2014年12月23日火曜日

自然に使いこなせハイブリッド思考

日本語を母語として持っている人が自然に日本語を使うと、その思考はハイブリッド思考と言われるものに近いものとなっていることがわかってきました。
(参照:日本語による思考の傾向) 

それは、現代日本語が持っているものよりも、長い年月をかけて継承されてきた古来よりの日本語の感覚によって傾向つけられていると言えそうです。

特に、一気に海外文化を取り込んだ明治維新前の歴史的環境や文化的な環境によって作られてきた、ひらがな感覚によるものが大きいと思われます。
(参照:自然との共生を描き続けた和歌

言語はその時代における文化的な背景に適応するように変化してきており、文化に大きな変化があれば言語にも大きな変化が現れることになります。

また、文化は言語によって表現され継承されていくことになりますので、言語の中には文化の変化の歴史が記憶されていると言えます。


欧米言語は、人の知によって「個」を定義して、他者や環境との違いを鮮明にすることで、種の保存よりも「個」の保存を優先するようになってきました。

日本語は、自然や環境とのバランスを常に考えてきた言語であり、自分自身を適応させることで環境との共生をしてきたものです。

したがって、絶対的な確たるものとしての自己は存在せず、常に変化する環境に適応するために自分が変化していることになります。

このことを、絶対の自己が中心となる欧米言語から見ると、曖昧だとか不気味だとかと映るのです。


欧米言語では、他者とは異なる強い個を作ることに努力の方向が向けられることになり、日本語では、環境との共生・強調するための努力が行なわれます。

環境は、与えられたものもあれば、自分で定めたものもあります。

そのどちらも、常に変化をしているものです。

そこに対応するためには、エンドレスの適応能力が求められることになります。

日々の努力に大きな価値を置く日本語の考え方は、こんなところからも見ることができます。


ハイブリッドの思考は、バランス思考と通ずるものがあります。

二つの要素をどのようにバランスを取っていくかは、ハイブリッドにおける大きな視点です。

単に、二つの要素を分析してみたり、要素間の論理展開をしてみたりしただけでは出来上がりません。


そこには二つの要素を同時に包み込む共通領域的なものを設定する必要があります。

これは、日本語が最も得意とする、非言語による共通領域の感覚となります。

その共通領域への道案内が言語によって行われている、「ことだま」や「ことあげ」の感覚となるのではないでしょうか。
(参照:言語と「ことだま」


ハイブリッドは、バランスであり均衡を常に無意識に意識することになります。

日本語感覚によるハイブリッド思考は、決してメリットだけではありません。

バカ平等と言われるような、格差を内在した表面的な平等すらも認めることになります。


持つ者も持たない者も、全く同じ扱いを受けるという、一見では平等と思えるような不平等を存在させることになります。

共生を図ろうとすることが優先されますので、持たない者は表面的にでも持っている者の様に振る舞おうとしますし、持っているものは表面的には持っていない者に合わせようとすることが起きます。

見た目には、極端に持たないものと極端に持つ者が見えない、格差バランスの小さなものとして映ってしまうのです。

特にそのレベル差が少ない者同士の間では、あらゆるものに対して均衡の意識が働くことになります。


自分が適応するべき環境を、どこまでのものとするかは、自分が決めることです。

時には逃げられない環境もあるかもしれませんし、与えられた環境もあるかもしれませんが、適応するべき共生を目指す環境は自分で決めることができます。

これが覚悟であると思われます。

自分で共生すると決めた環境においては、何とか適応しようと努力をします。

ここでもハイブリッド思考が行なわれているのです。

環境と自分という、相対するものではなく、共生・包含されるものとしてのハイブリッドとしての考え方ができるのです。


日本語によるハイブリッドは、単に二つの要素組み合わせることとは異なります。

共生という感覚のもとで、共生すべき環境を選択できるのです。


現場主義による問題解決が、日本の産業を支えてきました。

それは、KAIZENとして世界の製造業における標準スタイルになりました。

欧米型言語においては、現場労働者に対するマネジメントとして位置付けられています。

本質を理解できていないからです。


日本語による現場主義の問題解決は、常に共生すべき環境を意識しているのです。

しかも無意識に行っていますので、やっている本人にもわかりません。

日本語感覚では、意識せずに行っていることなのです。


目的を定めないと迷走してしまうことが多い欧米型言語に比べれば、日本語には環境との共生という究極の命題を常に内在していることになります。

その環境は、最後は自分自身で選べるものであり、それが覚悟となっていると思われます。

日本語には、小手先の目的が必要ないことになります。

共生すべき環境をどのように設定するかで、すべてのことが回るのです。

その環境に適応することは、無意識のうちにも行なわれていくのが日本語と言えます。


どのような適応をしていくのかが、個人における対応となります。

環境は常に変化し、また、自分でいつでも違う環境を決めることができます。

全てがハイブリッドの考え方です。

日本語が自然に行っていることです。

意識して使うことで、もっと質の高いハイブリッド思考ができそうですよね。




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