このことは、義務教育である中学を修了しても日刊紙を読んで理解することができない者が大多数である実態が物語っていると思われます。
日本においても中国においても、中学卒業時点で日刊紙を読んできちんと理解できる者はほんの一握りであるようです。
簡単に一括りにはできないことは承知の上で敢えてその難しさの原点に迫ってみるトライをしてみます。
中国語と日本語の共通は漢字という文字にあります。
もとは漢語として中国で生まれたものを日本が流用して今の日本語の基本を作りました。
そのまま使っていたとしたら全く同じ言語圏ということが言えたのでしょうが、漢語を導入した時点で文字のない言語である「古代やまとことば」を持っていたことで日本独自の漢語の利用が始まりました。
ここで、それぞれの国の小学校六年間において一体どれだけの漢字を教わるのかを見てみたいと思います。
参考に台湾の小学校も加えてあります。(2015年時点の調査だそうです)
- 中国の小学校・・・4,718字
- 台湾の小学校・・・3,000字(香港も同じだそうです)
- 日本の小学校・・・1,006字
また、日本語には訓読みという読み方もあり一文字一音となっていない点も考慮する必要があるのでしょうね。
新聞の日刊紙が社会における必要な標準的な表記であるとしたら、これだけの漢字を習った上にさらに中学での漢字を加えても理解できない者のほうが多いことになります。
ともに義務教育は六歳(七歳)から十五歳までが標準となっています。
外国語という教科はあったとしてもその教科を理解するための授業はすべて国語で行われており、義務教育の間はずっと国語の習得をしていると言ってもいいと思います。
十年近くも毎日のように触れながらも簡単には習得できない言語であると言い切ってもいいのでしょうね。
人が使用する言語には昔から使う人が受けた教育のレベルが反映されていると言われてきました。
同じ言語であっても使用されている環境によって微妙に異なった使われ方があるのが当たり前の状況です。
場合によってはその環境に属していることの特殊性を強調したり差別化するために、あえて標準的ではない言葉の使い方をしていることもあります。
芸能界における独特のサカサマ言葉などはその典型ではないでしょうか。
その環境や立場にあこがれたり味わってみたい者は言葉だけでも模倣しようとして使うことになります。
したがって、その人が使っている言葉をもとにして個人としての教育レベルや基本的な能力までを判断する材料としてしまうのは仕方のないことだと言えます。
しかし、一つの判断材料とはなりますが決してすべてではありません。
むしろ、使っている言葉によって相手を判断することは私の経験上では誤った先入観を植え付けていることのほうが多い気がしています。
それでも、ひとを判断するときのひとつのわかりやすい基準であることは確かだと思われます。
国立大学に日本語学の教授として招かれたアメリカ人が役所に行ったとき、手続き上の内容はすべて理解できているのに子供のような扱いを受けて馬鹿にされているような気分を味わった話を聞いたことがあります。
発せられているレベルの日本語から判断して、その人が理解できている内容に置き換えてしまったことによって起こったことだと思われます。
どのような能力を持った人や教育レベルを持った人はどのような日本語を使うことができるのかといった基準が日本語にはないようです。
彼らが母語で行なうことができる思考や理解を母語ではない日本語で表現するためにはかなりのレベルの日本語能力を必要としますが、その基準は一般的な日本語母語話者には分かりません。
日本語母語話者同士のレベル判断よりも多少甘めに行なっている程度ではないでしょうか。
見た目が明らかに日本語母語話者ではない場合はある程度の心づもりができますが、ぱっと見では日本語母語話者に見えてしまう場合にはその日本語に対する基準が期待を込めてしまうことを含めてどうしても高くなってしまいます。
期待をする分だけ実際とのギャップをより大きく感じてしまいますので評価が下がります。
日本語が話せないだろうと思われる明らかな欧米人に比べて、日本語が話せそうと思われる東洋人に対しての評価が厳しくなってしまうのはきわめて自然なことなのです。
ところがこのことは、その人の本当の能力や専門分野に対して誤った先入観を植え付けてしまうことになりかねません。
場合によっては真のパートナーとなれる人を門前払いしている可能性があることになります。
日本語の場合は習得の壁があまりにも高いために、段階を追った習得のレベルというものを感じることがとても難しいものとなっています。
また、数多くの外国語話者が活躍しているにもかかわらず彼らに対しての段階的な日本語習得のレベルというものが周知されていません。
さらには、私たち日本語母語話者自身が実際に使える日本というものに対して考えたり感じたりすることがほとんどないので基準が作れない状況となっています。
母語話者はその使い方において感覚的に身についてしまっており、習得のステップなどを意識することがほとんど必要なかったことも要因だと思われます。
思考や論理については難しくなればなるほど母語で行なわれることが多くなってきます。
母語で行なわれた思考や理解を少なくとも何とか伝えることができる「使える日本語」が必要ではないでしょうか。
義務教育で十年近く毎日のように習ってきても新聞が理解できない「国語」ではない日本語が必要だと思います。
より簡単に習得することができて、日本語以外の母語として理解していることを何とか伝えることができる「日本語」です。
これは、逆の面からみれば日本語母語話者が他の母語話者に対して理解してもらうために使うことができる日本語ということができます。
いいかたを変えれば他の言語との接点としての世界レベルの日本語ということになります。
日本語は文字を理解し習得しようとすると漢字というそそり立つ壁に阻まれて簡単にはいきません。
この漢字の存在が日本語の習得を難しくしている一番の要因です。
ところが、話し言葉としての日本語はどうでしょうか。
音としては「ひらがな」の音しかもっていないのが日本語です。
漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットなどの多くの文字を持っていても、話し言葉としては「ひらがな」の一種類しかないのです。
しかも、このひらがなの音の数は現存する言語の中でもきわめて少ない音数となっているのです。
(参照:日本語の音)
話し言葉としての日本語はけっして習得するのに最高レベルに難しい言語ではないく、むしろ易しい部類に入るものとなっています。
これを利用しない手はないですよね。
しかも、言語情報については聴覚によって取得されている分が80%以上であるという研究があります。
他のほとんどの情報の80%以上が視覚から取得されていることに比べると、ますます可能性が見えてくるのではないでしょうか。
話し言葉に絞った時の日本語には今よりもずっと取り組みやすいアプローチがありそうです。
しかも、その姿のほうが話し言葉しかもっていなかった日本語の原点により近いものとなっているのです。
より簡単により本来の日本語の感覚を知ることができるかもしれないです。
こんなところから「使える日本語」を眺めてみると意外と手の届くところにあるのかもしれないですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。