日本語の特徴について曖昧さを挙げる人は多いと思います。
それは他の言を母語とする人たちにとっての印象から来ていることだと思われます。
とくに英語と比較しながら見てみると、持っている単語についてはほとんど対応していると思われます。
したがって、曖昧さの原因は単語として持っている言葉によるものではなく文としての構図によるものだと思われます。
そのことについては文の構造の違いについて検討してみた時にも感じることができたものです。
(参照:日本語の基本構造)
言語を越えて曖昧さの対象とならない言葉があります。
それはどの言語であったとしてもその言語が持っている音(発音)で使われるのが基本になります。
それは固有名詞です。
固有名詞については他の言語においてもどのように発音されているのかについても何通りかは分かっているのではないでしょうか。
それは、言語というカテゴリーを越えたところにある個体を示す記号の一種ではないでしょうか。
しかし、特に意識しない限りは一般的に使われている言葉と同様に使われているものです。
何かを間違いなく特定するためには固有名詞が一番役に立ちます。
人の名前などでは全くの同姓同名が存在したりすることもありますが、その固有名詞が使用されている場面では特定できているものと思われます。
つまりは、一つの個体を正確に示す言葉としては固有名詞にかなうものはないことになります。
少し突飛な発想をしてみます。
全ての言葉が固有名詞だったらどうなるでしょうか。
「ミケ」「ポチ」「タロウ」といったような一つの個体を指す言葉しかないことになります。
さて、個体としての「ミケ」「ポチ」「タロウ」とは何なんでしょうか。
何となく、猫ではないか犬ではないかと推測をすることは出来ますが、固有名詞として特定されている個体そのものを知らない者にとっては何の「ミケ」なのか、何の「ポチ」なのか、何の「タロウ」なのか分かりません。
つまりは固有名詞だけでは認識(認知)を共有することが不可能なのです。
ここで大切なのは、共通の認知ができる固有名詞よりも大きな概念としてのカテゴリーとしての言葉が必要なことが挙げられます。
それが「猫」であり「犬」でありということになります。
カテゴリーとしては一般名詞とでも呼ぶものになるのでしょうか。
このカテゴリーに様々な段階が存在しています。
犬においても犬種や血統産地などでのカテゴリーが存在していますし、犬よりもさらに大きなカテゴリーも無限と言っていいほど存在しています。
犬に対して興味を持たない人は、犬の更に細分化されたカテゴリーについてはなんことだか分からないことも多くなります。
あるいは、一部の犬種だけはそれとわかるものがあるかもしれません。
ほとんどの分野についてこのような状況にあるのではないでしょうか。
学習と経験によって言葉が増えていきます。
自分がかかわっている分野についてはより細分化された言葉が増えていくことになります。
好奇心や興味に対象によっては特殊な分野における言葉が増えていくことになるでしょう。
同じ分野を共有している者同士においてはより固有名詞に近い言葉によるコミュニケーションの方が適している場合があると同時に、相手の持っている言葉の深度が分からない場合には適しているカテゴリーがつかめない場合もあります。
ある分野における相手の持っている言葉の深度が分からない場合には、推測をしながら適当な深度の言葉を投げかけることになります。
この時にその言葉を受けて相手が感じることが、浅すぎる言葉であればバカにしているのかと感じることもあり深すぎれば自慢をしているのかと受け取ることもあることになるのです。
そして自分の持っている言葉の深度と合わないときに曖昧さを感じることになるのではないでしょうか。
離れていればいるほど大きな曖昧さとして感じることになると思われます。
さらに、分野によって持っている言葉の深度が大きく異なりますので相手だけではなく自分自身の言葉の深度も分かりにくくなります。
深度とは言っていますがあくまでも相対的なものであって何らかの基準があるわけではありません。
同じ日本語を母語として持っていてもそれぞれの人が持っている言葉における深度はすべて異なっていることになるのでしょう。
複数の人とのコミュニケーションにおいては共通の認知をするために選択する言葉がとても難しいことになります。
言葉によって得た認知においては自分のなかでその言葉が持っている深度の幅が出来上がっていると思われます。
人によって同じ言葉に対しても認知が異なってしまうのがこの事だと思われます。
「犬」という言葉で自分が認知したことは「チワワ」かもしれません。
別の人が認知したことは「動物」かもしれません。
「犬」という言葉自体が認知されているのはある幅を持ったものとして行なわれているのではないでしょうか。
それはその人独自の認知として犬という言葉によって導かれた「ことば」として認知されていると思われます。
言葉としての曖昧さはどんな場面でも存在しているものだと思われます。
その曖昧さが気になる場合にはその曖昧さをより狭い幅にするための言葉の深度の調整が行なわれることになります。
それは一方的には出来ないことになるのではないでしょうか。
目の前に相手がいない書物や論文などにおいても読み手を想定していないとできないことになります。
その場での検証ができない分、即時性には劣ることになってしまいます。
言葉の深度の調整が行なわれることで曖昧さの幅を狭くすることができるのではないでしょうか。
言い換えるとは言葉の深度を調整する行為だと思われます。
共通の認知に向けての曖昧さを感じることがなければ調整する活動は不要になります。
一方的な発信ばかりしていると曖昧さの確認ができる機会を失くしていることになります。
ネット上の発信は使っている言葉の深度よって対象者を限定してしまいます。
対面による即時性がないからです。
言葉の深度による曖昧さの調整は言い換えによって行なわれていることになります。
曖昧さを感じることがなければ言い換えは必要ないことになります。
共通した認知をしようとする必要がなければ曖昧さを感じることもないと思われます。
まずは共通した認知をして理解しようとして聞くことが始まりになるのでしょうね。
そこで感じた曖昧さを少しでも解消しようとすることで言葉の深度の探り合いが始まるのではないでしょうか。
同じような深度を持っている分野がわかると一気に理解が広がることになるのでしょうね。