

ある程度の理解ができたところで、納得してしまいがちな日本人の活動癖は、こんなところからも来ていると思われます。


行動としてのアウトプットよりも、理解することにより多くのチカラを掛けることになるために、どうしてもアウトプットに対する意識が薄くなってしまうのです。

目的に対して最短距離を走るための手段を選択して成し遂げていくのが、欧米型言語の感覚を生かした活動となります。

持っている手段を改善し組み合わせて、より効率のより結果(目的)を導くのが、日本語の感覚を生かした活動となります。

完全にそれだけというわけにはいきません。

どちらの方に感覚的に受け入れやすい傾向があるか、言い方を変えれば、どちらよりの感覚の方がストレスを感じることが少なく効果があるのかとなります。


どんな場面で恥かしさを感じるのかは、自分の感覚を確認するのにとても良い方法です。

同じように、どんな場面で不自然さや違和感を感じるかを確認できると、自分の持っている感覚がどちらの傾向にあるのかを知ることができます。

効率を上げるための一番いい方法は、できるだけストレスを感じる場面を減らすことにあります。

それは、個人で感覚的に異なっているものです。

他の人がやって効率が良かったことが、自分にとっても効率がいいことであることはほとんどありません。

反対に、それを行うことがストレスを産むこともあります。

母語が一人ひとり異なっている以上、その感覚も異なっていて当たり前だからです。


欧米型言語の感覚では、言語ですべてのことを伝える必要があります。

そのためには、おなじ論理に対してはみんなが同じ理解をしてくれないと困ることになります。

表現は、おのずから厳格なルールにもとずいた固定的な物とならざるを得ません。


日本語の感覚は、言語ですべてを伝えることは出来ません。

変化していることが前提になりますので、一人ひとり感覚が異なることが基本となっています。

表現は、感情に訴えるための多様性が発揮されることになります。

自分を伝えるためでなく、相手や環境を理解するためのツールとしての働きが中心となります。

その一部として、伝えるための使い方がありますので、これだけ大きな言語となっているのではないでしょうか。

しっかりと、使いこなせるようになりたいものです。




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2015年2月14日土曜日

日本語の果たすべき役割

日本語の持っている特殊性については何回か触れてきました。

日本語の中だけに浸っていては、その特殊性に気がつくことはなかなか困難なことです。

世界の、特に先進文化圏と言われる国の言語と比較したときに、日本語の特殊性がより鮮明になってくるのではないかと思います。


その日本語が持っている特殊性にも、おおもとの根源があります。

それは、言語としての日本語が確立される前から築かれ継承してきたものだと思われます。

それこそが日本語の持っている根源的な感覚ではないでしょうか。
(参照:日本語の特殊性を知る


今の世界の情勢では、まさしくその日本語の感覚が求められているのではないでしょうか。

参考にできる事例があります。

第二次世界大戦後に、戦後処理を中心とした戦勝国の機関として国連が設立されました。

その設立当時からの国連の公用語は、英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語の五ヶ国語でした。

その後の世界の情勢からアラビア語が追加されました。


設立当時の公用語である五ヶ国語のうち、スペイン語を除く四つの言語はすべて戦勝国の言語です。

スペインは第二次世界大戦においては中立国であり、決して戦勝国ではありません。

スペイン語が国連の公用語として採用された大きな理由は、戦時中の活動にありました。

それについては参照のブログで確認いただきたいと思います。
(参照:戦勝国ではないスペイン語が国連公用語のわけ


今の世界は欧米型の言語の感覚によって発展をしてきました。

その感覚が、所々で軋轢を生み出したり紛争を生み出したり、その処理でさらに問題を大きくしたりしています。

スペインが第二次大戦に行なっていた行為は、自国は戦争には参加しません、しかし戦争によって当事国以外であっても様々な人道的な不都合が起こることに対してサポートをするということでした。

第二次大戦の敗戦国であり、世界で唯一の原爆被害国であり、侵略するための軍隊を持たない日本だからこそできることがあるのではないでしょうか。


そして、それこそがまさしく日本語の持っている根源的な感覚なのではないでしょうか。

紛争自体は、個としての人が中心にる限り、そのぶっつかり合いの中で避けることができないことかもしれません。

それを解決し得るものは、より大きな自然との共生において、不都合を自らが解消していくことではないでしょうか。


紛争当事国のどちらにも加担することなく、すべての揉め事に対して中立の立場を取りながら、自然環境との共生のために適応することをひたすら活動し続けることこそ、日本語の感覚に沿った行動と言えるのではないでしょうか。

持てる技術や知恵は、そのために使われてこそ意味のあるものとなるのではないでしょうか。

現代文明の先端を走っている国はほとんどが、この感覚を持っていません。

気がついていても、自分たちの感覚ではそれを行動することができないのです。


世界に対しての日本語の持っている感覚を自信を持って発信していってもいいのではないでしょうか。

「もったいない」の感覚がノーベル平和賞につながりました。

世界は、まだまだ日本語の持っている感覚に気づいていないのです。

何となく違うことは感じていても、その根源となるものについては理解していないのです。


これからの時代こそ、日本語の感覚が求められているのではないでしょうか。

自分たちが思っている以上に、日本語の果たすべき役割は大きなものだと思います。

日本語の感覚に素直に、自然に従った行動をしていくことが、その役割を果たしていくことになるのではないでしょうか。


自然を最大の脅威と感じてきたことによって築き上げられた感覚は、人を脅威と感じる感覚よりもより平和的な本質的なものだと思われます。

変化し続ける自然環境に対して、自らを適応させることによって共生していく感覚は、あらゆることに通ずるものではないでしょうか。

欧米型言語の感覚によって引き起こされた問題に対して、一つの明確な回答を投げかけることができるのではないでしょうか。


小さな活動である個人の活動から、日本語の感覚をもっと大切にしていくことが求められていると思います。

自身を持って、日本語の感覚に従って活動していいのではないでしょうか。




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2015年2月13日金曜日

日本語の特殊性を知る

フランシスコ・ザビエルによって「悪魔の言語」とまで呼ばれた日本語は、それほど他の言語話者から見たら難解な言語となっていたと思われます。
(参照:抜群の適応力を持つ日本語

独特な文化風習を持ちながら、地理的気候的な恩恵によってほとんど他の文化による侵略をうけなかった日本文化は、時の経過とともにその独自性を熟成させていったものと思われます。

鎖国の時代であっても、世界の先進文化の情報は一部の交流を通じて持っていたことがうかがえます。


自ら進んで、その門戸を開放せざるを得なくなったのが明治維新ではないでしょうか。

列強の草刈り場とならないためには、ヨーロッパ列強と対抗できる国力を大至急でつける必要があったのです。

国内を二分する戦いは、侵略をする立場からすれば願ったりの環境です。

国内を二分する戦いを、無血開城によって回避できたことは、列強による侵略の足場を作らせなかったことにおいて、まさしく日本を救った快挙であったと言えるのではないでしょうか。


どちらが勝ったとしても、その戦力の裏側には列強の軍事力がついており、その後の統治においては大きな力を借りざるを得ないことになっていたことでしょう。

日本語の独自性を失う危機は、すなわち日本の侵略の危機であったわけです。


自ら漢語を導入したことを除けば、日本が侵略をされて独自性を失なってもおかしくなかった時が3回あります。

1回目が、元寇です。

二度にわたる元(モンゴル帝国)による攻撃は、三度目が用意されていたことは知られています。

地理的な条件や気候のことがその失敗との要因として挙げられていることがありますが、決してそれが主な要因ではなかったと思われることも見つかっています。

ベトナムへも進出していったモンゴル帝国が、やはり第三次の攻撃までをしながら侵略しきれなかったことも、大きな要因の一つでしょう。


2回目が、幕末から明治維新です。

列強の軍事力に頼った国内を二分する戦いを避けられたことと、そのあとの新政府による富国強兵があくまでも自国の意思で行われたことが、日本を守り抜いたことにつながっています。


3回目が、太平洋戦争です。

戦後の戦勝国による分割統治が実施されていたら、日本そのものが解体されて他国に編入されているところでした。

セイロン大使の国連における演説は、日本の分割統治を救った象徴として今でも語り継がれています。


ほとんど奇跡的と言ってもよいくらいの形で、日本の独自性は守られてきたのです。

せっかく独自性を守ってきた日本語について、その独自性の特徴を知らないで過ごすことはあまりにももったいないことだと思います。

日本語の独自性の根本となっていると思われることについて知っていることは、日本語を使っていくうえで大きな力になるのではないでしょうか。

そんな日本語の持つ根源的な部分での、他の言語との違いについて述べてみようと思います。


中国語は現存する世界で最古の言語だと言われており、ギネスブックにおいてもそのように認定されているものです。

日本語の母体はその中国語から借用したものです。

現存する世界の言語の中では、古い部類に属する言語となっています。


中国語(漢語)が日本に導入されたときに、導入された漢語がそのまま日本の言語として定着しなかったことを考えると、漢語とは相容れない言語が存在していたことが考えられます。

文字を持たなかった言語である可能性が高いと思われますが、何らかの表記方法はあったのかもしれません。

導入してきた漢語は、国の記録を残すための正式な記録用の表記として使用されました。

しかし日常の言葉においては、もともとあった言葉を表記するための記号として使用されることによって、仮名として変化していくことになったと思われます。

したがって日本語が持っている根源的な言語の感覚は、漢語導入以前からあった文字を持たなかったと思われる言葉である「古代やまとことば」にあると言えるのではないでしょうか。


言語の持っている根源的な感覚は、以前にも述べましたが自然をどのようにとらえていたかで決まってきます。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化日本語と自然との関係 など)

中国やヨーロッパなどの気候風土の安定した旧大陸に比べると、日本列島はまだまだ安定していない活動中の新大陸に属しています。

そのために、火山活動や地震活動などが活発な地域となっており、地形すらが安定した状態とはなっていません。


更に、日本列島はめまぐるしく変わる季節による変動が大きな地域となっており、安定した自然環境は望むべくもありません。

現在よりははるかに水位が高く、気温が低かった古代においては、生きていくための土地や場所を探すことが最大の難関ではなかったかと思われます。

外部よりの侵略は結果的には現在まで一度も受けていないと言っていい日本列島において、生きていくための最大の敵は自然環境であったことは想像に難くないと思われます。


敵とは言っても、打ち負かすことができない敵ですので、抵抗したところで無駄になります。

激しく変わる自然環境にたいして、自らを何とか適応させていくことが生きていくことではなかったでしょうか。

自らの力の及ばない自然現象に対しては、そこに神の存在を感じて祈りをささげ、祈りが通じた時には自然や神との一体感を感じることとなったのではないでしょうか。

個として自然に向かったのでは、効果が薄いことを経験することによって、互いの存在そのものも自然環境の一部として共生するための工夫を凝らしてきたのが日本民族ではないかと思われます。


地形や気候的に安定したエリアで、隣り合う民族との侵略に明け暮れた中国やヨーロッパと一番違うのが、生きていくために対応すべき相手だと思われます。

彼らは、生きていくためには侵略に対抗しなければなりません。

相手は人であり国です。

時には自らが侵略を仕掛けていかないと、反対にいつ侵略されるかわからない環境にあったのです。

自然環境はそのために利用すべきものでしかありませんでした。


したがって、どうしても彼らの言語は人に対してのものとなるのです。

敵と味方を区別するためのものとなるのです。

相手を屈服するためのものとなるのです。


日本語は、自然の変革対応して共生するためのものとなるのです。

相手が自然になるのです。

言語だけでは分からない感覚がより多く存在するのです。


基本的な感覚は言語そのものに継承されています。

環境を受け入れやすい日本語は、漢語を取り込んで独自の日本語を作り出しました。

ヨーロッパの言語を取り込んで、膨大な翻訳語や新語を生み出して、漢字の母国の中国へと送り出しました。

世界のあらゆる先端文明を取り込んで、それに対応する自己を作り上げてきているのです。


日本語がもとから持っている感覚は、原住民族の言語の感覚に近いものだと思います。

その言語が、世界の最先端の文明たちを取り込んで肩を並べる文化を築き上げてきたのです。

他の世界の最先端の文明国の言語と、根本的な感覚が大きく異なっているのです。


このことを知っておくことが、世界と向き合うためには大切なことではないでしょうか。

日本を理解しようとした外人たちがどうしてもわからない部分だと思います。

同じ感覚を持つことは不可能だと思いますが、理解することは可能ではないでしょうか。

理解するための努力は、それぞれの言語の中で可能なことですので、しっかり行なっていきたいですね。





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2014年12月27日土曜日

日本語の感覚で対応する

日本語の持つ感覚と、英語の持つ感覚の違いが、ほぼ正反対であることは何度か見て来た対比で理解できます。
(参照:日本語 vs 英語 など)

隣の芝生は青い、ではないですが、自分達の感覚と違うものに対しての興味と関心は、どんな場合でも尽きないものです。

ましてや、相手の持っているものに対しての劣等感でも持っていようものなら、何としても手に入れて見せびらかしたくなるものです。


20世紀前半までの欧米言語文化に対する感覚が、そうではなかったかと思われます。

自分の個を中心とした、主張と明確な論理には、知的活動についての次元が違い質が違うのではないかとすら思い込んでいた節があります。

それが、言語の持っている感覚による違いでしかないことに気がつくまでは、民族としての劣等感すら持っていたのではないでしょうか。


日本語の感覚と欧米型言語の感覚の一番の違いは、環境(自然)と自己との捉え方の違いです。

自然をどのようにとらえるかは、すべてのものの見方に影響していくることです。


日本語の感覚は、環境との共生を目指す感覚です。

環境の変化に対して、自己を適応させていく感覚です。

そのために、どの様な環境であっても自己の環境適応能力を常に高めようとするものです。

これは無限の努力につながるものです。


欧米言語の感覚は、環境に影響を与える自己を目指す感覚です。

いわゆる、インフルエンサーとして影響を与えることができる環境をどこまで大きくすることができるかを目指す感覚です。

自己の確立と、より強くより広く影響を与えるための努力が求められるものとなります。

変化する環境をコントロールし、自己の影響が及ぶ環境を広げていこうとします。


日本語感覚では、学ぶということは、どのような環境においても共生し対応できるための適応能力を付けることになります。

環境は無限に広がっていますし、予測がつきませんし、常に変化しています。

あらゆることについての適応性を身につけていくことになりますので、生涯学習などという考えが出てきます。


欧米型言語の感覚では、学ぶということは、周りの環境に対して変化を与えることができる影響力を付けることになります。

明確な目的を持ち、自己主張によって他者と違う影響力を表現するための技術を身につけ、目的のために環境を動かそうとするものです。

こちらも、無限の努力につながるものとなります。

内に向かう日本語感覚と、外に向かう欧米型言語の感覚と言えば、なんとなくわかり易いのかもしれません。



日本語は、文字のなかった時代より「古代やまとことば」としての話し言葉が存在してました。

漢語という文字が入ってきたときに、この文字である漢語が環境の一部となっていきました。

この漢語と共生していくことによって、話し言葉としての「古代やまとことば」に対応する文字を漢語を利用して作っていきました。

漢語という環境に「古代やまとことば」を適応させたのです。

あるいは、「古代やまとことば」という環境に漢語を適応させたと言えるのかもしれません。

まさしくハイブリッドなのです。


環境と適応し、共生するという感覚は、Yes or No の感覚ではありません。

共に存在するための融合の感覚となるのです。

日本語感覚に、二者択一は合わないようになっているのです。

両者共存が日本語の感覚なのです。


某米型言語による論理は、環境に影響を与えて環境の方を変化をさせようとするものです。

相手を変化させようとするのですから、相手を論理的に自然科学的に説得しなければなりません。

そのために、誰に対してもわかり説明となるのです。

ところが、この論理を日本語話者に当てはめようとしても、どうしてもうまくいかないのです。


論理やカテゴリーや技術は、きわめてわかり易いのですが、最後の行動に結びつかないのです。

日本語話者は、十分理解できるのですが、決してその論理通りにはならないのです。

それは、ここに感覚に違いがあるからなのです。


ましてや、欧米型言語の感覚による論理やテクニックを、日本語で紹介しているような場合は、その時点で矛盾を含んでいますので、理解できても実践面で感覚的な不自然さが出てしまうのです。

言葉や文字では十分理解できるものですから、この感覚による違いの説明がつかないのです。


日本語感覚は、常に変化する環境に対して自分が適応していこうとするものです。

欧米型言語の感覚は、自分の目的に応じて変化する環境をコントロールしようとするものなのです。

この違いが分かったうえで、日本語流の感覚に沿った内容にしていくことが求められます。


しかし、今となっては日本語感覚のものが彼らの世界において求められるものとなってきています。

今度は、日本語感覚を上手に彼らの言語に置き換えてあげることの方が、必要になっているのではないでしょうか。

共生や融合の感覚を持たない彼らにとって、理解することは出来ても受け入れることはとても難しいことだと思います。

彼らの生み出したとされるマニジメント論やコーチング論にも、多くの日本語感覚によるものが基本となっています。

しかし、それを受け入れられない彼らは、その現象のみをとらえて、自分たちの感覚で理解しやすいように論理つけしているのです。

日本語の感覚そのものを受け入れることは出来ないのが彼らの感覚です。

同じ現象を彼らの感覚で捉えて、彼らの言語で表現する必要があったのです。


日本語感覚は、彼らの感覚を分からないままに受け入れることができますが、彼らは分からないものは受け入れません。

分かったうえで、Yes or Noの判断をしてから受け入れるのです。

日本語感覚が彼らを受けることよりも、はるかに難しいことになっているのです。


彼らのマネジメント論やマーケティング論、コーチング論などのすべてが最後のところで感覚的な不自然さと違和感を伴っていることに気づいている人は多いと思います。

環境適応の得意な日本人は、それでも拒否をせずに受け入れる感覚を持ってます。

やがて、融合された日本向けの感覚に合ったものになっていくのでしょう。

この不自然さや違和感をしっかりと感じ取れる日本語の感覚を、きちんと持っていたいですね。

説明できなくともいいのです。

感覚なんですから。




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