2014年12月22日月曜日

日本語が得意とする思考

日本語が得意とする思考活動は、ハイブリッド発想であることを先回見てみました。
(参照:日本語による思考の傾向

日本語を使って、一番自然な形で思考をしていくと、ハイブリッド発想と呼ばれている思考に近いものになると思われます。

その中でも特に、現場感覚における環境適応がすべての原点となっていると思われます。


欧米型の言語による思考の傾向は、明確な目的を掲げその過程においては常にベストを選択しつつ、最短距離で達成しようとするものになります。

目的を達成するために、すべての活動がありますので、達成されなければ意味のないものになってしまいます。

そのためにはどんなことをしても達成しようとします。


過程におけるベストの選択は常に検証されながら、より達成に近いものがあれば置き換えられていきます。

省略できる過程であれば、すぐに飛び越えが行なわれます。

明確な目的が設定されていないと、活動そのものが迷走することになります。

また、目的達成がすべてになりますので、個人としての目的達成のためには時としてとんでもない手段が採られることがあります。


日本の国の治安が、欧米型の国に比べて格段に良いのは、このことにも要因があると思われます。

治安のための機能や設備が整っているわけではなく、そこにいる人たちの思考の傾向が、環境との共生を意識して自分を関係つけているために、秩序を大事にしているだけのことです。

近年、日本における犯罪が欧米化してきており、治安が悪くなってきていることは、欧米型言語の影響も否定できないことだと思います。


他の知的活動と比較すると、思考活動を共有することは極めて稀なことですし、ほとんどないことです。

共有するためには、表現して認知をしてもらう必要があり、また他者の表現を認知する必要があります。

思考活動を共有使用と思うと、自分の行なった思考を共有者に理解してもらうために表現しなければなりません。

また、相手の思考を究有するためには、相手の行なった表現を理解しなければなりません。

それでも共有できることは、思考活動の結果や過程が表現されたものであり、思考活動そのものを共有できるわけではありません。


知的活動の認知活動、思考活動、表現活動は、結果としいての共有はできるかもしれませんが、基本的には全て個人的な活動となります。

一緒に思考活動をしているように見えても、そこでは、個人の思考活動を表現し認知するという活動が繰り返されていることになり、思考活動そのものが共有されているわけではありません。

思考活動は全く個人的な活動ですので、そこで行われる思考や使用される言語も、きわめて個人的なもので誰にもわからないものでも構わないのです。

誰かとその結果を共有したり、他者の思考結果としての表現を認知したりするときに、共通語の存在が大きな役割を持つことになります。


母語として日本語を持っているという者同士では、コミュニケーションや表現や認知において言語を意識することがほとんどありません。

それは思考に使用する言語がほとんど同じであるために、受け入れやすい思考パターンが自然に使用されているからです。

ほとんど論理すらも意識することなく、自然に受け入れられるのか無理があるのかという感覚だけで、コミュニケーションが取れていきます。


そこでは、現場感覚が共有されることになりますので、環境への適合においてよりよく適合するための思考が自然に行われます。

放っておいても自然と現状改善の方向に思考が向かっているのです。


日本語の思考に一番合わないことが、無理に大きな目的を持たせられることです。

その達成のためにどうしたらいいのかを考えることは、その思考自体に不自然さを感じてしまうのです。

ただし、欧米型の組織や評価基準のなかで生きていく場合には、その不自然さを乗り越えなければいけません。


不自然さを感じていても、その論理をそのまま受け入れることができるのも、日本語の特徴です。

それは、環境に対する適合の一つとして行われることです。

しかし、そこにはどこかに不自然さを抱えていますので、少なからずストレスがたまっていくことになります。

欧米型の組織における人事考課についても、個人の可能性や潜在力についての総合評価が必ず含まれているのは、そのようなことからだと思われます。

日本語による思考では、目的の設定とそれに対しる達成だけでは、あまりにも不自然なものとなってしまうのです。


日本語の特徴を、バランスと呼ぶことも可能だと思います。

常にあらゆるところでバランスを取っており、そのバランスのとり方は自分が適応し変化することによってバランスを取っていることになります。

絶対的な個があり、個を磨くことによって、自己主張をして存在を知らしめていく欧米型言語との大きな違いがここになります。


彼らの場合は、周囲と異なる自分を強調しその存在価値を高めるために自己研鑽をします。

日本語の場合は、より周囲との関係を大切にし、より協調できるようにするために自己研鑽をします。


なりたい自分を置いて、そこに向かって最短距離を走ろうとするのが欧米型言語の思考であり、どんな環境においても適応して協調できる自分を作ろうと知るのが日本語の思考なのです。

明確な目的が次から次へと設定されており、それを達成していくことが一番大切であった環境が20世紀でした。

この時は欧米型の言語が一番自然に活躍できた環境です。

英語が世界の公用語になっていったこともわかるような気がします。


彼らの拠り所であった、自然科学の分野においても「ゆらぎ」や「あいまい」が発見されてくると、論理だけでは説明ができなくなってきました。

明確な目的が設定されにくく、しかもそこへ至る過程が明確に描けなくなってきました。

今の環境を維持することがきわめて難しくなってきました。

達成された目的は、次の瞬間には目的とはならなくなってきました。

また、達成の過程において既に目的とはなり得なくなってきました。


どちらかを選択するということではありません。

日本語自体の中にも、日本語で理解された欧米型言語がたくさん入ってきています。

日本語はそれができる言語です。

感覚としても、欧米型の言語の感覚に慣らされてきています。


しかし、日本語にはひらがながあります。

和歌があります。

これが日本語の一番の基盤になったところで、継承され続けています。


もっと日本語の感覚に自然になってもいいのではないでしょうか。

欧米型言語が現在の環境において抱えている矛盾を、日本語感覚は変えられる可能性をたくさん持っていそうです。


青色発行ダイオードの発明がノーベル物理学賞を受賞しました。

受賞者たちの英語が沢山流れました。

見事なジャパニーズ・イングリッシュでしたね。

日本語思考がそのまま英語になっていました。

完全に日本語で思考がなされていることを物語っていると思います。


表現するためだけに英語が使われていることがよくわかります。

天野先生も中村先生も、見事な日本語型英語でした。

英語としては、決して欧米型の言語としてのものとは異なるものとなっていました。

それを世界の前で堂々と使えるのです。


実は英語そのものに、人前で平気で話しができるチカラがあるのです。

下手な英語であっても、日本語を使うよりは人前で恥かしく思わないようになっているのです。

アクションもたくさん出てくるのです。

試しにやってみてください。


日本語にももっといろんなチカラがありそうですね。

自然に日本語を使うことによって、そのチカラの恩恵にあずかってしまいましょう。





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