2016年3月10日木曜日

日本語の読み方聞き方

日本語の究極的な読み方と聞き方は使い古された言葉で言うことができると思います。

読み方としては「行間を読む」であり、聞き方としては「一を聞いて十を知る」ではないでしょうか。


「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」とは実際には文字や言葉になっていないことまでも読み取ったり聞き取ったりして理解しろということになります。

そこに実際に表現されていないことを読み取ったり聞き取ったりすることは現実には不可能なことであり、一つの例えとして取り上げられていることになると思います。

では、「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」において求められていることはどんなことなのでしょうか。

日本語独特の感覚がここには込められており、文字通り言葉通りに解釈してしまってはいけないという教訓を含んでいるものではないでしょうか。


言語による表現をすべてとしている外国人などにとっては、言語として表現されていること以外のことを求められていることをとても不思議に思います。

何のために言語で表現し記録として確認し合うのかが分からなくなってしまうからです。

しかし、そんな彼らも実際のコミュニケーションにおいては日本語話者と同じようなことをやっていることがあります。


それが、ボディランゲージと言われる話をしたり聞いたりしているときの態度から感じ取れることであったり書かれている内容からその環境を創造することであったりします。

国語の長文読解においてよく問題に出されることが、作者の気持ちや作者の置かれた環境を推測して確認する内容です。

このことがすなわち「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」になっているのではないでしょうか。


ただし、言語による表現を重視する英語文化圏などと比べると、読んだり聞いたりしている内容に対しての信頼性の度合いが異なっているということではないでしょうか。

日本語の感覚では「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」が求められる環境においては実際の言語になっていることの正反対を求めていることが多くなっていると思われます。

英語文化圏においては情報を補足する能力は求められることはあっても実際の言語になっていることの正反対のことを求められることはほとんどないと思われます。


結果として、日本語の環境下においては相手の「行間を読む」「一を聞いて十を知る」能力に期待することが当たり前となってしまうために、どうしても言葉が足りないことや理解させるための説明不足が起こることになります。

さらに、受け手の方でも聞き直したり追加説明を求める行為が「行間を読む」「一を聞いて十を知る」能力の欠如を相手に示すこととなってしまうために恥かしい行為であると受け止められてる現実もあります。

そのために、伝えるための能力を磨くことよりも受け手として理解するための能力を磨くことを求められることが多くなっていると思われます。


国語の評価として求められている能力についても、言語を使いこなして自分で表現をすることよりも誰かが表現したものに対して解釈して理解することが重要視されています。

実際には言語として表現されてないことを推測することになるわけですが、そこでも自分勝手な推測は許されていないのが現実です。

表現されていないことを理解するためにも一定の決まりとルールに基づいてやり方が決められているのです。

文学作品などは本来は読み手の自由な解釈と推測が許されてよいもののはずですが、実際には解釈の仕方や内容までもが規定されているのが現実です。

その内容にそぐわない自分勝手な推測は、国語の問題としては評価されないことになっているのです。

「こころ 夏目漱...」の画像検索結果
推測をするにも実際には言語化されている表現に根拠を求めることになります。

言語化されている表現においても作者の気持ちや置かれている環境を表しているものは漢字やカタカナ・アルファベットで表記されている名詞であることはほとんどありません。

気持ちや環境についてのニュアンスは感覚としてひらがなで表現されている助詞や副詞や接続詞であったり形容詞や動詞の語尾変化の言い回しに現れていることが多くなっているのです。


このことを分かり易くするには、書かれている文章からにら仮名を消してみることをお勧めします。

名詞と語幹しか残らないことになります。

ひとつずつの単語としての意味は理解できたとしても、単なる単語の羅列であり言いたいことや内容を把握することができません。

反対にひらがなだけを残してみると対象となる物が分からないだけで、言いたいことや伝えたい感覚がとてもよく理解できることが分かると思います。


見知らぬ言葉や聞きなれない言葉にはどうしても意識がいってしまいますが、それらは名詞であり「行間読む」や「一を聞いて十を知る」にはほとんど役に立っていないのです。

名詞同士をつなぐひらがなであったり最後の言い回しであったりするところに作者の意図が現れてくることになるのです。

それも日本語の使用環境においては場合は明確な意図を言語で表現することを善しとしません。

自分の意思を明確に表現することを善くないこととして評価する文化があります。


そのために、回りくどい表現や抽象的な表現を多用することになります。

結局は読み手や聞き手の解釈能力に期待することになるのです。

しかも、日本語を使っていることだけである程度の能力を備えた者であることが当然のように前提とされているのです。


そうはいっても徹底的にこの能力を活用して理解しようとすると、場合によっては深読みとしてかえって嫌われることにもなることになります。

国語で取り上げられる文学作品の多くは作者はすでに亡くなった人です。

環境や評価もほぼ固定したものとなっている場合が多くなっています。

つまりはそれなりの権威者が作り上げた状況が、定説として決まったものとなっていることになります。

だからこそ国語の問題として成立して、定説としての正解との比較ができることになります。


本人はそのつもりではなかったとしても否定できる立場にいないことになります。

本人の気持ちや意図を確認することができない状況で成り立っている推測と評価ということになります。

有名な文学作品はほとんどがこのような状況にあるものだと思われます。


自ら表現することよりも表現されたものを解釈することの方が評価をされるという不思議なことが起こっているのではないでしょうか。

その分、表現者の能力においてはとても寛容であるということができます。

読み手や聞き手の解釈能力が要求される日本語の環境においては、発信するための能力はさほど高くなくとも済んでしまうことになります。

言い換えれば、英語環境などの発信技術の高い言語環境に比べるとかなり低い表現能力を受信側の解釈能力によって補っているというこになります。


読み手や聞き手としての注意力を発信するときに生かすことができれば、もっと理解しやすい内容で伝えることができると思います。

ところがやってみると、これが意外に難しいことが分かります。

というよりも、発信するときにはほとんど受信側のことを意識することができないことが分かると思います。

基本的にやっている活動が違うのではないかと思っています。

何とかこれだけ高い受信能力を持っているのを生かしてみたいものです。



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