2014年12月24日水曜日

天声人語・・・大丈夫?

久しぶりに新聞を見ました。

新聞を見なくなってから2年以上たちますが、その間に情報で不自由したことは一回もあまりません。

むしろ、本当に必要な情報はより早く手に入るようになりました。

新聞を読んでいるかいないのかかで評価するようなバカな環境と、縁を切れたことを喜んでいます。

それでも家族が必要とするとのことですので、朝刊だけは取っています。


昨日、食卓の上に新聞が置いてありましたので、何げなく目をやると、朝日新聞の第三者機関による慰安婦報道・池上彰投稿拒否による答申報告が一面にありました。

見出しだけが目に入りましたが、もちろん内容など見るつもりもありません。

ふと、目が行ったのが天声人語でした。


言葉ことについて触れていましたので、思わず読んでしまいました。

参考までに全文を掲載しておきます。




天声人語の筆者と言えば、日本でも有数の文化人であり日本語使いであると思っていました。

ずっとこの環境に浸っていたら、その感覚も変わらなかったのかもしれません。

久しぶりに見た天声人語には、おごりと勘違いしか見て取ることができませんでした。


読んでいて論理が極めて不自然であり、結論ありきの展開が気持ち悪くもあります。

不自然さの原因はすぐにわかりました。

日々変化している環境に適応するために、常に自分が変化していかなければならないのが、日本語の持っている感覚です。

自分たちは全く変わることなく、環境をも変えることが可能であるような印象を持たせるから、不自然であり気持ちが悪いのです。


自分たちが公器であることを強調するために、何のつながりも見えない司馬遼太郎さんの「仲間立」なる言葉を持ち出して、無理やりに結びつけている姿は滑稽ですらあります。

公器という冠を掲げないと、素直に謝り反省することすらできないおごり高ぶり方は、日本語感覚からは無条件にまた無意識に不自然と感じるものです。

そこには、確かに悪いことをしましたが、自分たちは公器であるのでそのことを忘れるなよ、と開き直ってさえいるのです。


論旨の展開は、まさしく欧米型言語そのものですが、それが日本語によって表されていることによって違和感を感じることができたのだろうと思います。

具体的なその原因を挙げれば上記のようになるのですが、それ以前に感覚として感じてしまう不自然さがあります。


なぜ、このように読めてしまったのかが不思議でした。

相当に、ひねくれた読み方をしてしまったのかと感じて、改めて読み直してしまったほどです。

毎朝、知的活動のスタートしてこのような日本語に触れ続けているとどんなことになるのか、あらためて恐怖すらを感じることとなりました。

これが、日本語を扱うことにおいては専門家が表現していることだからです。


そのようなことが求められ、社会に対して欧米型の考えを植え付けるのが新聞の適応性だった時が、間違いなくあったと思われます。

その瞬間からも、変わり続けている環境への適応が遅れたのではないでしょうか。

共生していることを勘違いして、自分がコントロールしていると思い込んでしまったのではないでしょうか。

自分は変わることなく、周囲を変えることができると勘違いしてしまったのではないでしょうか。


新聞は毎日読むものとなってしまいます。

習慣になってしまうと、そこに意思の働く割合が極端に少なくなってしまいます。

すると、感覚でこなすようになります。

毎日触れていることによって、感覚が麻痺してくることが起きます。

本来持っている日本語としての感覚が麻痺していることが起こっていると思われます。


自らの意思を持って読んでいる読書とは、感覚の異なるものです。

ここでも、分からないものをそのまま受け入れてしまう感覚が、さらに影響を強くすることになってしまいます。

やがて、表面的には日本語による欧米型言語の思考に対して、不自然さや違和感を抱かなくなってしまいます。

しかし、本質的に違うものの見方が同居していますので、表面的には共存しているように見えても、その根本では相容れないものとなっているのです。


言語としての日本語には、欧米型言語の思考を表現できるチカラが十分にあります。

しかし、日本語で表現されてる以上、言語としての感覚は日本語のものとしてになります。

英語で表現したときに、必要以上に積極的になれたり、日本語でおこなう演説よりも自然に身振り手振りや抑揚が大きくなるのは、言語の本質が持っている感覚なのです。


母語としての言語は、書き換えることも消し去ることもできません。

しかも、生涯を通じてその感覚からは逃れることができないものです。

不必要な違和感や不自然さを感じなくても済むように、母語に対してもっとしっかりと理解しておくことが大切です。


これからますます日本語の感覚は、世界が求めてくるものとなります。

もともと持っているものです。

素直に、自然に、日本語の感覚で知的活動を行なっていくこと、簡単に取り戻せるのではないかと思います。

もっと、自然に楽に、思考していっていいんではないでしょうか。





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