日本語を母語としている私たちには、他の国の言語で表現された論理を理解はできても、なんとなく不自然さを感じることがよくあります。
それは、現実には疑問とまで明確に言えるものにはなっていないと思われます。
どこが疑問点だかわからないが、なんとなく不自然さを感じるようなものです。
この不自然さは、意味もない不都合さであったり受け入れ難さであったりする感覚的なものです。
それでも、日本語の感覚の中では、分からないものを分からなものとして理解したうえで、受け入れることができるようになっています。
特に、自分の判断ではなく、世間的な評価や権威者の評価が高いようなものは、よく理解できなくともそのまま受け入れる傾向にあります。
これは、自分が所属したり共有したい環境への適応として行われているのです。
どんなに権威者による評価が高くとも、自分が属していたり共有したい環境に関係ないものであれば、思考や検討の対象とはしないし、受け入れることもしないのです。
日本語の感覚としては、すでに見てきたように、自分が共有したいと望む環境よりも現在の環境を大切にします。
現在の環境を壊してまでも、望む環境に飛び込んでいくことは選択しないのです。
日本語による思考を一番よく表しているものは和歌です。
日本語そのものが、言葉も文字も和歌によって磨かれてきたのですから、少し考えてみれば当たり前のことでもあります。
和歌は三十一文字のなかで、あらゆることを表現してきました。
和歌で扱われた主な内容は、古今和歌集の巻の構成をみるとよくわかります。
(参照:自然との共生を描き続けた和歌)
文化や思考の一番の基盤である、自然の捉え方や人とのかかわりについてのほとんどのことを和歌に見ることができます。
限られた文字数での表現は、文字にしてみたり歌として音に出された言語以外の、その場の環境までもを理解する必要があります。
更には音技術や文字技術などの表現技術によって、省略や短縮が行なわれていることを自然に感じ取らなければなりません。
一つの言葉に複数の意味を持たせた掛詞(かけことば)は、単に言葉だけで理解しようとしても難しいものがあります。
その歌が詠まれた環境を理解し共有することによって、詠み人との同化をすることによって、初めて理解できるものとなっています。
日本語の特徴の一つに、環境を共有する人物との同化があります。
そうなると、「わたし」も「あなた」もなくなるのです。
主語の省略が多いことは、同化を容易にさせていることにもつながっているのです。
日本語の感覚は、その場の現場感覚のなかで一番効果を発揮するものです。
したがって、過去の記録を取り上げる場合には、その記録だけではなく書かれたり記録されたときの環境を理解することが大切になるのです。
日本語は環境言語です。
同じ事実であっても、共有している環境や同席している人間、そこにおける人間同士の関係性などの様々な条件で表現がすべて変わってきます。
環境によっては、あえて主語や述語の入れ替えや省略が行なわれることもしばしばです。
掛詞に代表される表現技術は、単なる表現技術の粋を越えて、日本語そのものの感覚となっています。
これが、言葉遊びともなっていき、なぞかけともなっていきます。
現代流おやじギャグもその一つでありますし、サラリーマン川柳などはその典型でしょう。
駄洒落などは、掛詞だけを抜きだしたものです。
駄洒落やおやじギャグで最も大切なことがあります。
それは瞬発力です。
共有している環境において、今そこにある言葉をとらえて、最適の瞬間に放たなければなりません。
どんなに技巧的に優れていようとも、タイミングを逃してしまったら役に立たないのです。
一見しただけでは関係なさそうなものを一つにしてしまうことを、意識せずに日常的に行っているのです。
しかも、欧米型の分類による見方ではなく、関係性に置いた見方をしていますので、合わせてしまうもの同士の分野の制限がありません。
これってどこかで聞いたような発想法ではありませんか?
そうです、ハイブリッド発想です。
日本語は自然に使っているとハイブリッド発想になるのです。
商品の中身と梱包の関係もそうです。
キッチンで使うラップは世界中で使われています。
商品は中身のラップですが、きれいに切れないし、くっつきやすくて使いにくいものです。
梱包は箱です。
日本のラップは、世界一使いやすいラップとなって高い評価を得ています。
本来は中身の商品保護のための梱包である箱に、カットとエンド処理の機能を持たせたのです。
サラン樹脂の開発は、もちろん日本ではありませんが、このカット機能によって日本のラップは世界の台所の必需品であり憧れの商品となっているのです。
ハイブリッドを挙げていったらきりがありません。
なぜ、日本以外の世界ではハイブリッド型の商品開発がこんなにも少ないのでしょうか?
日本では当たり前のハイブリッド発想は、彼らの言語では極めて難しいからです。
何回か取り上げた、日本独特の発想法であるKJ法やNM法は、まさしくハイブリッド発想を刺激してるだけのことなのです。
環境に適応するために変わらなければならいことがあります。
日本語の感覚は現場感覚ですので、適応するための要素を一度にたくさん抱えています。
自然にそれらの合わせ技を考えることになるのです。
その合わさったものが決して求めている環境適応とは限りません。
ところが、見るべき環境を変えれば、とんでもなく役に立つことがあるかもしれないのです。
現場からの発想が、日本語の感覚です。
その結果は、定めた目的を超えることがあるのです。
先に厳格な目的を決められると、ハイブリッド発想が制約を受けるのです。
日本語感覚による思考には、目的がない方がより自然な思考ができることが多いのです。
ハイブリッドで思考していくことが自然ですので、無理やりにでもハイブリッドのパターンにしてしまえば、思考がスムースにいくことになります。
選択肢を一つに絞ることではなく、複数選んで組み合わせることをしてみると、思ってもいなかったようなものが出てきます。
欧米型の定めた目的に対してベストの選択を繰り返していくことは、日本語を母語としている者にとっては一種の苦痛となっているのです。
この思考作業そのものがストレスの原因ともなっているのです。
この欧米型思考がほとんどの企業や組織体で採られています。
欧米企業に比べて、日本企業でのストレス障害やうつ病、精神障害外の発生が異常に多いのは、こんなことも一つの要因ではないかと思っています。
日本語で自然に思考してくことは、欧米型の論理では説明がつきません。
そもそも、日本語でも説明がしにくい感覚的なものです。
否が応でも、欧米型の思考パターンを押し付けられる場面もあります。
それでも、日本語による自然な思考について知っておくと対処しやすくなるのではないでしょうか。
覚えておいて損はないですね。
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