(参照:日本語 vs 英語 など)
隣の芝生は青い、ではないですが、自分達の感覚と違うものに対しての興味と関心は、どんな場合でも尽きないものです。
ましてや、相手の持っているものに対しての劣等感でも持っていようものなら、何としても手に入れて見せびらかしたくなるものです。
20世紀前半までの欧米言語文化に対する感覚が、そうではなかったかと思われます。
自分の個を中心とした、主張と明確な論理には、知的活動についての次元が違い質が違うのではないかとすら思い込んでいた節があります。
それが、言語の持っている感覚による違いでしかないことに気がつくまでは、民族としての劣等感すら持っていたのではないでしょうか。
日本語の感覚と欧米型言語の感覚の一番の違いは、環境(自然)と自己との捉え方の違いです。
自然をどのようにとらえるかは、すべてのものの見方に影響していくることです。
日本語の感覚は、環境との共生を目指す感覚です。
環境の変化に対して、自己を適応させていく感覚です。
そのために、どの様な環境であっても自己の環境適応能力を常に高めようとするものです。
これは無限の努力につながるものです。
欧米言語の感覚は、環境に影響を与える自己を目指す感覚です。
いわゆる、インフルエンサーとして影響を与えることができる環境をどこまで大きくすることができるかを目指す感覚です。
自己の確立と、より強くより広く影響を与えるための努力が求められるものとなります。
変化する環境をコントロールし、自己の影響が及ぶ環境を広げていこうとします。
日本語感覚では、学ぶということは、どのような環境においても共生し対応できるための適応能力を付けることになります。
環境は無限に広がっていますし、予測がつきませんし、常に変化しています。
あらゆることについての適応性を身につけていくことになりますので、生涯学習などという考えが出てきます。
欧米型言語の感覚では、学ぶということは、周りの環境に対して変化を与えることができる影響力を付けることになります。
明確な目的を持ち、自己主張によって他者と違う影響力を表現するための技術を身につけ、目的のために環境を動かそうとするものです。
こちらも、無限の努力につながるものとなります。
内に向かう日本語感覚と、外に向かう欧米型言語の感覚と言えば、なんとなくわかり易いのかもしれません。
日本語は、文字のなかった時代より「古代やまとことば」としての話し言葉が存在してました。
漢語という文字が入ってきたときに、この文字である漢語が環境の一部となっていきました。
この漢語と共生していくことによって、話し言葉としての「古代やまとことば」に対応する文字を漢語を利用して作っていきました。
漢語という環境に「古代やまとことば」を適応させたのです。
あるいは、「古代やまとことば」という環境に漢語を適応させたと言えるのかもしれません。
まさしくハイブリッドなのです。
環境と適応し、共生するという感覚は、Yes or No の感覚ではありません。
共に存在するための融合の感覚となるのです。
日本語感覚に、二者択一は合わないようになっているのです。
両者共存が日本語の感覚なのです。
某米型言語による論理は、環境に影響を与えて環境の方を変化をさせようとするものです。
相手を変化させようとするのですから、相手を論理的に自然科学的に説得しなければなりません。
そのために、誰に対してもわかり説明となるのです。
ところが、この論理を日本語話者に当てはめようとしても、どうしてもうまくいかないのです。
論理やカテゴリーや技術は、きわめてわかり易いのですが、最後の行動に結びつかないのです。
日本語話者は、十分理解できるのですが、決してその論理通りにはならないのです。
それは、ここに感覚に違いがあるからなのです。
ましてや、欧米型言語の感覚による論理やテクニックを、日本語で紹介しているような場合は、その時点で矛盾を含んでいますので、理解できても実践面で感覚的な不自然さが出てしまうのです。
言葉や文字では十分理解できるものですから、この感覚による違いの説明がつかないのです。
日本語感覚は、常に変化する環境に対して自分が適応していこうとするものです。
欧米型言語の感覚は、自分の目的に応じて変化する環境をコントロールしようとするものなのです。
この違いが分かったうえで、日本語流の感覚に沿った内容にしていくことが求められます。
しかし、今となっては日本語感覚のものが彼らの世界において求められるものとなってきています。
今度は、日本語感覚を上手に彼らの言語に置き換えてあげることの方が、必要になっているのではないでしょうか。
共生や融合の感覚を持たない彼らにとって、理解することは出来ても受け入れることはとても難しいことだと思います。
彼らの生み出したとされるマニジメント論やコーチング論にも、多くの日本語感覚によるものが基本となっています。
しかし、それを受け入れられない彼らは、その現象のみをとらえて、自分たちの感覚で理解しやすいように論理つけしているのです。
日本語の感覚そのものを受け入れることは出来ないのが彼らの感覚です。
同じ現象を彼らの感覚で捉えて、彼らの言語で表現する必要があったのです。
日本語感覚は、彼らの感覚を分からないままに受け入れることができますが、彼らは分からないものは受け入れません。
分かったうえで、Yes or Noの判断をしてから受け入れるのです。
日本語感覚が彼らを受けることよりも、はるかに難しいことになっているのです。
彼らのマネジメント論やマーケティング論、コーチング論などのすべてが最後のところで感覚的な不自然さと違和感を伴っていることに気づいている人は多いと思います。
環境適応の得意な日本人は、それでも拒否をせずに受け入れる感覚を持ってます。
やがて、融合された日本向けの感覚に合ったものになっていくのでしょう。
この不自然さや違和感をしっかりと感じ取れる日本語の感覚を、きちんと持っていたいですね。
説明できなくともいいのです。
感覚なんですから。
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