2014年12月26日金曜日

日本語はなぜこんなに豊かなのか

日本語の表現力が他の言語に比べた時に、驚くほど豊かなことは何度か触れてきました。

決まりきった表現がないと言ってもいいくらいです。

そして、直接的な表現を決して良しとしない感覚があることも分かっています。


それはいろいろな場面において現れています。

同じことを伝えるのに、これほど多くの表現を持った言語はほかにはありません。

それは話し言葉においても、文字や文章による表現においても同じです。


ひとことで言ってしまえは、「おもてなし」になるのかもしれません。

相手のことを考えて、環境に応じた表現を選ぼうという行為は、無意識のうちに行われています。

これは、頭で考えているというよりは、日本語を使っていることによって感覚的に行われていることと思われます。

敬語の存在はその典型であり、同じ相手であっても環境によっては表現の仕方が変わっているのです。


言語の基盤が、自然とのかかわり方にあることは何度か見てきました。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化

同一民族であっても、生活している自然環境が異なれば言語に対する感覚が異なっていることが報告されています。

方言の存在がそれを表していると思われます。


自然環境の違いが、言語表現に大きな影響を与えていることは間違いがないようです。

日本は狭い国土の中に、変化の激しい自然を抱えています。

新大陸という区分に属する日本列島は、火山活動やプレートの活動などの地形変動が、まだまだ落ち着いていない環境にあります。

一年間における気候の変動は激しく、さまざまな自然現象に見舞われる環境にあります。


四方を海洋に囲まれた狭い国土は、他国の影響を受けることも少なく、同一民族としての歴史を重ねてきました。

日々の生活においても、気温の変化に対して敏感に反応し、天気予報の技術は世界屈指のものとなっています。

狭い国土の割には、地域による自然環境が大きく異なっており、同じ日本語を使っている民族であっても方言の存在はすごい数となっています。

狭い国土にもかかわらず、平地がきわめて少なく、狭い地域で独特の表現が存在しています。


それでも他民族との接触がほとんどなかった日本においては、単一民族における数千年の発展を通じて、基本的な言語を共有し基本的な感覚を共有しています。

変化の激しい、厳しい自然環境においては、経験による自然変化の予測のための語術と、起きてしまった自然活動に対応する技術を身につけざるを得ませんでした。

長期的には、変化の原因を探求することによって予測の精度を上げながらも、短期的には変化する自然に対して迅速に適応していく術を身につけてきたのです。


そこでは、自己主張や独りよがりの技術はあっという間に飲み込まれ、現実的な自然現象による影響に対処して行かざるを得ませんでした。

待ったなしでやってくる変化に対して、現実的な素早い対応でしか生きていくことができなかったと思われます。

日本語の持つ感覚のひとつに、環境に変化に文句を言わずにじっと耐えて、自らを適応させていくことがあります。

欧米型言語の文化による語術の導入と発展によって、生活環境を自然環境の変化から守り安定させることができるようにはなっています。

しかい、それによって自然環境を今までとは違った変化にさせてしまっていることは、予測をさらに困難にさせていることにつながっています。


日本語は絶対的な表現というものがありません。

同じことでも環境によって表現が変わる、環境言語という性格を持っています。

欧米型言語の様に、絶対的な「I」や「You」があるわけではありません。

「I」や「You」であっても、環境によっては表現が変わってしまいます。


あくまでも環境における相対的な存在としての「I」や「You」ですので、表現されないこともしばしば起こるのです。

日本語感覚においては、唯一絶対的なものは自然なのです。

しかも、その自然は一瞬として同じ状態になく、常の変化しているものです。

その変化し続けている自然との共生のためには、常に自らが変化しなければなりません。

その変化を常に感じ取っていかなければなりません。


そのためには、言葉にない変化も感覚として感じ取っていかなければなりません。

共同生活体としては、感じ取ったものを共有していかなければなりません。

微妙な自然描写のための表現と、その旧友のために必要な表現が多くなるのは必然だったと思われます。

自然の現象や動植物を表す言葉の多さは、日本語の一つの特徴でもあります。


明治維新前の日本語には、論理や技術や物を表す言葉は限られたものだけでした。

自然を表現する言葉や、環境を居有する言葉、基本的な感情や動作を表現する言葉がほとんどでした。

そこに、欧米型言語の持っていた論理や技術を表現するためのものが加わったのです。

表現が豊かにならざるを得ません。


その後は、欧米型の論理や技術の恩恵を受けながら、現代日本語をさらに磨いていったのです。

明治維新以降150年を経過し、世代を重ねた日本語は、とんでもない表現力を持った言語なっているのです。

しかもそこには、もともとの日本語が持っていた感覚と矛盾する欧米型言語の感覚も存在しているのです。


しかし、欧米型言語は母語である日本語で理解されて、日本語として取り込まれてきました。

その感覚のもとにあるのは、「古代やまとことば」より伝承されてきた日本語です。

どんな矛盾があろうとも、まずは受け入れて適応しようとするのが日本語が持っている感覚です。


日本語の共通語としての国語の存在は大きなものとなっています。

狭い国土にもかかわらず、人が生活できる範囲は限られています。

自然の条件が大きく異なります。

共通語としての国語は、同一民族としての共通語として日本語の核となる物です。


国語が正しい日本語だと勘違いしている場合があります。

国語は、日本語の一部であり日本語としての公用語だと思った方がいいでしょう。

いったいどれだけ大きな言語なのか、見当もつきません。

一人ひとりの日本語が違っていても当たり前なんですね。


それだけに、同じ日本語とは言っても伝えて理解してもらうことが難しいということができます。

それを補うためにも、自然を受け入れてそれに適応するという感覚が必要なのですね。

環境を受け入れて対応する。

この感覚が、豊かすぎる表現を持知ながら、省略されることも多く、一人ずつ異なった表現の日本語を理解できるチカラになっているのではないでしょうか。


こんなにすごく大きな言語を使いこなしていくことができるのは、日々変化する自然を受け入れて適応することをしてきたチカラがあるからできることなのですね。

日本語のチカラ、まだまだありそうですね。




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