2014年12月25日木曜日

母語(日本語)でもっと楽に考えよう

母語としての日本語が持っている特徴や感覚については、いろんな切り口から見てきました。

そして、日本語が持っているもっとも本質的な性格として、自然とのかかわり方についてかなり重きをおいて触れてきました。
(参照:日本語と自然との関係

今まで見てきた、日本語の特徴や感覚は、欧米型の言語の個を中心とした論理に重きを置いた感覚とは、正反対に近いものとなっています。


現代の世界の発展の多くが、欧米型言語によってもたらされたことは間違いの無いことだと思います。

知によって生み出された、個という概念から発展した民主主義や資本主義が現代の先進国の基盤にあることは間違いがありません。

違う言語感覚を持ちながらも、それらを取り込んで実現していくことが唯一の選択肢であったことも否定できないことであろうと思います。


母語が、欧米型言語であれば何の問題もないことだと思いますし、生涯意識することでもないでしょう。

また、日本語の感覚が彼らの言語の感覚に近いものであれば、それほど気にすることでもないのかもしれません。

しかし、今まで見てきたように、日本語の感覚はあまりにも欧米型言語の感覚とはかけ離れています。


科学万能、技術万能、経済万能ではないことは、すべての人間がわかってきたことです。

でも、彼らの言語感覚ではそこに違和感を感じることはないのです、今のままの延長が心地よいのです。

もう、万能ではないとわかっていてもどうしていいのかがわからないのです。


日本人は、違和感を感じながらも、彼らが築きあげた世界を理想とし、模倣してきたのです。

21世紀を迎えるころより、いろいろなところでその限界が現実化してきています。


大企業が潤えば、その傘下の企業が順番に潤っていき、末端にまで利益が配分されていく仕組みは機能しないことが証明されました。

小さな企業が、ニーズに合わせて対応していく姿が日本語感覚に合っていることがわかってきました。


二大政党が日本語感覚では存在することができないことが証明されました。

機動力のある変化する能力に富んだ、小さな政党が環境に適応してくことの方が、日本語感覚に合っていることが見えてきました。


大きな目的に向かってみんなで走るよりも、それぞれがそれぞれの環境で地に足つけて適応していくことの方が、日本語感覚に合っていることがわかってきました。

もともと、自然に日本語で考えたらそうなるはずなのに、できませんでした。

大きな国としての共生が働いたのではないでしょうか。

先進国という環境にいることが、心地いいのではないのでしょうか。

他の先進国と、できるだけ異なったことをしないようにすることが働いてしまったのではないでしょうか。


日本語の感覚が、優れているということではありません。

そもそも、国全体をどうしようかとすることが、日本語の感覚に合っていないことになります。

国とは、個の延長で生じてきた概念です。

人と違って何の具体性もないものです。


勝手に見えない境界線を引き、勝手に定めた規制を押しつけるものです。

形としては、その境界線や規制を作っているのが国民の意思によるものだということになっています。

このことについても様々な提案が叫ばれてきています。

少しずつですが、欧米型言語の感覚から離れ始めています。


日本語の感覚に合うようにするのなら、小さな国がたくさんあったほうがいいことになります。

一番大切な環境は、地形と天候です、自然です。

日本だけでも、日々変化し続けている地形と、短い周期で激しく変化する気候をたくさん持っているのです。

日々環境に適応しながらも、小さな国同士がハイブリッドとして何かを試行しつづけていることが、日本語の感覚ではないかと思います。


良いとか悪いとかではなく、日本語感覚で自然に考えるとそのようになるのではないでしょうか。

日本語で楽に考えて、やりながら調整していくことの方が良さそうな状況になってきているのではないでしょうか。

私たちは、母語としての日本語から逃れることは出来ません。

ならば、もっと母語としての日本語の感覚に自然に向き合ってもいいのではないのでしょうか。


何となく感じる違和感や不自然さは、もっと大切にしてもいいのではないのでしょうか。

論理性よりも感覚が優先されることがあってもいいのではないのでしょうか。

現実との間での不都合や問題があればすぐに調整できるのが日本語の感覚です。


欧米型言語の感覚でみると、影響を与える環境が大きいほどチカラがあることになります。

環境は常に変化していますし、どこまでも大きく広いものです。

彼らはそこにまでも影響を与えようとしますので、無限のチカラを持とうとします。


日本語の感覚は、共生する環境を自分で選びます。

そして環境に影響を与えようとはしません、環境に適応しようとします。

環境は変えられないもの、自然に変わっていくものとして捉えています。

相手を変えるのではなく、相手に合わせて自分を変えるのです。


自分が変わるためには、環境(相手)を理解しなければなりません、変化を感じ取らなければなりません。

臨機応変な自己変化能力を持たなければいけません。

日本語で楽に考えて、もっと感覚に頼っていいのではないでしょうか。

日本語そのものがそのためのチカラを持っているのだと思います。


日本語の感覚に従っていけば、極端はなくなるはずです。

絶対もなくなるはずです。

自分の居たい環境が、次にどうなるのかに備えることが主になると思います。

違ったら直すだけです。

もっと日本語のチカラを信じて頼ってもいいのではないでしょうか。

数千年の感覚を継承している日本語です、世界の先端文明をほとんど取り込んできた日本語です。

間違いはないと思いますが。




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