文字としての漢語が伝わる前から音だけの「古代やまとことば」としての原始日本語が存在していたであろうことは何度も触れてきました。
だからこそ、漢語が導入されたときにその文字の持つ意味と同じような意味を持つ「ことば」が訓読みとして充てられたことになります。
漢語が伝わる前にどれだけの音しかない「古代やまとことば」が存在していたのかは、今となっては確かめることができません。
それは訓読みの中にも「馬」や「梅」のように漢語の読み(音読み)である「マ」「メイ」から派生した「うま」「うめ」のような例があるからです。
(参照:日本語ではなかった「馬(うま)」と「梅(うめ)」)
そのためにすべての訓読みが漢語の伝わる以前に存在していた「古代やまとことば」とは限らないことになります。
現在使われている訓読みからこれらの分類することはかなりの困難を伴う作業でもあります。
漢語においては文字が異なるということは違ったことであることを意味します。
「書」と「描」との違いは「飛」と「寝」との違いと同じことになるのです。
むしろ「描」と「猫」のほうが近い関係ということになります。
「かく」という動作を表す「ことば」に充てられている漢字は「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などがあります。
つまりは漢語が伝わる前には「かく」という音しか持たない「ことば」はこれらの漢字の意味をすべて包括的に持っていたことになります。
「古代やまとことば」が持っていた意味はとても広い意味があり「かく」の中での意味を分ける必要がなかったのではないかと思われます。
漢語が伝わってきたことによって日本で使っていた音しか持たない「ことば」としての「かく」にも多くの区別があることが確認されていったのではないでしょうか。
文明の高さのレベルはその文明が持っている言語の語彙の多さに比例するようです。
そしてのその文明が得意とする分野においては一段と細かいカテゴリが設定されておりより多くの語彙を持っているものとなっているようです。
文明の垣根がほとんどなくなった現代においても、言語によって特定の分野において持っている語彙が大きく異なっていることがきわめて基本的な言葉においても確認することができます。
たとえば、人が移動するときの様子(速度)を表す基本的な言葉は日本語では「あるく」「はしる」の二種類になります。
この言葉は極めて日常的に同じように使われており、これらの言葉をさらに形容して様々な移動する様子を表したりするものとなっています。
つまりは、日本語の文明においてはひとが移動する様子(速度)を表す区別は、この二つしか必要としていなかったことが伺えます。
「かける」という言葉がありますが、これは動物対して使われる言葉であり人に対しては用いないのが本来の使い方となっています。(現在ではひとに対しても使っていることもありますね)
同様に英語を見てみましょう。
同じカテゴリの言葉として walk, jog, run, sprint の四つの言葉が日常的に使われています。(dashのほうが私たちには馴染みがあるかもしれないですね)
英語を母語として使用している人にとっては教わらなくともこれらの違いは感覚的に理解されており使用場面を間違うことはありません。
英語の文明においては日常的に人の移動する様子(速度)を表すのにこれらの言葉を使い分けることが行われてきたことが伺えます。
あえて当てはめてみようとすれば「あるく」= walk、「はしる」= jog, run, sprint となるのでしょうか。
英語の文明においては日本語の「はしる」を細分化して表現することが日常的に行われていたのでしょうね。
(参照:「あるく」と「はしる」)
新しい文明は新しい言葉とともにやってきます。
日本語は「古代やまとことば」をベースに新しい言葉を作りながら新しい文明に対応して受け入れてきました。
その意味では、漢語が伝えられる前の日本にはきわめて基本的な動作や物を表す「ことば」しかなかったのではないかと思われます。
一つひとつの日本語の「ことば」が持っている意味もとてもふところが広いものですが、新しい文明(言葉)をどんどん受け入れることができる日本語の環境そのものもとてもふところの広いまた深いものではないでしょうか。
本当に基本的な少ない言葉しかもっていなかったからこそできたことかもしれませんね。
しかも、新しい文明に対応する新しい言葉は漢字、アルファベットを中心に作られていきました。
さらに音だけ利用とした場合にはカタカナという技を繰り出していったのです。
日本語の原点としての「やまとことば」は「ひらがなことば」として新しい文明によって一切侵食されることなく継承されてきているのです。
新しい文明という環境に対応する高い適応力を持ちながらも、自らの基本的な感覚は一切失うことなく数千年を継承し続けていることになるのです。
最近では外来語である漢字やアルファベットが利用される場面が多くなっていると思われます。
日本語本来の感覚を見失わないように、またしっかりと子供たちに継承してけるように「ひらがな」のチカラを改めて見直してみる必要がありおそうですね。
日本語のふところの広さの原点が「やまとことば」(「ひらがなことば」)にあると思われます。
日本文化の感覚そのものはすべて「ひらがなことば」で表現して伝えていきたいものです。
それこそが世界における大切な多様性の中で日本文化が生かせることではないでしょうか。
2020年に向けてますます海外の文明と接する機会が増えてくると思われます。
迎合することではなく、しっかりとした日本語文化で対応して受け入れていきたいものですね。
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