第三段階の「利く」までは、話し手の発する言語の音としての情報をどれだけ精確にキャッチできるかということが中心の活動でした。
第二段階の「聴く」で行なうことができた音としての言葉の同定は、第三段階の「利く」によって行なわれた活動によって修正されたり補われたりすることもあります。
(参照:「きく」の五段階活用・・・聴く)
聴いて言葉を理解したことによって利いて理論を理解できることになるのですが、それは同時に利いて理論を理解することによって一度行なった言葉に対しての理解を修正したり補強したりという双方からの活動が行なわれていることになります。
「利く」によって行なわれた活動はまさしく文字通りの言葉の意味から話し手の伝えたい内容や理論を理解しようとする活動です。
単なる解説や説明であればこの段階で十分目的を達成していることになります。
そこでは言葉の意味や理論だけを理解してもらうことが目的だからです。
いわゆる、客観的・具体的に伝えようとする話し手の姿勢に対して応えることができる限界がここまでだということになります。
ここから先は言語として表現されていること以外の「きく」ことが必要になる段階になります。
しかし、話し手側がそのことを求めていない場合には全く無駄な活動となることにもなりかねません。
感情や意見を排除した客観的・具体的な事実のみを伝えようとしている場合などがこれに当たるのではないでしょうか。
ところが、ほとんどの場合は話し手は何らかの意図をもって伝えています。
実際に伝えている内容が客観的・具体的な事実だけであったとしても、その事実を理解してもらったうえでどのようにしてもらいたいのかという意図が存在していることがほとんどになります。
人の話を聞くときによく言われる「話し手の気持ちを理解する」「話し手の意図を理解する」ことは常に求められていることだと思われます。
そのことをして「行間読む」「一を聞いて十を知る」などという表現が行なわれているのではないでしょうか。
したがってこれらのことを理解するためには「ひらがなの音」として伝わってきたものに対して今までのような言語上の受け止め方(解釈)だけをしていたのでは難しいことになります。
もちろん、理解するためには推測をしなければなりませんがその推測のための根拠も「ひらがなの音」にしか存在しないことになります。
そこでは、言語としての「ひらがなの音」とは異なった捉え方をしないと難しいこととなります。
一部では、言語としての言葉の使い方の中にも話し手の気持ちや意図を推測できる場面もありますが、その大半は「ひらがなの音」を発している感覚やニュアンスと言われるものの中から感じ取ることになります。
つまりは、話し手が発している「ひらがなの音」がきき手にどのように効いているのかを感じ取ることが必要になることになります。
言い換えれば、話し手の発する「ひらがなの音」をどのように「効く」ことができるのかということになります。
これこそ、決まりきった効かせ方があるわけではありませんし話し手が想いを込めた効かせ方がきき手にそのまま伝わることもほとんどないことだと思われます。
きき手としては伝わっているものは「ひらがなの音」だけですのでそこから推測することしかできません。
そのために少しでもほかの情報を得ようとしますので、話し手の「ひらがなの音」がどのような間やアクセントで発せられているかやどのような顔つきや態度で発せられているのかまでも推測の根拠として利用しようとします。
一般的には非言語による伝達手段と呼ばれているようなものではないでしょうか。
実際には「ひらがなの音」は言語による伝達となるのでしょうが間のとり方やアクセントなどはどちらに区分されるものか分かりにくくなりますね。
現実の「ひらがな音」による伝達の中でも「利く」で参考にした接続詞や助詞の伝わり方も話し手の気持ちを推測するのには大いに役に立ちます。
述語の最後の言い回しである「・・・である」「・・・ではないでしょうか」「・・・だと思われます」「・・・だといいですが」などには話し手の気持ちが多分に含まれているものではないでしょうか。
「人の話しは最後まできちんと聞け」という教訓は話し手の気持ちを推測する手掛かりが文章の最後にあることが多いことから来ていることでもありそうです。
人の話しから具体的な言葉や理論を理解するためには必ずしも最後まで聞かなくとも十分可能なことでもあります。
しかし、話し手の気持ちを推し量ろうとすれば話しの最後のニュアンスはとても大切な手掛かりなっているのです。
「効く」という知的活動は、話し手の気持ちを推測するために行なわれるものとなります。
話し手が駆使する「ひらがなの音」を伝えるための工夫がどのように効いているのかやその時の態度がどんな気持ちを表しているのかは「効く」というスタンスを持っていなければ受け取りにくいものとなります。
話し手の気持ちは話している間中常に一定に保たれているわけではありません。
喜怒哀楽だけではなくさまざまな複雑な気持ちや感情が常に変化しながら存在していることになります。
その気持ちは話の内容に対してのこともあるでしょうし話している環境やきき手に関すること場合もあると思われます。
あるいはまったく心ここに非ずという話の内容にも場にも関係のないことについての場合もあるのではないでしょうか。
時には話し手の発信する具体的な「ひらがなの音」を通しての言葉として心情を伝える場合もあるのではないでしょうか。
「利く」によって行なわれた言語上の解釈や論理や内容の理解は、「効く」によって強弱を与えられたり重要度を与えられたりあるいはわざと反対のことを強調するために利用されていたりすることを推測することができるのです。
ここは、まさしくきき手が推測で行なっていることであり話し手の気持ちと合致することが難しい段階でもあります。
言語的な理解や論理が理解できたとしても、「言いたいことが分かっていない」などと言われるのはこのような場面です。
もっとも、話し手の伝え方がきき手の推測をミスリードするような場合も決して少なくはないと思われますが。
気持ちを表に出しながら話をする人の方が表面的には理解しやすいのは間違いありませんが、今度は見た目の表現に誤魔化されてしまうことも起こることになります。
まさしく詐欺師が得意とる表現方法ということができるでしょう。
淡々とあまり気持ちが表面に出ない話し手が稀に見せる気持ちを込めた表現はそれだけでインパクトがあり込められた気持も受け取り易いものとなっています。
安易な感情表現の安売りは決してきき手の解釈の助けとはならないようですね。
この段階で最終段階の「話し手の本意をきく」も可能になってくるのではないでしょうか。
しかし、どこまで行ってもこの段階ではきき手の推測でしかありません。
その推測を少しでも確信としての理解に近づける活動が必要になります。
それが第五段階としての「訊く」になります。
次回は最終段階としての「訊く」を見てみましょう。
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