2015年11月9日月曜日

話し手の言葉と聞き手の言葉

話し手と聞き手の間で交わされている日本語において、伝えたいと思っている内容と実際に受け取っている内容でどれだけ認知としての差があるかを考えてみました。

30年以上夫婦として生活してきている我が家においてもこのズレは頻繁に見ることができます。

お互いに「そのくらい分かっているだろう」という自分勝手な思い込みがありますので、伝えている方にしてみたら「なんでそんなことなんで分かってくれないのか」という感覚があるものです。


「おーい」と言ったニュアンスの違いだけでお茶が出てきたり新聞が出てきたりするテレビを見たことがないでしょうか。

夫婦のコミュニケーションの究極の姿として扱われていた記憶があります。

そんな関係でもない限りはしっかりとした言葉でコミュニケーションをしないと伝えたい内容は正確には理解されないものです。


この時に起きている話し手と聞き手の認知の違いを生んでしまう大きな要素が二つあるのではないでしょうか。

一つは伝えたいと思って発している言葉と受け手がその言葉に対して持つイメージが必ずしも同じになるとは限らないことです。

伝える方はその言葉に対して持っているイメージとして漢字で理解していたとしても、受け取る側は漢字で受け取ることができないからです。


聞き手の側はすべての言葉に対してひらがなの音としてしか受取ることしかできません。

発信する側はその言葉のイメージとして漢字やアルファベットや省略形や自分の持っているものでイメージをしていますが、話し言葉として相手に伝わる場合にはすべてがひらがなの音としてしか伝わらないことを意外と忘れているのです。

とくに同じような生活環境にある者同士にとっては、普段使っている言葉も同じものばかりで馴染んでおりひらがなの音だけで伝わっていても同じイメージを持つことができる言葉が多くなります。

話し言葉だけで同じイメージを認知できることが増えると余計にそのことに慣れてしまうために、受け手の側がひらがなの音だけで受け取っていることを忘れてしまいがちになるのです。


同音異義語の勘違いが典型的な例になるのではないでしょうか。

「換気してみようか」という発信は受信側には「かんきしてみようか」として受け取っていることになります。

受け手側はたくさんある「かんき」の中から、前後の言葉や雰囲気など直接的な「かんき」以外の情報から判断しなければなりません。


自分は「換気」として発信しているつもりであっても相手には「かんき」として伝わっていることを分かっていれば、「かんき」を「寒気」や「歓喜」などではなく間違いなく「換気」として認知してもらうためのフォローができることになります。

全ての言葉において多数の同音異義語が存在していれば必ずこのようなフォローが必要になると思われますが、実際にはフォローを必要としないで同じ認知に至っていることの方が多いわけですのでついひらがなで伝わっていることを忘れられてしまうことになると思われます。


また、このようなことは頻繁に指摘されているために受け手の側でも直接な言葉以外の態度や状況などの情報をもとに推測しようとすることに慣れているのです。

またはそのように教育されてきたりしてます。

多くの経験によってより的確な確率の高い推測ができるようになっていきますので、ますます発信している方はひらがなの音だけで伝わっていることを忘れてしまうことになります。


更には、「以心伝心」や「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」などの行為を尊ぶ風土があるために、多くを語ることをしません。

少ない言葉から発信者の意図を推し量ることを善しとする精神文化がありますので、発信側よりも受信側の負担が多くなっているのも発信側がひらがなの音でしか伝わっていないことを忘れてしまう原因になっているのではないでしょうか。

実際の場面では話をしている内容の方に意識が集中してしまっているので、ひらがなの音だけしか伝わっていないことを考える余裕はないと思われます。


もう一つはひらがなの音だけで同じ言葉をイメージできたとしても、その言葉が持っているカテゴリーがお互いの間でズレている場合です。

具体的には、「タロウ」という言葉をお互いが固有名詞だと認知したのですが、発信側としては人の名前として認知して発信しているのに受信側では犬の名前として認知しているようなことです。

「タロウ」という言葉についてはひらがなの音を通して固有名詞としての共通の認知ができているのですが、認知ができた固有名詞についての属性が違っているために必要な認知に至っていないことになります。

具体性や正確性を求めた時に起こることが多くなっています。


これはひらがなの音としての言葉は共通の認知が出来たとしても、その言葉に対しての自分の持っている属性がお互いに一致していない場合に起こることです。

世代の差や専門分野の違いなどによって起こることが多くなると思います。


「ポメラニアン」という言葉を発信した側は犬種として具体的なイメージをして伝えています。

受け手は音として間違いがなければ「ぽめらにあん」として受取ります。

これが犬種としての「ポメラニアン」をもともと事前に認知していなければ言葉としては認知しても何のことだかわかりません。

つまりは犬であることもわからないことになります。

共通の認知をするためには発信側が「ポメラニアン」と同時により一般的なカテゴリーである「犬」を結び付けて伝える必要があるのです。


「ポメラニアン」は固有名詞ではありませんが、犬ほど大きなカテゴリーでもありません。

犬の中でも同じ特徴を持った種類に対してつけられたラベルとしての名称になります。

これが専門分野の人ならば更にその間にもいくつかの段階としてのカテゴリーがあるのではないでしょうか。


言葉としての認知ができたとしてもその言葉が話し手と聞き手にとって共通のカテゴリーにあるとは限らないのです。

「犬」という言葉に対しての認知がない場合にはさらに相手が認知できるカテゴリーに合わせる必要が出てきます。


つまりは言葉としての認知ができることと内容が理解できることとは異なった認知になっているのです。

言葉としての認知はあくまでも内容を理解するための手段にしか過ぎないということが分かるのではないでしょうか。

このことを持っている言葉の深度ということがあります。


人によって同じ言葉に対しても持っている深度が異なります。

同じ言葉であってもカテゴリーが異なっていることもあります。

その言葉がどんなカテゴリーのどんな深度に属しているのかは一人ひとり異なっていることになります。


したがって、伝えて理解してもらうという行為はまずは言葉としてひらがなの音として共有することから始まることになります。

言葉が伝わって初めてお互いのカテゴリーの中での理解が可能になることになります。

そこで初めて理解をするための調整という行為が可能になると思われます。


まずは、言葉としてしっかり認知してもらうためにひらがなの音で伝わっていることを忘れないことですね。

だから「現代やまとことば」としてひらがな言葉で伝えることが言葉としていちばん認知しやすいことになるのでしょうね。

難しい言葉をいくら使ってもひらがなとして自分で理解していなければ伝えることができないことになりますね。

やっぱり日本語の根幹はひらがななんですね。